当時の大学生は皆、資本論を読んでいた。
私も読んだ。但し、ダイジェスト版で、日本語で、だった。
皆と語り合った。
私にとっての問題は、かいつまんで言えば 2点だった。
① 世襲財産・身分を認めるか?
② カトリック教会と共産主義を、どうするか?
①の答はノーだった。だが、欲に負けた。
富裕な父の子として生まれた私は、父が与えてくれた財産を拒否する正義を持ち合わせていなかった。身分は、無くて、幸いというところだろう。もし、身分が有ったら、やはり捨てられなかっただろうから。
② の答は、カトリック教会任せだった。故に、共産党に入党する事はなかった。
だが、投票先は、20歳以来 渡米するまで 共産党のみだった。
1970年代当時、日本共産党は、憲法改正・軍備賛成だった。
渡米以来、別に日本を恋しいとは思わなかった。
ボストンで沢山の日本人の友達を得ていた。
絶対大丈夫な父のような日本。
全戦全勝に決まっているという信念があった。
だが、2011年3月。私は 泡を食った。大地が揺れた。日本は磐石ではなかった。
そして、祖国は失態を続ける。
日本共産党は、変貌していた。
護憲・反戦・反軍備だと言う党になっていた。
そして何より、少数ながら、反原発議員100%を誇っていた。
即時原発ゼロの党は、共産党だけだと豪語していた。
祖国の原発止めたさに、私は又、共産党へ投票する事にした。
アメリカからだ。仲間を募った。99名集まった。2012年末・衆議院選挙。
共産党が唱える TPP 反対、沖縄の米軍基地追いたてには 目を瞑った。
そんな事は言っておれなかった。原発を続けていたら、原発は 又 爆裂する。
そうなると同胞が死ぬ。それだけは嫌だった。
2012年の衆院選挙後、色々起きた。見えてきた。
共産党員でなくても共産党支持者の奇妙な言動が。
是々非々主義ではなく、問答無用にアメリカは悪く中韓は正しい。ソビエトは無視、だ。
そんな中で、ひとつの貴重な体験をした。
共産党シンパのブログで、朝鮮学校の教科書無償を止めた県に対して、皆がブーイングだった。
私は呆れた。そのブログ主も、そのブログを訪れる人達も、同胞・日本人だと思っていたからだ。
だが、彼等は断固として、日本は朝鮮学校に貢いで当たり前・貢ぎを減らす事は許さない!だった。呆れ果てた挙句、ちょっとググッテみた。そして見つけた。
日本共産党は在日に選挙権を与えようという法案を8回も出して、8回とも潰されていた。
だが、色々変貌する日本共産党。
あるいは、この厭らしい朝鮮びいき・韓国びいきという病気も 治るかもしれないと思っていた。
だが、どうやら、私は間違っていた。共産党の朝鮮びいきは不治の病のようだ。
http://81.xmbs.jp/piroshigogo-222215-ch.php
『日本共産党の正体』 から抜粋
■結成時、一斉に離党
1955年(昭和30年)1月1日、共産党はようやく、機関紙 『アカハタ』 で 「極左的冒険主義と手を切る」 と発表した。
その後、在日朝鮮人活動家の間では、二つの考え方が対立するようになる。一つは、北朝鮮支持の旗を実際に日本国内で掲げるべきという考え方。もう一つは、幅広い統一戦線をつくるために、旗は心の中に掲げるべきという日本共産党民対の考え方であった。対立は激しかった。ここにキー・パーソンが登場する。韓徳銖である。後に朝鮮総連中央常任委員会議長、北朝鮮最高人民会議常任委員を歴任する彼は、1907年(明治40年)慶尚北道で生まれている。1927年(昭和2年)渡日して、日大専門部に入学(後に中退)。
共産党系の労組である全協に加入し、1934年(昭和9年)、熱海線トンネル工事の争議に加わり検挙される。戦後は朝連に参加。朝連中央本部総務局長などを歴任した。韓徳銖は、共産党の指導下で日本革命を共に目指したいわゆる“民対派”に対して、朝鮮や朝鮮労働党との結合を(おそらく朝鮮労働党側の内意を受けて)主張した“民対派”として、在日朝鮮人運動の路線転換に主導的役割を果たした。
1955年(昭和30年)3月11日、民戦は中央委員会を開いた。その席で韓徳銖は“在日朝鮮人運動の転換について”演説する。反対派のヤジが激しく、中断せざるをえなくなった。だが、彼の作った路線転換への流れは変わらなかった。5月23日、浅草公会堂で最後の民戦6全大会が開かれ、翌24日解散する。こうして1955年5月25日、今からちょうど50年前、民戦解散の翌日、朝鮮民主主義人民共和国支持、日本の内政不干渉を掲げて、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が結成された。共産党に党籍のあった在日朝鮮人は一斉に離脱した。
同年7月24日、共産党は民族対策部を解消。朝鮮人党員離党の方針を決定することで、これを追認した。戦前、戦後の最も苦しかった時代、共産党の中で最も困難な仕事を引き受け、党を支えたのは在日朝鮮人の人々であった。共産党の正史では、そのことに一言も触れられていない。
半世紀という歳月は、共産党と朝鮮総連という二つの組織を、全く別々の遠い所まで連れていった。在日朝鮮人と日本共産党が、共に夢見た濃密な “時” を振り返る者も もういない。
転載終わり
何が 「我が党わぁ~平和を愛し、結党以来平和一筋です」 なものか。共産党の嘘、詭弁に騙されるな!
