うろこ玉絵日記

日々のなにげない一こまを絵日記にしてみました。大阪に近い奈良県在住です。
マウスでかいてまーす。

撫順 高橋哲哉氏と斎藤貴男氏対談

2006-08-22 | Weblog
加害の行われた地であり、また日本人戦犯が管理所生活によって
人間性を取り戻した再生の地であるとして
撫順をテーマに対談があり、出かけていきました。


齋藤氏は
「今こそ加害について考えなくてはいけない。
現在も“弱い軍事力で、奇矯な指導者がいて、資源はある”という国に
世界最強の軍事国が戦争をしかけていっているという構図になっている。
“被害に遭いたくないから戦争はいやだ”では自分のところが無事なら
いたくもかゆくもない、という感覚になってしまう」と語ります。

高橋氏は清沢冽氏の「暗黒日記」の1945年1月1日の記述を紹介したうえで
「日本は日清・日露いらい常に国外で戦争を続けてきたが、空襲を受けてはじめて
戦争の被害を市民は実感している。現在でも語られる被害は1945年1月1日以降
のことばかりである。いかに想像力をたくましくするかが大切」と話します。

会場は200人以上はいたでしょうか。超満員で若い人の姿が目立ちました。
軍事力の増強や憲法、平和の問題について強い関心をもっていることのあらわれだなー
と感じました。

へいちょうざんじけん

2006-08-22 | Weblog
ホウさんが4歳のとき、家に日本軍が入ってきました。
お父さんが撃たれてしまいました。
残った家族(祖父母、母、弟、おば)とともに広場へと追いたてられました。
そこには平頂山地区のすべての住人3000人が集められていました。
「写真をとってやるから」とつれてこられた人もいます。

日本軍が機銃でいっせいに執拗に射撃を行いました。
家族がホウさんを抱きかかえかばいました。
どれくらいの時間がたったのか、あたりをうかがうと皆死んでいました。
「ママー」と泣く弟を兵隊が銃剣で刺し、放り投げました。
息のある人をひとりひとり突き刺してまわっていましたが、奇蹟的にホウさんは
無事でした。

日本軍がひきあげたあと、ひとりで村にもどると家はすべて焼かれていました。
また広場に戻り、死体の山からおじいさんを探し、生きていたときのように
よりそって眠りました。



1931年の柳条湖事件以降日本は中国への侵略を本格化させますが、
満州鉄道と並んで日本軍にとって重要な施設が撫順炭坑でした。
1932年9月、中国人への弾圧に抗議する抗日義勇軍の攻撃により
炭坑は大きな被害を受けました。
平頂山地区の住民が義勇軍の通過を日本軍に知らせなかったとして
広場に集めた約3000人に銃弾を浴びせ、生き残ったものは刺殺しました。
さらにすべての家を焼き払い、後日死体に重油をかけて燃やし、崖をダイナマイトで
爆破して死体を覆い隠しました。


ホウさん(78)はその事件で奇蹟的に生き残った数すくないうちの一人です。
二人の生き残った男性と1996年、事実を認め、謝罪してほしいと
日本政府に提訴しました。
しかし2006年5月、最高裁は事実を初めて認めたうえで上告を棄却しました。

隠し切れず事実は認めても、けっして謝罪はしないというこの国に私は生きています。