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下地島

2011年03月14日 | 課題分類

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下地島  (しもじじま)

沖縄県宮古島市に属する島である。伊良部島の西隣に位置し、6本の橋で繋がっている。国内で唯一、パイロット訓練に用いられる下地島空港がある


面積9.54km²[1]、周囲17.5km[2]、人口60人[2]で、島全体が第四紀更新世の多孔質の石灰岩で覆われている。河川はなく、伊良部島との間には幅数十mの狭い水路が約3kmにわたって続く。水路が狭いため航空写真などでは伊良部島と一体の島にみえるが別の島である。南側は単調な海岸で、西側は激しい海食崖が続き、北海岸は下地島空港の滑走路が海に突出し、小さな入り江がある。

15世紀後半に朝鮮の船が宮古島に漂着した記録の中に下地島に比定される「時麻子島」の記述があり、宮古島と下地島など近隣の5島の島民は互いに往来していたという[3]。遺跡は見つかっていないが、当時人が住んでいた事がうかがえる。また、古琉球の頃にはキドマリ村(木泊村)が伊良部島の佐和田にあったとされ、村跡が残る。この村は古琉球の間に津波で壊滅したとされるが、16世紀の嘉靖年間に喜屋泊与人に関する記述があり、この喜屋泊が木泊とするならば当時まで村が存在したと考えられる[4]。
 
近世初頭に伊良部村の伊安姓国仲与人が八重山で牡牛・牝牛を2匹購入してきて放牧したといい[5]、以降は牛や馬の牧場があった。乾隆32年(1767年)に与世山親方は、馬が風雨や寒暑をしのぐためにアダンや諸木を植えるよう指示している[6]。乾隆34年(1769年)に伊良部島との間に佐和田矼(ナカユニ橋)が築かれた[7]が、乾隆36年の八重山地震にともなう明和大津波により一部が破壊された。この津波では下地島に13丈(約40m)もの高さの大波が打寄せ、西岸の帯岩などが打上げられた。平坦なため放牧地や畑が水没し、馬や牛、羊などが溺死している wikipedia

 

 

 

 

宮古島の下地島空港に戦闘機常駐 尖閣領空侵犯で防衛省検討 【共同】

  中国の航空機による沖縄県・尖閣諸島周辺の領空侵犯に対処するため、防衛省が沖縄県宮古島市の下地島空港にF15戦闘機を常駐させる案を検討していることが分かった。政府関係者が14日、明らかにした。

 現在の防空拠点となっている航空自衛隊那覇基地より尖閣に近く、3000mの滑走路があり、防衛省は「利用価値は非常に高い」(幹部)と評価している。

 同空港は自衛隊の利用を前提としておらず、調整が必要となる。

 昨年12月に中国機が尖閣周辺の領空侵犯した際、那覇基地から緊急発進したF15戦闘機が到着した時には中国機は既に領空を出ていた。下地島空港は沖縄県が管理している。2013/01/14 17:52
http://www.47news.jp/CN/201301/CN2013011401001524.html

 

 


大きい島が宮古島で、その西側にある小さな島が、下地島。

 

 この下地島の空港も利用客がない、無駄な飛行場だった。

だが、先島防衛のために、自衛隊を配備すれば、大きく国益に貢献できる

サヨクはそのことに反対している。こいつ等は、支那畜の手先だ。

震災復興に、力を集中させよう 2011年05月12日

 

上に一部ご紹介の記事は、2年ほど前にアップした記事です。

それが最近になって、防衛省が検討しはじめました。

嬉しいことです。  ポチとお願いします

 

 

 

 

石垣島の東北東に三角形の名を記して無い島が、宮古島です。

それに付属して、西側に今回話題になった、下地島があります。

 

 

 

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避難を決断する時間

2011年03月14日 | 日記

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2011 03 14 避難を決断する時間【わが郷】


「ひゅうが」です。(画面をクリックすれば、大画面になります)
日本の船を護らない政府 より

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「死者は万人単位」宮城県知事が見通し 【朝日】  

  安否確認のできない人の数は1万2千人以上

 想定したくない数字がおどっている。阪神淡路大地震を遙かに超える犠牲者が予想されていると、ニュースが伝えている。

 

