我が郷は足日木の垂水のほとり

文化芸術から政治経済まで、貧しくなった日本人の紐帯を再構築したいものです

コスタス・カラマンリス

2010年06月18日 | 政治家

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コスタス・カラマンリス【政治家】ギリシャ コスタス・カラマンリス ギリシャ共和国

 

コスタス・カラマンリス

コスタス(コンスタンディノス)・カラマンリス
ギリシャ語 Κωστας (Κωνσταντίνος) Αλεξάνδρου Καραμανλής,
英語 Kostas Karamanlis
(1956914日 - )は、ギリシャの政治家で、
保守系政党新民主主義党の党首。首相を務めた。

1950年代から1990年代にかけて数度にわたり首相、大統領を務め、
ギリシャ政治を牽引した コンスタンディノス・カラマンリス の甥にあたる。
(wikipedia)

 

 

 

2015 06 24  国際的な 金融の黄昏 わが郷

                2015 06 24 国際的な 金融の黄昏

 

 

 

 

 

1956年9月14日にアテネで生まれ、アテネ大学法学部に学んだ後、アメリカ合衆国のタフツ大学フレッチャー法律外交大学院で大学院教育を受け、国際関係論と外交史により政治学博士号を取得した。

1989年の選挙で、伯父が創設した新民主主義党の所属でテッサロニキ選挙区に出馬し、初当選する。1997年、党が前年の総選挙で敗北した後を受けて党首に選出されたが、2000年の総選挙でも与党全ギリシャ社会主義運動 (PASOK) に敗北した。

2004年3月7日の総選挙で、若き党首として新民主主義党を勝利に導き、3月10日にギリシャ共和国の首相に任命された。彼は、ギリシャにおける最年少かつ初の戦後生まれの首相である。同年5月に、トルコのエルドアン首相との会談で、トルコのEU加盟を支持すると発言した。

2007年の総選挙でも支持率を落としながらも辛勝し、政権を維持した。しかし、世界的な経済危機の影響等から経済が低迷し、若者の暴動が起きるなど社会不安が増大し、支持率が低下した。このため、2009年秋に議会を解散して国民に信を問うたが、PASOKに敗北し、下野することになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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 コンスタンディノス・カラマンリス【政治家】ギリシャ 1907 ~ 1998 コンスタンディノス・カラマンリス

 

 

 

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後藤田 正純

2010年06月18日 | 政治家

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後藤田 正純【わが郷・政治家】1969~ 後藤田 正純 自由民主党

 

 

 

後藤田 正純 

後藤田 正純(ごとうだ まさずみ、1969年8月5日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(6期)、自由民主党国家戦略本部事務局長。内閣府副大臣、自民党徳島県連会長を歴任した。
妻は女優の水野真紀。警察庁長官、内閣官房長官、法務大臣を歴任した後藤田正晴は大叔父。
(wikipedia)

 

 

 

2016 02 14  負けない男 わが郷

                    2016 02 14 負けない男【わが郷・政治】

 

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コモロフスキ

2010年06月18日 | 政治家

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コモロフスキ【政治家】 コモロフスキ ポーランド

 


ブロニスワフ・コモロフスキ

Bronisław Komorowski, 195264日 -
ポーランドの政治家。現在、同国大統領(第三共和制第4代)。
元国防相(第三共和制第10代)。
2005年から2007年までセイム(ポーランド下院)副議長を務め、
2007115日から201078日までセイム議長に就任。
2010410日ポーランド空軍 Tu-154 墜落事故発生による
レフ・カチンスキの死去に伴い、大統領代行に就任した。
コルチャック家紋のマグナート(大貴族)の家系である。

 

市民プラットフォーム党の副総裁で、2010年10月に行われる予定であった
大統領選の候補者であったが、それに先立つ4月10日に発生した
「ポーランド空軍Tu-154墜落事故」により、選挙は6月20日に繰り上がった。
レフ・ワレサとタデウシュ・マゾヴィエツキからも個人的な推薦を受けた。
(wikipedia)

 

 

 

 

青年時代まで

ドルヌィ・シロンスク県の街オボルニキ・シロンスキェにて、「コルチャック」紋章を持つ高貴な家柄のコモロフスキ家に生まれる。コモロフスキ家はシュラフタ(ポーランド貴族)の伝統ある家柄で、有能な政治家と軍司令官を輩出するとして何世代にもわたって(シュラフタ制度が廃止された現代においても)ポーランド全土から尊敬と信頼を得ている名家中の名家の一つである。父はジグムント・レオン・コモロフスキ伯爵(1924-1993)、母はヤドヴィガ(結婚前の姓はシャルコフスカ、1921年 - )。コモロフスキ家の起源は北東リトアニアのアウクシュタイティヤ地方で、新たに本拠となったポーランド南部のジヴィエツチズナ地方の領地に移ってからはかの地を2世紀以上治めていた。一族には第二次世界大戦のときワルシャワ蜂起などで占領者であったナチス・ドイツに戦いを挑んだロンドン・ポーランド亡命政府系「ポーランド国内軍」の最高司令官(1944年)および冷戦期を通じて西側自由主義陣営に属し1989年まで活動した同ポーランド亡命政府首相(1947年 - 1949年)を務めたタデウシュ・コモロフスキがいる。

