『週刊文春』10月14日号の記事は眞子さまが中1のころまでは、伸び伸びとお過ごしだった様子を伝えている。
1991年10月23日御誕生。
眞子さまの「眞」の字は、正式には「目」の下がくっついた特殊な字体。25歳で父となった秋篠宮は、こうした細部にもこだわって名付けをされた。
眞子さまが学習院初等科2年生のときには「野原のたんぽぽ」という題のこんな詩を書かれた。<たんぽぽが 春でもないのにさいていましたさむそうだから かれはのふとんと すずかけのみのふわふわふとんを かけましたかめさんは 池の中はさむいのに よくねむれるねたんぽぽさんと ねたらいいのに>
*高学年のころには、上橋菜穂子著『精霊の守り人』シリーズに夢中になった。
*級友からは「まこしー」という愛称で呼ばれ、休み時間は鬼ごっこやドッジボール、大縄飛びに興じた。
等々 記事には小学校卒業までは学習院に溶け込んでいらっしゃった様子が書かれている。
初等科卒業式後に秋篠宮邸に招かれた斉藤初等科長は眞子さまのことを紀子さまに褒めちぎっている。
紀子さまはさぞ誇らしやかで喜ばしいお気持ちだったでしょう。後年、呼び出しをくらうなど夢にも思われていなかったでしょうね。まして学習院と疎遠になるとも。
しかし、そんな眞子さまにも少しずつ変化が現われてきます。
当時一大ブームを巻き起こしていたのが、カメラ付携帯電話だ。人々は手軽に写真を撮ることができるようになった。皇族の方々にも、一般の人のカメラが向けられるようになった。眞子さまと妹の佳子さまは四方八方からの視線に敏感に反応されるようになった。
雅子さまも、「人の視線が苦手で人前に出られなくなった」と報じられていましたね。眞子さま、佳子さまが示された敏感な反応とはどのようなものだったのか。
雅子さまのような対人恐怖症めいたものだったのか、チャールズ皇太子のようにイライラして「本当にうるさくて忌々しいやつらだ!」と舌打ちするような反応?
世に中には、上皇后のように、人から見られるのが快感でカメラのフラッシュが多いほど高揚してくるというタイプもいます。世の中のタレントはそのタイプでしょう。佳子さまはフィギュアやダンスを好まれるので、どちらかと言えばタレントタイプだと思っていたのですが?
秋篠宮殿下は、常に人目に晒される娘達を不憫に御思いになり、こんなプランを娘達に提供しています。
眞子さまが中1のころ、秋篠宮は自身のライフワークである家畜の研究を長年共にしてきた林良博国立科学博物館前館長に「カメラを一切気にしないで(娘達を)自由にさせたい。」と相談。東京大学の農学部長を経験していた林氏は同大が所有している北海道富良野演習林を提案した。三泊四日の小旅行。演習林の職員の子供達がチームを作り、眞子さまと佳子さまを迎えた。
こういうのも皇族の特権なのでしょうね。天皇家の愛子さまほどではありませんが、眞子さま、佳子さまも地味においしい思いをされている。
避暑地のお嬢様と森番の子供達。。。古い映画の一場面がオーバーラップする。職員と子供達の精一杯のおもてなしをうけて過ごされたのでしょうね。
中1のころまではこんな感じ。
この後、秋篠宮に大きな変化がもたらされます。
2006年2月。NHKが紀子さまの御懐妊を報道。妊娠6週目でのことだった。同年9月、眞子さまが中三のときに、長男の悠仁さまが誕生。これまで”自由な次男坊”とされた秋篠宮のご一家は、一転して”将来の天皇”を戴く家となったのだ。
中三の夏休み、ウィーンにホームステイ。朗らで自然な笑顔。
このころはまだ大丈夫だったのかな?それとも、紀子妃殿下御懐妊中からはじまった紀子さまへのバッシングに心を痛められて少々変な眞子さまをご両親が気遣って気分転換のためにホームステイを計画されたのかな?
中三の夏休み・・・丁度今の悠仁さまと同じ年頃。眞子さまと小室の一連の報道を見聞きしたり、同級性からイヤなことを言われたりで悠仁さまが少々よろしくない、という報道もありましたが、悠仁さまは大丈夫でしょうか。
何年から後に、「中学生の頃から云々で、このたび複雑性PTSDという診断を受けられました。」とならないかと本気で心配しています。
皇統の危機を救った秋篠宮家の注目度は否が応でも高まり、人々の関心は眞子さまにも向けられた。2007年に学習院女子高等科に入学されたころには、ネット上で『眞子さま萌え』といういう言葉が流行。<中略>同世代の女子高生と同様に、ネットにも自然に親しまれてきた眞子さまは、ネット上の掲示板もかねてご覧になっていたという。
眞子さまが精神的に不安定になられたのは、このネット上の掲示板を閲覧していたからではないでしょうか?
皇族画像掲示板?マコオタ掲示板?覗いたことがあるが、あれは皇族方が見て良いようなものではない。書き込むほうもまさか本人が見ているとは思わないで書いているのではないか。
眞子さまがもし、その後もエゴサーチや掲示板やブログの閲覧が習慣になっていたらら、どんどん精神的に追い詰められていっても不思議は無い。
『週刊文春』には高校科時代の眞子の様子は書かれていない。紀子さまが学校へ呼び出されるなど、眞子さまにとっては疾風怒濤の時代だったのだろうか。
ICUへ入学されてからの眞子さまは楽しげだが
一方で、人見知りの一面も見せていた。<中略>そこには”皇族として見られている”という緊張感が常に漂っていた。
ここまで、人目を気にして、いつも緊張している御性格であることはわかったが、誹謗中傷と感じられる報道に苦しんでおられたようでもない。
記事には書かれていないが高校時代の眞子さまといえば、やや緊張した面持ちで御公務をされていた姿が目に浮かぶ。眞子さまの御公務を週刊誌は好意的な記事にしていたが、眞子さまも嫌々公務をされていた風でもなかったが・・・。
一体どこから複雑性PTSDと診断されるような症状が始まったのだろうか。
18年2月結婚の延期が発表された。<昨年5月、予期せぬ次期に婚約報道がなされました。このことに私達は困惑いたしました>延期にあたり発表された文書でも、眞子さまはこう綴り、予期せぬ報道への怒りを再び滲ませられた>結婚延期からしばらくして、眞子さまは体調の異変を訴えられるようになる。不眠や食欲の減退が見られたが、この時は1ヶ月ほどで回復された。
これが予兆だったのか。
その後は、国民が見つめてきた展開になるが、『週刊文春』の記事は、眞子さまと紀子さまの母娘の葛藤にもの言いたげであるが。
記事中、眞子さまに対して何度も”強情”ということばが使われている。
雅子さまを拝見してきて思うのだが、”強情”も病的なものの現われなのかもしれない。
20年初頭には眞子さまは宮内庁参与に結婚問題を相談された。宮内庁参与は天皇の相談役であり、本来宮家の皇族の私的な相談相手になることはない。異例の出来事は、眞子さまの結婚が令和皇室全体の問題であることを示していた。
20年初頭には、もはや秋篠宮家だけの問題ではなくなった眞子さまの結婚問題。
令和の天皇は、ここでどうしたかといえば、これがまた天皇としては情けない反応で・・・。
<つづく>