 今までの死亡者の発表は死体の確認されたものでカウントされている。行方不明者は親族なり知人が、いっしょにいたが津波に呑まれたとか、逃げ遅れて海に流されたのは確実だとかの、申告をもとに認定されるのだろう。

 ところが想定したくない事態だが、町の広範囲の地域全体で逃げ遅れれば、行方不明を申し立てる人がいない事態となる。初期の津波がたとえば、2メートルの高さで押し寄せても、低地にいたのならばひとたまりもない。被災者は数㎞もあるいは、20㎞も流されてしまうのかも知れない。運良く漂流している屋根などに乗って、海自の「ちょうかい」に助けられた新川さんの例もある。この方は運が良かった。しかし海に流されたほとんどの人は、沈んでしまっているのだろう。浮いていてもほんの一部だけが海面に出ている状態と思われる。これでは発見するのがきわめて難しい。

 

 


米空母部隊、被災地沖に到着=支援開始、活動拠点に
 Carrier Reagan

 

 これを書いていると、とても辛い。

 しかし地震の速報の周知と、とっさに高台などへ避難する重要性を、一人でも多くの方に知ってもらえたらと書いている。


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短時間で津波到達 「勧告待たず避難を」 【読売】

 この読売新聞の記事は、11日のもので地震発生の前に配信されていたものと思われる。ちょっと不思議な気もするが実は、9日に現地であった地震をうけて書かれたもの。この記事を読んで確かにそうだと、心に決めていた人がいたならば、その方は助かるチャンスが増えたのだろう。

 ところがいざその場では、荷物も持たずわずか2~3分のうちに、とにかく迅速第一で避難すると決意できたひとはどれほどいたのだろうか。上手く避難を開始しても安全な場所までたどり着くのには、何分もかかってしまう。

 

 当ブログの管理者は昨日も書いたが、内陸の盆地に住んでいる。海抜は何百メートルもある。津波は絶対に来ない。それで地震発生の当時は自室にいた。尋常ならざる揺れがいつもの何倍も長く続いていた。家族がひとり施設園芸の畑で作業していた。さぞ心寂しい思いをしているとは思ったが、当地は震災の被害が発生しない地質構造。揺れがおさまってから家を出て、車で畑に向かった。

 すぐに自宅にむかって避難してくる家族と合流して、車内に収容して我が家に帰った。建物の中よりは、自家用車の中の方が安全と判断して、カーラジオでニュースを聞いていた。NHKのアナウンサーが 『津波の高さは、2メートル、いや10メートル』 と叫んでいた。

 

 『10メートルと言ったら、あの木と同じ高さだ、そんなのが来るのかよ

 

 このような暢気な会話をしているときに、被災地の海岸部の方は命の分かれ目の決断ができるかどうかの、運命の時間のなかにおられたのだろう。今となってはタラレバではあるが、携帯電話の電源が自動的に入って、避難を促すような音声が流れるシステムでもあったらと思う。

 

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本日の話題の記事

 

2011 03 14  「死者は万人単位」宮城県知事が見通し 【朝日】  

2011 03 14  数字ありきの首相に自衛隊混乱 【産経】 

2011 03 13  東日本大震災:海自護衛艦、救援物資を輸送 /神奈川 【毎日・神奈川】

2011 03 13  米空母部隊、被災地沖に到着=支援開始、活動拠点に 【時事】

2011 03 12  広域緊急援助隊や防衛省艦艇出動~官房長官 【news24.jp】

2011 03 12  津波短時間で到達 広範囲で断層破壊原因 【産経】

2011 03 12  東日本大震災:被災地に消防隊員ら300人以上派遣、海自「ひゅうが」も出港/神奈川 【カナコロ】

2011 03 11  短時間で津波到達 「勧告待たず避難を」 【読売】

2011 03 10  メア氏「高価な思いやり予算は米国の利益」とも 【読売】

 

 

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