鎌倉にある「東慶寺」に行ったとき、面白そうな題名の本が置いてあった。
「豊臣家最後の姫 天秀尼の数奇な運命」三池純正著
立ち読みしてみたら、母親は千姫ではなく、側室の子であるという。それも年子で、男児国松、女児泰姫とある。なるほど面白そうである。
帰宅後、図書館でリクエストして、今回ゆっくりと読み、堪能した。
秀頼は、秀吉と浅井長政とお市の長女として生まれた淀君との間に生まれた男子であり、秀吉の後継者である。その秀頼は家康の孫の千姫と結婚するが、まだ千姫は幼かったので、身の回りの世話を焼いていた女とのあいだに、子を儲ける。その子らが豊臣家の血を引く子らであり、世が世なら後継になっていた。
でも実際は、男児の国松は大阪の夏の陣後に、大阪城を抜け出し、傅(もり)役とはぐれ、彷徨っているうちに保護されたが、秀頼の遺児と知ると、京中を車に乗せられ引き回され、挙句に六条川原で斬首されたという。秀頼に似た、高貴な雰囲気を持った美少年であったと記述されている。その子が斬首される時に、「家康は約束を破って、父を死に追いやった」と叫んだという。運命を受け入れた賢い子だという印象を受ける。
一方、女児の方も、夏の陣後に大阪城を抜け出したが、やはり捉えられ、女というので殺されずに、尼になることで、子孫をつくることを許されずに、7歳から37歳で亡くなるまで鎌倉の東慶寺で過ごす。その子が後の天秀尼(てんしゅうに)である。そこで、こういう題名が付けられたのだろう。
千姫は、徳川秀忠と浅井長政とお市の三女として生まれたお江との間に生まれた女子である。秀頼の千姫との結婚は、秀吉の遺言で家康に託された政略結婚であった。秀頼11歳、千姫7歳の時という。
そいて、その4年後に(1607年頃)豊臣家の後継が生まれているのである。
10年間位は夫婦関係ははなかったとされる。
秀頼は浅井家の血筋を引いているようで長政に似て、体が大きくて筋骨豊かな人物であったようである。身の回りの世話をしていた女がその相手であるという。でもそのことは徳川家にも、千姫にも秘匿とされ、当時の記録には全く記されていない。
長男が国松、次の年には長女泰姫が生まれていて、どちらも淀君の妹の初に託されて、嫁ぎ先の京極家の家人が育てられていた。
大阪夏の陣の直前、今まで傅役や乳母に育てられていた二人が初めて大阪城へ連れてこられて、秀頼と対面。国松8歳、泰姫7歳の時であった。
半年位のほんと短いあいだの父子娘祖母との暮らしであったとされる。
千姫は大阪夏の陣の時に、布団にくるまれて、大阪城から脱出し、夫と義母の命乞いをしたが、叶わず、二人が自刃したことを知ると、しばらくは臥せっていたという。
その後、泰姫が保護されたと知ると、会いに行き、夫の遺児ということで、自分の養女にして、手厚く面倒をみることになる。東慶寺に行ってからもずーと付き合いは続いていた。
また、千姫はその後、本多忠刻と結婚し、子どもももうけるが、息子が3歳で、夫も31歳の若さで亡くなる。
その後、江戸城内で二人の菩提を弔う生活をして過ごしたという。
二人とも、辛いことを経験し、それを乗り越えて、生きてきて、通い合うものがあったのだろう。
東慶寺の天秀尼から千姫(今では出家して天樹院になっている)に、二輪の美しい花が送られたという、記述が残されている。
その花を愛でながら、天樹院は
「人は苦しみがないから、悩みがないから、笑顔になれるのではない。それに負けない心、打ち勝つ心をもっているからこそ、美しい笑顔を見せることができる。花も同じだ。幾重もの雨や嵐を突き抜けてきたからこそ、美しい花を咲かせる。」と悟ったという。天秀尼の懸命に自らの運命と闘っている、美しくも強き心を見て、自分も生きる励みを得たという。
淀殿と天秀尼の肖像画はよく似ている。目のあたりがそっくりである。
この思いを持って、もう一度東慶寺は訪れてみたいものである。
