乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

『狂言末広栄』3  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎   人めんてう  ひめぎみのかげのわづらひ

2025-01-13 | 草双紙:洒落本、仮名草子、黄表紙、黒本、赤本、合巻 等

『狂言末広栄』3  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎   人めんてう  ひめぎみのかげのわづらひ

 

人めんてう  ひめぎみのかげのわづらひ

 

 

 

早稲田大学デジタルライブラリー

へ13 1061 22

[狂言末広栄] 

京伝 作 ; うた麿 画

山東 京伝, 1761-1816

喜多川 歌麿, 1753-1806

[江戸] : [蔦屋重三郎], [出版年不明]

 

『狂言末広栄』1  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎

『狂言末広栄』2  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎  そのごびやうきは、てもなくなおります。

『狂言末広栄』3  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎   人めんてう  ひめぎみのかげのわづらひ

 

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『狂言末広栄』2  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎  そのごびやうきは、てもなくなおります。

2025-01-13 | 草双紙:洒落本、仮名草子、黄表紙、黒本、赤本、合巻 等

『狂言末広栄』2  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎

 

 そのごびやうきは、てもなくなおります。

(其御病気は、手(手だて)もなくとも、治ります。)

 

 

 

早稲田大学デジタルライブラリー

へ13 1061 22

[狂言末広栄] 

京伝 作 ; うた麿 画

山東 京伝, 1761-1816

喜多川 歌麿, 1753-1806

[江戸] : [蔦屋重三郎], [出版年不明]

 

『狂言末広栄』1  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎

『狂言末広栄』2  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎  そのごびやうきは、てもなくなおります。

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つれ/″\種 上  正徹本 26  八十三段~八十六段   すなほならねど人の賢をみて、うらやむはよのつね なり。いたりておろかなる人はたまたま賢なるひとをみてい、これをにくむ。

2025-01-13 | つれ/″\種

つれ/″\種 上  正徹本 26  八十三段~八十六段  

すなほならねど、人の賢をみて、うらやむはよのつね

なり。いたりておろかなる人はたまたま賢なるひと

をみてい、これをにくむ。

 

 

 

八十二段~八十三段 (前回)

 

八十三段~八十五段

 

八十五段~八十六段

 

 

八十五段

、、、、、、、、、

すなほならねど、人の賢をみて、うらやむはよのつね

なり。いたりておろかなる人はたまたま賢なるひと

をみてい、これをにくむ。、、、、、、、、

    v(^d^)v

            あっはっは

つれづれ種(徒然草)

正徹とは 清巌正徹/正徹の書写した『徒然草』は現存最古の写本

卜部兼好 吉田 兼好  1  

卜部兼好 吉田 兼好  2   

つれ/″\種 上  正徹本 1  一段~二段(3頁)

つれ/″\種 上  正徹本 2  二段~八段(3頁)

つれ/″\種 上  正徹本 3  八段~十四段(5頁)

つれ/″\種 上  正徹本 4  十四段~十九段(6頁)

つれ/″\種 上  正徹本 5  十九段~二十三段(4頁)

つれ/″\種 上  正徹本 6  二十三段~二十七段(3頁)

つれ/″\種 上  正徹本 7  第二十三段~第二十七段(3頁)

記録、抜ける

つれ/″\種 上  正徹本 8  第三十三段~第三十七段(3頁間)

つれ/″\種 上  正徹本 9  第三十七段~第四十二段(4頁間)

つれ/″\種 上  正徹本 10  第四十二段~第四十四段(四十三段写す)

つれ/″\種 上  正徹本 11  第四十四段~第四十八段(第四十五段 写す)

つれ/″\種 上  正徹本 12  第四十八段~第五十二段(第五十一段 写す)

つれ/″\種 上  正徹本 13  第五十二段~第五十三段(第五十二段~第五十三段は仁和寺の話。京都の中では、第五十二段~五十三段は語り継がれる場合も多い)

つれ/″\種 上  正徹本 14  第五十二段~第五十四段は法師と児の話)御むろにいみじき児(ちご)ありけるを、いかでさそい   いでてあそばむとたくらむ法しの有りて

つれ/″\種 上  正徹本 15  第五十六段~第五十八段 (人のさまの   よしあし、ざえ(才)ある人はそのことなどさだめあへるに、おのれが身にひきかけていひいでたる、いとわびし 56段)

つれ/″\種 上  正徹本 16  第五十八段~第六十段(第六十段は芋頭の好きなお坊様のお話。) 

つれ/″\種 上  正徹本 17  第六十段~第六十一段(第六十段は芋頭の好きな盛親僧都と徳の高い好き勝手をする「しろうるり」の二つの話)