一家は1957年から1959年にかけてオトフォツク市近郊のユゼフフに居住。ブロニスワフは1959年から1966年にかけてはプルシュクフで義務教育を受ける。1966年にワルシャワに引越し、その後ワルシャワ市第24高等学校(ツィプリアン・カミル・ノルヴィド高等学校)を卒業。

少年時代は毎年夏はボーイスカウトに参加。プルシュクフの第75マゾフシェボーイスカウト団に所属。第208ワルシャワスカウトチーム(「傘」大隊)モコトフ分団の教官になり、そこで知り合った女性アンナ・デンボフスカとその後結婚することになる。

1977年、ワルシャワ大学文学部歴史学科を卒業。1977年から1980年からカトリック系ではあるがカトリック教会からは独立して活動している日刊新聞「普遍的な言葉」の編集に従事。

 

反体制活動[編集]

ポーランド人民共和国(PRL)では反体制の民主化運動として反体制出版活動に参加、アントニ・マチェレヴィチと共に反体制派の月刊機関誌「声」の編集に携わる。1979年11月11日には「人権と市民権の擁護運動」の活動家と共に街頭市民デモを行い、このため1980年には有罪判決を受け1ヶ月間服役(当時の裁判長はアンジェイ・クリジェ)。1980年から1981年にかけて独立自主管理労働組合「連帯」の社会研究所で働く。1981年9月27日には独立貢献会の設立に参加し宣言書に署名。1981年から1983年にかけての戒厳令の時代には禁固刑を受ける。1989年までニェポカラヌフの幼年学校で教鞭をとる。


インターネットの活用[編集]

コモロフスキは自身の個人サイトを頻繁に更新[1]し、ツイッターへの投稿を頻繁に行って[2]有権者との対話を重視している。また、Flickrへの投稿も熱心に行っている[3]。

大統領時代[編集]

2010年3月27日には市民プラットフォーム党内の予備選挙により、若い世代からの人気の高い対立候補ラドスワフ・シコルスキ外相を抑えて党公式のポーランド大統領候補に選出された。

予備選挙のテレビ討論で、シコルスキが英国の大学(オックスフォード大学で現在英国保守党党首を務めるデイヴィッド・キャメロンとは同じ学生クラブの同窓)を出ていて流暢に英語を話せるためこれからの国際政治では有利であると、自らの実務能力に関して視聴者に訴えたのを受け、コモロフスキは「あなたが英国の大学にいる間、私は(反体制運動をして逮捕され)刑務所にいましたよ。」と話し、自分はポーランドの体制転換の立役者の一人でこれまでつねに中心的活動をしていたのであるから、国家の顔役として国民を代表するポーランド大統領によりふさわしい資質があるとアピールした。ポーランド共和国憲法によるとポーランドは議院内閣制を採っており、大統領は儀礼的な職務で、行政における実務の決定権の大半は首相(内閣)にある。

大統領選挙は同年10月に行われ、次期大統領は12月に就任する予定であった。しかし、2010年4月10日にレフ・カチンスキ大統領が飛行機事故で死亡したことを受け(ポーランド空軍Tu-154墜落事故)、憲法規定により順位第2位(下院議長が指定されている)のコモロフスキが大統領代行に就任、ポーランド共和国憲法に則り6月20日に大統領選挙が行われることとなった。

選挙はコモロフスキが優位に進め、得票率で1位となったが41.54%にとどまり、カチンスキ大統領の兄で前首相のヤロスワフ・カチンスキが36.46%を獲得し2位になった。過半数を獲得した者がいなかったため、選挙法の規定に従い決選投票が7月4日に行われ[4]、ヤスロワフを破り第三共和制第5代大統領に当選した[5]。選挙後、7月8日に下院議長を退き、8月6日に正式に大統領に就任した。

国立銀行総裁の指名 - ツイッターにて[編集]

5月27日には、次期ポーランド国立銀行総裁に元ポーランド首相で現在は国際通貨基金(IMF)の欧州局長を務める経済学者のマレック・ベルカを指名することをまずツイッターで突然つぶやいて世を驚かせ[6][7]、その後に公の場で正式発表した。一国の元首が国政の最重要事項についてツイッターにて私的に事前発表するというのは世界史において前代未聞である。ポーランド共和国憲法によると、ポーランド国立銀行総裁の指名は大統領が行い、それを議会が承認する。

