オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

ニワトリが先か卵が先か

2009年01月11日 | Weblog


あることを始めようとすると何らかの犠牲が必要になる。

 犠牲なしに何かが始まることはほとんどない。この犠牲を嫌がっていたらいつまで経っても新しいことは始められない。前向きで積極的で夢があって前途洋々たる事業には犠牲を払うことは惜しまないが、後ろ向きで消極的で夢も希望もないような事業には犠牲を払うのを躊躇してしまう。

躊躇するということには意志が感じられるが、

 一番悪いのは躊躇することさえしないことである。つまり、何もしないで旧態依然たる行為を繰り返すことである。躊躇する意志があるなら、消極的ではあるが拒否する行為が生まれるが、旧態依然の態度は悪いことまでも拒否されることなくそのまま継続し改善されることは全くない。反対に、慣例だから、これまでやってきたから、みんなやっているから、規則で決まっているから等とむしろ積極的に良からぬことを推進するていたらくである。

世の中が好転しているときは旧態依然であまり問題ないが、

 基本がうまくいかない難題を抱えている状態では、旧態依然たる態度では全てがうまくいかない。なにせ何も改善されることなく悪い状態を繰り返しているのである。悪いものは拒否して排除するか改善するしかない。拒否し排除することは規模を縮小するだけで、縮退はあるが一朝一夕に成果が向上することはない。向上を目指すならどうしても改善に挑戦しなければならない。当然改善には犠牲が不可欠である。

たとえば、

 日本で株価が上がらないと騒いでいるが、株価を上げるのは簡単である。配当金を上げればいいのである。会社にすれば、この不況で配当金を上げるための財源がないと言い訳するかも知れないが、これが改善するための犠牲であると思う。経営資金さえ確保できれば事業を継続できるし事業を拡大できる。資金を確保するためには株価を上げる努力をしなければならないし、株価を上げるためには配当金を上げなければならない。旧態依然たる態度で努力しないと売り上げが伸びない限り配当金は上がらない。いつまで経っても改善されることのない無限地獄に落ち込むことになる。

たとえ経営が苦しくても、

 会社のために資金を提供してくれる株主の期待に応えるべく配当金を維持するもしくは上げる努力をすることが会社の信用に通じる。経営が苦しくなれば配当金を下げるのは当然の行為だと思っているし、配当金は売り上げに連動して自動的に算出されるものだと思っているが、そんなことはないと思う。配当金の金額を決めることは会社にとっての将来を決める重要な要素であり戦略だと思う。配当金が下がると言うことは当然株価が下がるのを覚悟しなければならないし、株価が下がれば資金調達は困難になる。何としても経営努力により配当金を維持しなければならない。これが改善のとっかかりであると思う。

会社経営を大幅な黒字にして資金をため込む必要はないと思う。

 会社経営は将来投資も含めて収支決算はとんとんで何も問題ないと私は思う。安全のため資金を会社内に抱え込む必要はないし、余剰の資金を無理して運用して財テクに走る必要もない。会社は個人の所有物ではなく、みんなで共同出資して事業を興し、その事業で得た利益は配当金として配分するのが原則である。会社を存続するために必要な資金を除いて余剰はゼロでもいいと思う。引き続き会社を存続するためには実績と信用が重要であるが、実績を端的に表すものは配当金であり、信用が株価であると思う。配当金(実績)が上がらなければ株価(信用)も上がらない。

日本の株式会社は原点に戻る必要があると思う。

 「株価」が銀行から借金するための単なる「信用情報」になりさがっている。資金の調達先は「銀行」であり「株主」ではなさそうである。これでは「株主」の地位はいつまで経っても向上しないし、株式市場は単なる人気投票の場になってしまうし、人気はどのようにでも操作ができるため、実体のない情報で株式市場が左右される。本来は株式市場を左右するのは経営実績に基づく具体的な配当金の額であり、実体のない評価データや新製品情報や将来予想やスキャンダルなどではないと思う。日本国民が株式投資に無関心なのもこの株式会社の原点が感じられないからだろうと思う。自ら投資し自ら配当金を得る意識が少ないし、預貯金の利子利益に比して株式の配当金に魅力が感じられないのである。はっきり言えば、「配当金が安すぎる」のである。

日本国民はせっせと貯金し、企業は資金調達を銀行からの融資に頼っている。

 何かおかしいのではないかという気がする。日本国民が「貯金」でなく「投資」ができるような環境が必要である。このように変えてゆくことこそ「政策」であると思う。護送船団方式や闇雲な公的資金の投入は現状を悪化させるだけで国民に投資しようとする意識と機会をかえってぶっつぶしているだけである。旧態依然たる現状に固執しこれを維持しようとすると事態はますます悪化する。どこかで犠牲を払ってでも改善に挑戦しなければならない。いや、すでに現状維持するためだけでも多大な犠牲を払っているのであるから、どうせ犠牲を払うなら「改善」の方向を向いて対策した方がいいと思う。

改善には犠牲がともない、犠牲を払うためにはある程度の冒険を必要とする。

 冒険には危険がともない、やるかやらないかには賛否両論がある。犠牲を払う人は当然反対であるが、犠牲がなければ改善はできない。これを「犠牲を払ってでも改善のために是非やろう」という意識に向けさせるのは、改善の必要性と改善の効果を明確にし信念と熱意を持って改善に向け説得と合意の努力をすることである。ここに至るまでにはたくさんの試行錯誤がある。この試行錯誤は最初からうまくいくはずがない。恥をかきながら苦難の道を歩むことになる。

政治レベルでも犠牲を払う必要がある。

 政治家は恥をかくことを躊躇してはいけない。躊躇しているような人は「改善」の意識のない人である。「あるべき姿」の論議ばかりして、これを具体的に実現するための努力を犠牲を払ってでも自ら実行しようとする意識のない政治家は失格であると思う。恥をかくことは他人任せで、自分は安全な位置に身を置いて保身ばかりを謀り、かけ声ばかりで責任をとろうとしない政治家は最初から願い下げである。反対に恥をかいてでも自分の信念を通しているような政治家を見出すべきである(信念には共鳴できなければならないが・・・)。政治は国を良くするためにあるのであり、政治家を養うためにあるのではない。保身の政治家は何の役にも立たない。

国民レベルでも犠牲を払う必要がある。

 悪くて改善すべきことは断固として改善しなければならない。改善のためには当然犠牲を強いられる。その犠牲は必要な犠牲であり、これを避けることは改善そのものを放棄しているのと同じである。総合的、最終的にはプラスもしくはプラスマイナスゼロではあっても、部分的に犠牲のない改善はあり得ない。全員に対する公平な犠牲であるかも知れないし、一部に対する個別的な犠牲であるかも知れない。しかし、この犠牲がいやだと反対していてはいつまで経っても改善されることはない。改善する側の政治レベルでのやり方(犠牲の払い方)に問題があるならこれを明らかにし議論すべきだが、犠牲を伴うものは何でも反対では議論にもならない。国民も改善に挑戦する勇気と多少の犠牲にも動じない気概に対して長い目で見て寛容でなければならない。




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