日々の思い

日常の出来事、思いを書き続けて、自分を見つめて行きたいと思っています。

木戸池

2017-09-03 08:00:26 | 日記
「また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである。」 使徒20:35b



下山途中といっても標高1850mの木戸池ですが、少し寄っていく事にしました。人気の神秘秘的な池で、昨年の秋には素晴らしい光景に出会ったものです。だから今回は物足りないですが、よく見れば良い風景です。自分の家の近くにはなかったのでした。





この池の側にホテルがあり、いつも見れますから1度泊まってみたいものです。



ウツボ草でしょうか。山野草も咲いてくれます。



なんとなく池の中にある枯れ木の根っこが残ったこの風景。そして白樺の投影。神秘的です。また池の中に倒木が見えます。如何にも冬の厳しさが忍ばれます。



山紫陽花が美しいでした。

上の言葉
イエス様はどこで語られたのか、福音書にはありませんが、この言葉はイエス様の生涯を要約したものと言えます。同時に、私たちにも「同じようにしなさい」と勧めておられます。「受ける」方が幸いだと思いがちですが、その発想を逆転するとき、イエス様に倣うことができます。まず、惜しまず与えてください。あなたの心に大きな変化が生まれます。(KE)

下山へ

2017-09-02 08:41:18 | 日記
「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」黙示3:17



さぁ、もう下山して帰らねばなりません。今日は志賀高原から帰る日でした。この先を行けば万座温泉や草津へ行けますし、違った風景も開けますが、これも仕方ないです。ブログで長い付き合い申し訳ないです。



笠岳はいたる所から見えます。



5回も志賀高原へ来てますから、最後かも?やはりとっても涼しい所ですから来年も健康であれば来れるかも?交通の便もいいし、景勝地が近くに集まっていますから楽なんです。保養にも最適でしょう。ホテルの食事もヘルシーで我々には最適なんです。日本に案外近くで最適な場所があったものです。





風景は刻々と変化しますから、来た同じ道でも違います。





まぁ、ヤナギランがこんな所に。



同じ笠岳ですが。

上の言葉
『裸の王様』という話がありますが、自分がどんな状態であるか知らない人を語ったものです。人は自分について客観的に知ることが困難です。殊に、弱点や欠点を認めることができません。そのためには自分が欠けだらけであることを認める謙遜さが大切です。他人からの忠告を素直に受け入れる心を持ちたいものです。(KE)

人間関係

2017-09-01 08:16:53 | 日記
「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。」第一ヨハネ3:1a



最近人から聞いた事ですが、日常色んな人と話ます。人其々、性格、生活状況、過去の出来事、育った環境、思想其々違います。聞きたくない話もあるでしょう。また自分の状況でグサと傷付く事もあるでしょう。私達いくら親しくてもその人の60%しか解らないかもしれません。挨拶程度の人には1%位しか解らない。時には0%解らない人が多い。で話さなければならない場合もある。



これが普通の人になら細心の注意を払い話すと思います。これがクリスチャン同志ならよく会いますから、よく話すし、日々傷つけるかもわからない。しかしメッセージを聞き、聖書をよみますから、お互いに赦し合わねばなりません。お互いに赦し合い、主を見あがるのがクリスチャンと思います。



クリスチャンといってもその人により、まだ信仰面が浅い場合、その人の性格や状況を考慮して話す事も大事でしょう。



クリスチャン同志なら、人間の持つ罪を認めていますから、赦し合う。これほど大事な事はありません。そしてもし自分が悪かった!と思えば、「ごめんなさい。」と言えばいいでしょう。



イエス様が十字架にかかられる前、弟子達の足を洗われた。足を洗うのは当時奴隷のする仕事だったのです。イエス様は自分をそれ程低くし、弟子にも仕えられました。我々もお互いに仕え合う事が大事です。お互いに足を洗う事が大切なのです。



自分の事をいいますと、認知症の1歩手前。考えが及ばなく、頭の回転も遅い。忘れます。失敗が付きまといどうにもなりません。私の例は極端ですが、人は限界だな、と思うのは人のすべてが解らない。解ると思ってるのはそれは傲り。クリスチャン同志であれ、そうでない人であれ、十字架の主の御名により許さないと回りの平和は来ません。赦す事はつらい事でもありますが、自分も十字架で多くを赦されているのですから。



草津白根山でしばし雫を見とれていました。

上の言葉
被造物でありながら、造物主なる神様をわすれて、自分勝手に生きていた私たちを、創造の初めの姿に戻すため御子を世に送ってくださいました。『神の子』とするためです。み子は罪人となり、十字架に命を捨て、父なる神様の愛を見せてくださいました。これほどまでにあなたを愛しているものはいません。この愛を決して忘れないで下さい。今日も、神様はあなたを神の子として目を留めています。(KE)