 

 

 

2015 02 28  暴力団の、パシリ わが郷

                  2015 02 28 暴力団の、パシリ

 

 

 

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ゴルバチョフ

2010年06月18日 | 政治家

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ゴルバチョフ【わが郷・政治家】1931~ ゴルバチョフ ロシア

 

ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ

(ロシア語: Михаил Сергеевич Горбачёв
(ミハイール・スィルギェーイェヴィチュ・ガルバチョーフ),
ラテン文字表記:Mikhail Sergeevich Gorbachev, 1931年3月2日 - )
ソビエト連邦の政治家で、8代目にして、同国最後の最高指導者。

1985年3月にソビエト連邦共産党書記長に就任し、ソ連国内では東欧の社会主義諸国民主化の契機となったペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)などの大改革を断行し、政治・経済・文化など多岐にわたる分野で合理化・民主化を推し進めた。しかし、ソ連国内の噴出する民族主義を抑えることができず、保守派と改革派に国内の政治勢力が分立するなか、1991年の「ソ連8月クーデター」を招来、新連邦条約締結に失敗した。結果として、ソ連共産党の一党独裁体制とソ連邦そのものを終結・崩壊へと導くこととなった。

外交面ではそれまで40年以上続いていた冷戦を、マルタ会談にて、就任して僅か5年目で終結させて軍縮を進めるなど、世界平和に多大に貢献した。1990年、ソ連で最初で最後となる大統領に就任し、同年にはノーベル平和賞を受賞した。日本を含む西側諸国では絶大な人気を誇り、ゴルビーの愛称で親しまれたものの、ロシア国内ではアメリカと並ぶ二強国であったソ連を崩壊させたことから評価が分かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%95

 

 

 

 

2014 08 26  竹島どころか、台湾だって日本領だった。  わが郷 

2014 03 25   グローバリズムの終焉 わが郷

2014 03 18 アッチと コッチの政治家

 敵の攻撃に対して素早いカウンターをくりだした。そして扇の要である、クリミアを正々堂々の住民投票。圧倒的な勝利で、ゴルバチョフが売り飛ばした、そのクリミアを奪い返した。これとわが宰相をば、比ぶべくもない。台湾も朝鮮も連合国側に奪われた。台湾では学生諸君が、精一杯の戦いをつづけている

 

2010 06 19  トルコの損保を買収 わが郷

 「我が郷」は日本の一般の人間としての立場から考えてきました。古典的ないい方では、「労働者」そして「資本家」どちらもかつては日本人でした。立場の違いこそあれ、たがいに協力して日本をもり立ててきました。しかし今の日本は別のカテゴリーで色分けしないと、実態が表現できない社会体制になってきました。日本の国内で富を生み出す人間と、それを奪い外国へ持ち出そうとする人たちとに別れてきています。亀井静香氏に信頼感があるのは、常に日本の富を守る立場がぶれないからなのでしょう。国際協調や国際競争をことさら言う人たちは、日本の生み出す富を外国に持ちだそうとする、日本を売る人たちです。

 

2009 10 19  血管と骨だけみえるサカナ わが郷

 ミハイル・ゴルバチョフは西側ではたいそう評価されたと、ユダヤのマスコミでは持て囃されていた がロシアではたいそう不人気である。『 売国奴 』  『 国を解体してたたき売ったヤツ 』 との悪名が高い。1991年12月25日に彼は辞任し紆余曲折の末に、性格破綻者でアル中のエリツィンが、あらゆる国家財産をユダヤに引き渡し始めた。

ソビエト連邦(ソ連)が解体されてその構成国は分離された。次々に孤立した元の構成国やら周辺国にはオレンジ色の革命の波が押し寄せて、かつての政体が粉砕され親ユダヤの国体が成立していった。

米ソの対立軸が押し流されると、片輪を失った世界政治・経済は一方の片輪の気ままな蛇行に付き合うハメとなった。

 

 

 

 

 

 

 政治家の顔

 

 


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コンスタンディノス・カラマンリス

2010年06月18日 | 政治家

 政治家

コンスタンディノス・カラマンリス【政治家】ギリシャ 1907 ~ 1998 コンスタンディノス・カラマンリス ギリシャ共和国

 

コンスタンディノス・カラマンリス

 コンスタンディノス・カラマンリス(ギリシャ語 Κωνσταντίνος Καραμανλής
 190738日 - 1998423
首相、大統領を務めた20世紀ギリシャの政治家。
なお名前の「コンスタンディノス」は「コンスタンティノス」の現代ギリシャ語形。
(wikipedia)