「豊臣家最後の姫 天秀尼の数奇な運命」三池純正著
立ち読みしてみたら、母親は千姫ではなく、側室の子であるという。それも年子で、男児国松、女児泰姫とある。なるほど面白そうである。
帰宅後、図書館でリクエストして、今回ゆっくりと読み、堪能した。
秀頼は、秀吉と浅井長政とお市の長女として生まれた淀君との間に生まれた男子であり、秀吉の後継者である。その秀頼は家康の孫の千姫と結婚するが、まだ千姫は幼かったので、身の回りの世話を焼いていた女とのあいだに、子を儲ける。その子らが豊臣家の血を引く子らであり、世が世なら後継になっていた。
でも実際は、男児の国松は大阪の夏の陣後に、大阪城を抜け出し、傅(もり)役とはぐれ、彷徨っているうちに保護されたが、秀頼の遺児と知ると、京中を車に乗せられ引き回され、挙句に六条川原で斬首されたという。秀頼に似た、高貴な雰囲気を持った美少年であったと記述されている。その子が斬首される時に、「家康は約束を破って、父を死に追いやった」と叫んだという。運命を受け入れた賢い子だという印象を受ける。
一方、女児の方も、夏の陣後に大阪城を抜け出したが、やはり捉えられ、女というので殺されずに、尼になることで、子孫をつくることを許されずに、7歳から37歳で亡くなるまで鎌倉の東慶寺で過ごす。その子が後の天秀尼(てんしゅうに)である。そこで、こういう題名が付けられたのだろう。
千姫は、徳川秀忠と浅井長政とお市の三女として生まれたお江との間に生まれた女子である。秀頼の千姫との結婚は、秀吉の遺言で家康に託された政略結婚であった。秀頼11歳、千姫7歳の時という。
そいて、その4年後に(1607年頃)豊臣家の後継が生まれているのである。
10年間位は夫婦関係ははなかったとされる。
秀頼は浅井家の血筋を引いているようで長政に似て、体が大きくて筋骨豊かな人物であったようである。身の回りの世話をしていた女がその相手であるという。でもそのことは徳川家にも、千姫にも秘匿とされ、当時の記録には全く記されていない。
長男が国松、次の年には長女泰姫が生まれていて、どちらも淀君の妹の初に託されて、嫁ぎ先の京極家の家人が育てられていた。
大阪夏の陣の直前、今まで傅役や乳母に育てられていた二人が初めて大阪城へ連れてこられて、秀頼と対面。国松8歳、泰姫7歳の時であった。
半年位のほんと短いあいだの父子娘祖母との暮らしであったとされる。
千姫は大阪夏の陣の時に、布団にくるまれて、大阪城から脱出し、夫と義母の命乞いをしたが、叶わず、二人が自刃したことを知ると、しばらくは臥せっていたという。
その後、泰姫が保護されたと知ると、会いに行き、夫の遺児ということで、自分の養女にして、手厚く面倒をみることになる。東慶寺に行ってからもずーと付き合いは続いていた。
また、千姫はその後、本多忠刻と結婚し、子どもももうけるが、息子が3歳で、夫も31歳の若さで亡くなる。
その後、江戸城内で二人の菩提を弔う生活をして過ごしたという。
二人とも、辛いことを経験し、それを乗り越えて、生きてきて、通い合うものがあったのだろう。
東慶寺の天秀尼から千姫(今では出家して天樹院になっている)に、二輪の美しい花が送られたという、記述が残されている。
その花を愛でながら、天樹院は
「人は苦しみがないから、悩みがないから、笑顔になれるのではない。それに負けない心、打ち勝つ心をもっているからこそ、美しい笑顔を見せることができる。花も同じだ。幾重もの雨や嵐を突き抜けてきたからこそ、美しい花を咲かせる。」と悟ったという。天秀尼の懸命に自らの運命と闘っている、美しくも強き心を見て、自分も生きる励みを得たという。
淀殿と天秀尼の肖像画はよく似ている。目のあたりがそっくりである。
この思いを持って、もう一度東慶寺は訪れてみたいものである。
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