つれ/″\種 上  正徹本 18  第六十一段~六十六段(六十五段を写す  鎌倉時代から、昔の人は 、、、今の人は、、、と言われていた一例

つれ/″\種 上  正徹本 19  六十六段~六十七段(六十七段 月をめで 花をながめし いにしへの   やさしき人は ここにありはら(業平の事を吉水の和尚が詠む)) 

つれ/″\種 上  正徹本 20  六十七段~七十段(六十八段     つちおほね(土大根)をよろづにいみじき  薬とて、あさごと(朝毎)にふたつづつやきてくひける  こと、年久しくなりぬ。) 

つれ/″\種 上  正徹本 21 七十一段~七十三段(七十二段を写す  【おほき】 多て(おおくて)いやしからぬは  文庫、塵塚づか(塚)のちり ) 

つれ/″\種 上  正徹本 22 七十三段~七十五段(七十三段   そらごと(空事)5回)

つれ/″\種 上  正徹本 23 七十五段~七十九段(七十五段   「生活(しよう活)、人事(にんじ)、技能、学問等の諸縁をやめよ。」)

つれ/″\種 上  正徹本 24  七十七段~八十二段(くち(口)おもくとはぬ(問はぬ)かぎり(限り)は、いはぬ(言はぬ)ことぞ、いみじけれ(すばらしい))

つれ/″\種 上  正徹本 25 八十二段~八十三段  不具なるこそよけれといひしもいみじくおぼえしなり。すべて何もみなことのととのへたるはあしきことなり

つれ/″\種 上  正徹本 26  八十三段~八十六段   すなほならねど人の賢をみて、うらやむはよのつね なり。いたりておろかなる人はたまたま賢なるひとをみてい、これをにくむ。

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蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう) 1  ~吉原時代     『金々先生榮花夢』

2025-01-13 | ことのは

蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう) 1  ~吉原時代

 

金々先生造化夢 読了   16 金々先生造化夢 口上(十五丁裏) 山東京伝 作  北尾重政 画  寛政6年 版元 蔦屋重三郎

 

 

 蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう、寛延3年1月7日(1750年2月13日) - 寛政9年5月6日(1797年5月31日)

 

 江戸時代中期から後期にかけて活動した版元。

 

 安永3年(1774年)に北尾重政の『一目千本』を刊行して以降、江戸日本橋の版元として化政文化隆盛の一翼を担い、大田南畝、恋川春町、山東京伝、曲亭馬琴、北尾重政、鍬形蕙斎、喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽など多数の作家、浮世絵師の作品刊行に携わった。

 

 本姓は喜多川(生誕時の本姓は丸山)、本名は柯理(からまる)。

 

 通称は「蔦重」「重三郎」といわれる。

 号は蔦屋、耕書堂、薜羅館など。

 

 

 商標は「富士山形に蔦の葉」とされた。

 自ら狂歌、戯作の制作も行っており、蔦唐丸(つたのからまる)と号した。  

 

生涯

吉原時代

 重三郎は遊郭の街である新吉原で産まれたとされている。

 石川雅望が撰した『喜多川柯理墓碣銘』や大田南畝が浅草正法寺に建てた実母顕彰碑文に拠れば、父は尾張の丸山重助、母は津与といい江戸の広瀬氏出身となっている。

 

 父親の職業はわかっていないが、吉原という特殊な地域に関係のある仕事に就いていたと考えられている。

 

 重三郎の本名は柯理(からまる)で、7歳の時に母と別れて喜多川氏の養子となった

 

「蔦屋」は喜多川氏が経営していた店の屋号で、重三郎はそこで幼年期を過ごした。

 

 

  『籬の花』(1775年) 蔦屋が出版した最初の吉原細見 安永2年(1773年)には吉原五十間道に面した「蔦屋次郎兵衛店」を間借りし、本屋「書肆耕書堂」を営むようになった。

 書店では鱗形屋孫兵衛が中心となって刊行していた吉原細見『這婥観玉盤』の卸し、小売りを始めた。

 

 吉原細見とは吉原に点在する妓楼やそこに所属する遊女のランク付け、芸者や引手茶屋などを記した略地図などが掲載されるいわゆる風俗情報誌で、春秋の年2回刊行されていた。

 

 

 重三郎は出版業そのものに関心を置いていたとみられ、鱗形屋が重版事件によって処罰され、吉原細見の刊行が困難となった安永4年(1775年)の秋からは、自ら『籬の花』と題した吉原細見の刊行を始めた。

 

 

 生まれも育ちも吉原だった重三郎が刊行する吉原細見は他の追随を許さない充実度を誇り、「蔦屋」の版元としての地位を確固たるものに押し上げた。

 

 さらに同年7月には版元として初めての出版物となる北尾重政を絵師に起用した『一目千本』を刊行した。

 

