参議院選挙が終わって、民主党が与党として過半数を取れなかったと大騒ぎしている。
何故だか私には理解できない。これを称して「ねじれ国会」だという。そして、国会運営の障害となり、大問題だという。また、これを解消するために連立も含めた多数派工作をするという。これは民主主義に反する行為であることを政治家が気付いていない事が大いに問題であり、この議論を声を大きくして日本の国を上げて騒いでいるのに、誰も「おかしい」と思わないことはもっと問題だと思う。何が問題かというと、民主主義の大前提である平等で自由な発言の場としての「議論」の重要性が欠落した論調だからである。多数派の専制によって政治を運営しようとする画策は国民みんなで断固阻止しなければならない考え方なのである。
特定の価値を絶対化することは許されない。
多数を占める者の意見が絶対だと主張する事は専制主義そのものである。ただ、独裁者一人の専制ではなく多数政党の専制であるに過ぎない。討論する前の自由で平等な発言は多様な価値が多様に存在し、日本語に言うところの「烏合の衆」であろう。その中から討論によって数種類の意見に統合され、この意見を元にお互いのグループが理論展開し、根拠と証拠を示して相手を説得することになる。この過程が民主主義の最も重要な部分であって、最終的な決定方式である多数決原理が民主主義であるとの誤解は日本の戦後民主主義の大いなる欠陥でもある。
民主主義の最も尊重するのは少数意見を大事にする事である。
多数意見が絶対ではなく、少数意見もいずれは多数意見になる可能性を秘めているという立場に立ち、少数意見を尊重し保護する考え方を持っていることである。基本的には自分は他者から強制・拘束されないのと同時に他者の自由を広く認めることでもある。よって、言い方は悪いかもしれないが、民主主義は結果的には妥協の産物であり、賛成派と反対派がどこで妥協するかを探って、とりあえずの決着をつけるのが民主主義でもある。政治体制に絶対的なものはないし、絶対化してはならないのである。常に流動的に揺れ動いているのが政治でもあり、よりよい選択を常に繰り返すのが政治でもある。その選択が正しかったかは結果でしかわからないが、その選択に対する説明責任は免れない。
民主主義(デモクラシー)は自由主義(リベラリズム)を前提にしている。
出発点は自由主義である。ただ、自由主義だけでは自由放任の弱肉強食となり収拾がつかないので、代表制による間接民主制を導入した議会制民主主義となり、「自由民主主義(リベラル デモクラシー)」として発展した。現在の「自由民主党:自民党」の命名はこれに起因しているのだろうし、民主党も考え方は同じだろう。多数決原理の考え方も自由主義に起因している。個々人の主張に価値的な優劣はつけられないことを前提としている。個人のどんな主張であっても個人としての一票を投じる事ができるのが本来の多数決原理である。そのためには議論の過程で個人の意見がどのように収束整理されていくかが重要であって、議論もしないで多数決をしても意味ないし、個人を政党の枠で縛って強制的に意見を封じるのも民主主義に反すると思う。政党内であっても当然意見が対立するのが本来の民主主義である。
ねじれ国会はねじれ国会のままでいいのである。
これを克服してよりよい政治が運営されるのが本来の姿である。このような課題を国民が突きつけたのが今回の参議院選挙の結果である。多数政党の横暴は許さないという国民の意思でもある。それなのに、政党の多数化工作を画策して、数による政治を押し通そうとしている人達は大いに間違っているし、猛反省をすべきである。日本も二大政党制に近づきつつあるが、国が大きく二つに分かれたのでは混乱すると危惧するのは、まだ日本の政治が未熟である証拠でもある。その未熟な部分は政治が形式的な部分だけで運営され、中身が十分議論を尽くされていない、もしくは議論する意思がない、もしくは議論できる環境が整ってない事である(政治家の能力が低いとは言いたくない)。
政治的な投票の場で、個人が帰属する政党の意見に反して投票した場合日本では非難される。
これは個人を非難すべきではない。議論が尽くされてなく、政党内の意見が一致していないだけであり、最終的に一致を見ない個人が現れても何も不思議ではないし、これこそが本来のリベラルデモクラシーであろう。これでは政治が収拾できなくなるかもしれないが、収拾するためにはお互いの討論・議論を尽くすしか方法がないし、少数意見を収拾できるような、より価値の高い、より理論構成のしっかりした、より根拠・証拠の明確な意見を作り上げる事だと思う。このことを省略して、多数決原理だけに頼ろうとしている現在の日本の政治には断固として「NO!」を突きつけなければならない。
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