先日スーパーマーケットで懸命に泣きじゃくっている子供を見た。
私の田舎では「やっしゃをきる」と言われていた。随分と子育てからは遠ざかっているので、一瞬「うるさいなぁ、何とかしろよ」と思ったが、その子供は大粒の涙を流して何かを訴えている。そして、その母親は、その訴えを無視して怒号叱咤している。言葉も汚いし心を突き刺すような言い方で子供を突き放したしなめている。その場面を見ていて私は子供の方が可哀想になってきた。
「泣く」と言うことは感情のほとばしりである。
感受性が優れていることの証しである。泣けるということは素晴らしいことである。泣けない人間は犬畜生にも劣る。泣けるような感情の起伏のある人間こそ理想的な人間でもある。その泣いている本人を前にして無視したり罵倒したり叱ったりしたのでは、大切な感情の起伏を強制的に消滅させてしまう結果となるのではないかと思う。これを繰り返すと無感動な子供に、成人に、大人になってしまうのではないかと危惧する。
この頃叱っても泣かない子供が増えていると言う。
それほど子供が無感動、無関心で、荒廃した社会環境が子供を泣けなくしている。泣いている余裕もないし、泣いても誰も手を差し伸べてくれないし、感情の起伏を表に出すことは弱点をさらけ出すことでもある。弱点に付け込む世知辛い世の中でもある。多分親も教師も世知辛い世の中に対応して子供を教育するのだろう。泣くべきところは無関心を装う訓練をずっと続けているのだろう。そんな子供が他人の悲しみを理解できなくなっている。
泣くべき時は泣くべきである。
少なくとも、人の死に際しては当然のごとく泣くべきである。人の死に際しても笑いを浮かべる人は心が病んでるか、死者に対する感情に尋常でない負の要素を抱いている。もしくは、人の死さえも無関心でいられる冷徹な鉄の感情を持った人間である。コンピュータ社会になってボタンひとつで何でもできるようになると、人のお世話になっている感謝の気持ちを忘れてしまうし、思いやりの気持ちも失せてしまう。そんな無感動な人間が増殖しているのかもしれない。
人間性をを判断する時、私は泣ける人を尊重する。
泣けない人にはろくな人はいないと思う。特に自分のためではなく、他人のために泣ける人を素晴らしいと思う。自分のために泣ける人は、他人の痛みも解るし、他人のために泣ける人は自分を捨てて他人を思いやる心を持っている。そして、わたし自身も他人のために泣ける人を目指して日々精進したいと思っている。
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