 

『一目千本』は遊女の名 を列記した生け花を相撲の東西取組に見立てて競う趣向の遊女評判記で、安永4年(1775年)秋の『籬の花』巻末には「君たちの生たまひしゐけ入の図をせううつしにいたし」という広告が掲載されている。

 

   『雛形若菜の初模様』「たまや内 しづか」(1775年/礒田湖龍斎画/ボストン美術館所蔵)。右下に「耕書堂」の版元印が確認できる。

 

 

 安永4年(1775年)には老舗の版元西村屋与八と共同で礒田湖龍斎の『雛形若菜の初模様』シリーズを刊行し、大判錦絵での遊女絵の先駆けとなった。

 

 掲載される遊女の多くは突き出し(デビュー)などの記念行事に合わせて選定されたと考証されており、出版業界と吉原内部の動向を知る重三郎が橋渡し的な活動を見せたものとされている。

 

 高価な紅の絵の具が多様されている華やかな作品に仕上がっており、吉原遊郭が出版費用を提供した入銀物であった可能性が指摘されている。

 

『雛形若菜の初模様』は天明初期までに140図を超える作品が刊行された人気シリーズとなったが、重三郎が関わったのは主に安永4年前半のみであり、これは両版元の関係悪化によって重三郎の手を離れたものと考えられている。

 

 

 安永5年(1776年)に入ると山崎屋金兵衛と組んで北尾重政と勝川春章を起用した彩色摺絵本『青楼美人合姿鏡』を刊行した。

 

『青楼美人合姿鏡』は吉原の13の妓楼で名をはせた68人の遊女の姿を、四季の移ろいをテーマに色鮮やかに描いた入銀物で、序文を重三郎自身が手掛けていることから、企画の発案や主導は重三郎が行ったとみられている。

 

 また、鱗形屋が手掛けた恋川春町の『金々先生榮花夢』

金々先生造化夢 読了   16 金々先生造化夢 口上(十五丁裏) 山東京伝 作  北尾重政 画  寛政6年 版元 蔦屋重三郎

をはじめとした黄表紙や戯作本が流行したことに刺激を受けたと見られ、安永6年(1777年)からは戯作本、安永9年(1780年)からは黄表紙の刊行にも着手するようになった。

 

 この時期に刊行を手掛けた作品としては洒落本『娼妃地理記』(道蛇楼麻阿[注釈 3]、安永6年)、黄表紙『伊達模様見立蓬萊』(作者不明、安永9年)、『身貌大通神畧縁記』(志水燕十作、喜多川歌麿画、安永10年)などがある[17]。

 

 特に『身貌大通神畧縁記』の作画を手掛けた喜多川歌麿は、大成前の北川豊章を名乗っていた時代であり、重三郎と組んでの仕事は大きな転機となった。

 

 さらには浄瑠璃の富本節をまとめた富本正本の刊行にも着手し、蔦屋の基幹出版物として人気を博した。

 

 

 時代天明3年(1783年)1月に入ると鱗形屋の吉原細見株を買収し、『五葉松』という名で新たな吉原細見を刊行するようになった。

 

 

 その他、恋川春町や朋誠堂喜三二、志水燕十、四方赤良(大田南畝)、雲楽山人、唐来三和などを起用した黄表紙や洒落本、狂歌本の作品が刊行され、蔦屋重三郎は一線級の版元として認知されるようになった

 

 

 研究者の鈴木俊幸は、この年に豪華な顔ぶれを揃えて正月新版を大々的に喧伝した背景には、同年の日本橋進出を視野に入れた事前宣伝の狙いがあったのではないかと指摘している。

 

 

 

平賀源内のごひいきだったと云う、瀬川菊之丞の役者絵(浮世絵)

田沼意次について

金々先生造化夢 読了   16 金々先生造化夢 口上(十五丁裏) 山東京伝 作  北尾重政 画  寛政6年 版元 蔦屋重三郎

蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう) 1  ~吉原時代 金々先生造化夢 

 

 

 

 

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平賀源内(人物、業績、作品)

2025-01-13 | ことのは

 

 平賀源内

 

人物と業績

 天才、または異才の人と称される。

 鎖国を行っていた当時の日本で、蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。

 

 文学者としても戯作の開祖とされ、人形浄瑠璃などに多くの作品を残した。

 また源内焼などの焼き物を作成したりするなど、多彩な分野で活躍した。

 

 男色家であったため、生涯にわたって妻帯せず、歌舞伎役者らを贔屓にして愛したという。

 わけても、二代目瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名である。

 

 何代目かは分からないが、瀬川菊之丞の役者絵(浮世絵)

 

 晩年の殺傷事件も男色に関するものが起因していたともされる。

 

