福留孝介 最後の勇姿

2022年09月25日 | 日記
9/23(金)福留孝介ラストゲーム



※讀賣23回戦[名古屋最終章]ゲーム内容は割愛します…。

〔私事ですが、ドラゴンズの試合より大事な出来事が突如…、どうしても現地観戦出来なくなり影武者が代打観戦となりました。〕

試合前に子供さんとセレモニアピッチ。





9回表、9番ライト福留(孝介)がコールされるとドーム内は大歓声。




※以下、ドラゴンズ入団時から我々ドラゴンズファンは福留じゃなく孝介と呼んでるので孝介で行きます。

9回裏1死、最後の打席に孝介が挑む。初球、アウトコースのストレートを見送る。2球目、放った打球は二飛に…。
最後の打席を終え、ベンチへ戻ると立浪監督と抱擁。











試合後、原監督から花束が贈られ抱擁。






【引退セレモニー】
試合後、引退セレモニー準備。




涙の引退スピーチ全文
『まず初めに、今日このような引退セレモニーを開いていただきました中日ドラゴンズ球団、立浪監督をはじめコーチ、選手、裏方の皆さん、そして最後まで球場に残っていただきましたファンの皆さま、本当にありがとうございます。
小学生の時に串間キャンプで中日ドラゴンズを見て、
中日ドラゴンズのチームに魅かれ、そしてその中にいた立浪監督に憧れ、プロ野球選手を目指してきました。
1998年、星野監督の計らいでファン感謝デーに呼んでいただき、バックスクリーンの扉から一人で出てきた時、その恥ずかしさ、今でも鮮明に覚えています。その日から僕のプロ野球人生がスタートしました。
24年間、素晴らしいチームメイト、素晴らしい指導者の下プレーさせていただき、その中に佐々木恭介コーチと出会い、打撃を一から作り直そう、そう言って毎日バットを降り続け、朝起きる時には自分の手がバットの形をして固まったまま。
そんな日々を繰り返しながら、松井秀喜さんに勝って初めて首位打者を獲得した時、この世界でやっていける自信をもてたのを思い出します。その後リーグ優勝、日本一、本当にたくさん楽しい思い出をつくらせていただきました。
しかし日本一になった時、自分自身故障でその場にいられなかった、その悔しさ、その気持ちもここまでプレーを続けてた原動力だったと思います。
その後、海外、阪神タイガースでプレーをさせていただきました。
阪神タイガースでは8年間、日本一のグラウンドで熱狂的なファンの皆さまの声援のなかでプレーさせていただき、そして最後の甲子園球場の時には、ライトスタンドから大きな福留コールをいただき、僕の一生の宝物です。本当にありがとうございました。
2年前、このドラゴンズに帰ってもい一度このユニホームを着てプレーできたこと、そして自分の野球人生がスタートしたこの場所で、ファンの皆さまの声援に包まれたユニホームを脱げる、僕は本当に幸せ者です。
最後に24年間戦い続けることのできるこの体を生んで育ててくれた両親、本当にありがとう。
そして一番近くで、応援し支えてくれた家族のみんな、本当にありがとう。
僕は今日だユニホームを脱ぎますが、ドラゴンズにはまだまだ期待の選手がたくさんいます。
ドラゴンズファンの皆さん、これからもドラゴンズのご声援よろしくお願いします。
24年間、温かいご声援本当に本当にありがとうございました。』

立浪監督、荒木コーチ、選手たちから💐













背番号と同じ#9度宙に舞う 







グラウンド一周からの岩瀬さん、鳥谷さん💐






















ドラゴンズが強かった頃の選手がまた一人去ることとなってしまいました。
24年間(特にドラゴンズ在籍11年間)本当にお疲れ様でした。
また、ドラゴンズのユニホーム姿で戻って来て下さい。