うろこ玉絵日記

日々のなにげない一こまを絵日記にしてみました。大阪に近い奈良県在住です。
マウスでかいてまーす。

ハンセン病問題講演会・1

2013-02-17 | Weblog
大阪の阿部野橋で行われた講演会に行ってきました。

ハンセン病の元患者さんは、療養所に暮らし続ける方もいますし、
また退所して故郷に帰る方も、支援者を頼って知らない土地で暮らす方もいます。

どの方も、国が作った隔離政策により、周囲の残酷な差別や偏見にさらされました。

そしてまた、その家族も、身内にそのような病気を発病した者が出たということで
非常な苦しみを味わってきたのでした。

この日初めて知ったのですが、大阪は全国で二番目に、住んでいる退所者の数が多いそうです。
受け入れるための支援が厚いのと、そのフレンドリーな親密さから。
大阪、やるじゃん。




元患者さんのご家族という方がお二人壇上にあがりました。
名前は伏せて、AさんとBさんと名乗りました。
お一人はサングラス着用。もちろん撮影禁止。


ここに来るまでどれほど勇気がいったのでしょう。
もう過去のことだと気楽に考えてはいけないんだ、とショックを受けました。
いまだに差別への恐怖がこの家族に重くのしかかっている証なのです。




Aさんは在日で、大阪生まれ。5人で仲良く暮らしていましたが、
2歳のときに自分以外の家族が全員ハンセン病とみなされ、強制隔離されました。
Aさんは育児院に預けられ、9歳で再び家族そろって、今度は兵庫県で暮らすことになったそうです。
自分が在日であるということは恥ずべきことではないと、高校生のときに本名で生活することにしたが、
ハンセン病については学ぶ機会もなく何も誇れるものはないと、親の病歴を打ち明けようとは全く考えなかったと語りました。

結婚して3年目に、妻となった女性に「何か隠している」と追及され、正直に話すと、すんなり受け入れられ
今はAさんは家族の会の活動にもかかわっているそう。

人間には、ちゃんと受け入れる人と、拒絶する人と、二種類あるように思えるのですが、外見だけではどちらの人間かはわかりません、と言います。




Bさん。父親が昭和28年に強制隔離されました。
墓石には父の没年が昭和28年と刻まれているそうです。
兄は破談を繰り返し、自分も恋人に「ライの家族だから親に反対された」と拒絶されたといいます。

父は一歩も療養所の外に出ることなく44年後に死去。

同じく、15歳で隔離された姉は、57年後に退所の決意を固め、今は大阪に住んでいるそうです。
姉を見守りながらBさんは、
何気ない日常の1コマの積み重ねが社会生活そのものであり、姉が57年間待っていた生活だと思うのだそうです。


「私は排除の論理に勝てず、今もって陰に怯えている。
しかし姉の社会復帰とその後の生活をみていると、人の隣には必ず人がいる。
隣の人と手を握り合い、握り合った手で、より手応えのある毎日をつかもうじゃないですか」と投げかけました。



ハンセン病回復者であることや、その家族であることを名乗った人を評価し、
明らかにしない人を卑怯もの呼ばわりしたり、誹謗中傷するのはやめてほしいという言葉や、
ハンセン病の患者家族も被害者であるが、同時に自らや家族を守るために患者への加害者にもなった、という言葉が重く心に残りました。



いっぺんに書ききれないから、続きにしまーす。







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