『解体新書』を翻訳した杉田玄白をはじめ、当時の蘭学者の間に源内の盛名は広く知られていた。

 

 玄白の回想録である『蘭学事始』は、源内との対話に一章を割いている。

 源内の墓碑銘( § 処士鳩渓墓碑銘)を記したのも玄白である。

 

 発明家としての業績には、オランダ製の静電気発生装置エレキテルの紹介、火浣布の開発がある。

 

 一説には竹とんぼの発明者ともいわれ、これを史上初のプロペラとする人もいる(実際には竹とんぼはそれ以前から存在する。

 

 気球や電気の研究なども実用化寸前までこぎ着けていたといわれる。

 ただし、結局これらは実用的研究には一切結びついておらず、後世の評価を二分する一因となっている。

 

 エレキテルの修復にあっては、その原理について源内自身はよく知らなかったにもかかわらず、修復に成功したという。

 

 1765年に温度計「日本創製寒熱昇降器」を製作。

 

 現存しないが源内の参照したオランダの書物及びその原典のフランスの書物の記述からアルコール温度計だったとみられる。

 

 この温度計には、極寒、寒、冷、平、暖、暑、極暑の文字列のほか数字列も記されており華氏を採用していた。

 

 土用の丑の日にウナギを食べる風習は、源内が発祥との説がある。

 この通説は土用の丑の日の由来としても平賀源内の業績としても最も知られたもののひとつだが、両者を結び付ける明確な根拠となる一次資料や著作は存在しない。

 

 また明和6年(1769年)にはCMソングとされる歯磨き粉『漱石膏』の作詞作曲を手がけ、安永4年(1775年)には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、これらをもって日本におけるコピーライターのはしりとも評される。

 

 

 浄瑠璃作者としては福内鬼外の筆名で執筆。

 

 時代物を多く手がけ、作品の多くは五段形式や多段形式で、世話物の要素が加わっていると評価される。

 

 狂歌で知られる大田南畝の狂詩狂文集『寝惚先生文集』に序文を寄せている。

 強精薬の材料にする淫水調達のため若侍100人と御殿女中100人がいっせいに交わる話『長枕褥合戦』(ながまくら しとねかっせん)のような奇抜な好色本も書いている。

 衆道関連の著作として、水虎山人名義により 1764年(明和元年)に『菊の園』、安永4年(1775年)に陰間茶屋案内書の『男色細見』を著わした。

 

 

 鈴木春信と共に絵暦交換会を催し、浮世絵の隆盛に一役買った他、博覧会の開催を提案、江戸湯島で日本初の博覧会「東都薬品会」が開催された。

 文章の「起承転結」を説明する際によく使われる「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す 」の作者との説がある。

(Wikipedia)

 

 

 

作品 本草学及び工芸

『物類品隲』宝暦13年(1763年)刊国立科学博物館の展示 『物類品隲』 - 全六巻。宝暦13年7月刊行。

『番椒譜』 - 稿本。年代不明。

戯作

『根南志具佐』(ねなしぐさ) - 宝暦13年10月刊行。談義本。

『根無草後編』 - 明和6年(1769年)正月刊行。

『風流志道軒伝』 - 宝暦13年11月刊行。滑稽本。講釈師の深井志道軒を主人公としたもの。

『風来六部集』『風来六部集後編』 

 狂文集。「放屁論」「痿陰隠逸伝」(なえまら いんいつでん)等を収める。

 

義太夫浄瑠璃

『神霊矢口渡』 - 明和7年正月、江戸外記座初演。

『源氏大草紙』 - 明和7年8月、江戸肥前座初演。

『弓勢智勇湊』 - 明和8年正月、江戸肥前座初演。吉田仲治補助。

『嫩榕葉相生源氏』 - 安永2年(1773年)4月、江戸肥前座初演。

『前太平記古跡鑑』 - 安永3年正月、江戸結城座初演。

『忠臣伊呂波実記』 - 安永4年7月、江戸肥前座初演。

『荒御霊新田新徳』 - 安永8年2月、江戸結城座初演。森羅万象、浪花の二一天作を補助とす。

『霊験宮戸川』 - 安永9年3月、江戸肥前座初演。源内没後の上演。

『実生源氏金王桜』 - 未完作。

 寛政11年(1799年)正月、江戸肥前座で上演。 絵画 「黒奴を伴う赤服蘭人図」 「西洋婦人図」(神戸市立博物館) 史料・研究 史料

『源内実記』 平賀源内先生顕彰会編

『平賀源内全集』上・下(名著刊行会、1970年)

『風来山人集』(『日本古典文学大系』55 岩波書店、1961年)

 

 

平賀源内のごひいきだったと云う、瀬川菊之丞の役者絵(浮世絵)

田沼意次について

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