 

 

 

 

前半生[編集]

ギリシャ北部のセレス地方でうまれた。父のゲオルギオスは教師を務め、20世紀始めのマケドニア地方のギリシャ併合運動に参加していた。マケドニア地方で子供時代を過ごした後、アテネで法学を勉強した。セレスに戻り弁護士として働き始めた彼は保守政党人民党(Laikon Komma)に入党し28歳のときに第二次世界大戦前最後の選挙であった国政選挙で当選した。

第一次政権[編集]

第二次世界大戦後、カラマンリスは政界で頭角を現し、アレクサンドル・パパゴス首相のもとで公共事業省大臣となった。1955年にパパゴスが死去した。後任にはステファノス・ステファノプロスやパナギオディス・カネロプロスなどの重鎮が指名されると見られていたが、国王パウロス1世は周囲の予想に反してカラマンリスを首相に指名した。首相就任から3回の総選挙を戦い、1961年の選挙まで議会多数派を維持した。1959年にはギリシャ経済活性化の為に5カ年計画を発表し、重工業への集中化と観光の産業化を指令した。この間に彼はパパゴスの設立した'Synagermos'を発展的に解党し民族急進同盟を設立した。一方で、カラマンリスが政権の中心にあった時代は、映画「Z」の題材となったグリゴリス・ランブラキス議員暗殺をはじめ、左翼勢力や労働運動に対する弾圧がひどかった時期でもあり、強権的な手法で政権を率いた。

亡命[編集]

1963年7月、パウロス国王によって首相を解任される。カラマンリスが、親ナチス的な言動を取っていたフリデリキ王妃を嫌っていたことが原因であると言われている。その後ギリシャ社会の不安定さが増した。テッサロニキで行われたデモにおいて左派政治家のグリゴリス・ランブラキスが暗殺され、11月には総選挙で民族急進同盟がゲオルギオス・パパンドレウ率いる中央同盟に敗北した。この結果を受けてカラマンリスは党首を辞任し、ギリシャを離れた。その後の11ヶ月、彼はパリで半ば強制的な亡命生活を送った。

第二次政権[編集]

1967年4月にゲオルギオス・パパドプロスら陸軍将校によるクーデターが発生した。カラマンリスはパリで軍事政権に対する激しい非難の声をあげ続けた。1974年7月に軍事独裁政権が倒れると、彼はギリシャに帰国した。その際、友人であったフランスの大統領ジスカール・デスタンは自身の大統領専用機をカラマンリスに提供している。国民の圧倒的な支持を受けて、彼は首相に就任した。国内の左右の対立を緩和するには、中道右派のカラマンリスが最善であると、皆が考えていたからである。カラマンリスは挙国一致内閣を率いて、キプロス紛争を巡って危機に陥った希土関係の修繕と、ギリシャの新しい民主体制の構築に取り組んだ。内戦以来禁止されていたギリシャ共産党の合法化も行ったが、検閲は直ちには廃止せず、1967年のクーデターに参加した軍人たちの処分も進めなかった。彼は急激な民主化の為に再度クーデターが発生することを懸念していた。

これらの事情にもかかわらず、民主化は着実に進んでいった。軍の粛正も完了し、クーデターに参加した軍人は反逆の罪で裁判にかけられた。パパドプロスを始めとする将校たちは死刑の判決を受けたが、のちに全員終身刑へと減刑となった。1974年には国民投票で王制が正式に廃止され、ギリシャ共和国が誕生した。翌1975年に新憲法が制定され、欧州経済共同体(EEC)への加盟交渉も開始された。

1974年、カラマンリスは新しい保守政党新民主主義党(ND)を設立し、1974年と1977年の国政選挙に勝利して自身は首相を務めた。1980年にEEC加盟を決定した後に辞任し、ゲオルギオス・ラリスに後を譲った。

 

大統領職[編集]

カラマンリスは1980年に大統領に選出され、その間ギリシャのEC加盟(1981年)を見届けた。1990年にコンスタンディノス・ミツォタキス首相のもとで再び大統領に選出されている。

追記[編集]

1995年、88歳になったカラマンリスは政界を引退した。政治生活は5回の当選、首相在位14年間、大統領在位2期10年を含む60年あまりにおよぶ。彼の功績に対して1978年にKarispreisが送られた。1998年、カラマンリスは91歳で亡くなった。その思想は彼が設立した保守系シンクタンクであるコンスタンディノス・カラマンリス財団に受け継がれている。

甥であるコスタス・カラマンリスは、新民主主義党の党首となり、2000年代に首相を務めた。

 

 

 

 

 

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 コスタス・カラマンリス【政治家】ギリシャ コスタス・カラマンリス 

 

 

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