なるほど。
こういう過去の経緯があったから、日本共産党は在日朝鮮人韓国人・絶対擁護なのだ。
日本人は二の次、三の次。
我々日本人は、日本共産党にとって、朝鮮人・韓国人に血税を貢ぐための存在なのだ。
それなら私は、もう、生涯、共産党に投票する事は無いな。
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私も読んだ。但し、ダイジェスト版で、日本語で、だった。
皆と語り合った。
私にとっての問題は、かいつまんで言えば 2点だった。
① 世襲財産・身分を認めるか?
② カトリック教会と共産主義を、どうするか?
①の答はノーだった。だが、欲に負けた。
富裕な父の子として生まれた私は、父が与えてくれた財産を拒否する正義を持ち合わせていなかった。身分は、無くて、幸いというところだろう。もし、身分が有ったら、やはり捨てられなかっただろうから。
② の答は、カトリック教会任せだった。故に、共産党に入党する事はなかった。
だが、投票先は、20歳以来 渡米するまで 共産党のみだった。
1970年代当時、日本共産党は、憲法改正・軍備賛成だった。
渡米以来、別に日本を恋しいとは思わなかった。
ボストンで沢山の日本人の友達を得ていた。
絶対大丈夫な父のような日本。
全戦全勝に決まっているという信念があった。
だが、2011年3月。私は 泡を食った。大地が揺れた。日本は磐石ではなかった。
そして、祖国は失態を続ける。
日本共産党は、変貌していた。
護憲・反戦・反軍備だと言う党になっていた。
そして何より、少数ながら、反原発議員100%を誇っていた。
即時原発ゼロの党は、共産党だけだと豪語していた。
祖国の原発止めたさに、私は又、共産党へ投票する事にした。
アメリカからだ。仲間を募った。99名集まった。2012年末・衆議院選挙。
共産党が唱える TPP 反対、沖縄の米軍基地追いたてには 目を瞑った。
そんな事は言っておれなかった。原発を続けていたら、原発は 又 爆裂する。
そうなると同胞が死ぬ。それだけは嫌だった。
2012年の衆院選挙後、色々起きた。見えてきた。
共産党員でなくても共産党支持者の奇妙な言動が。
是々非々主義ではなく、問答無用にアメリカは悪く中韓は正しい。ソビエトは無視、だ。
そんな中で、ひとつの貴重な体験をした。
共産党シンパのブログで、朝鮮学校の教科書無償を止めた県に対して、皆がブーイングだった。
私は呆れた。そのブログ主も、そのブログを訪れる人達も、同胞・日本人だと思っていたからだ。
だが、彼等は断固として、日本は朝鮮学校に貢いで当たり前・貢ぎを減らす事は許さない!だった。呆れ果てた挙句、ちょっとググッテみた。そして見つけた。
日本共産党は在日に選挙権を与えようという法案を8回も出して、8回とも潰されていた。
だが、色々変貌する日本共産党。
あるいは、この厭らしい朝鮮びいき・韓国びいきという病気も 治るかもしれないと思っていた。
だが、どうやら、私は間違っていた。共産党の朝鮮びいきは不治の病のようだ。
http://81.xmbs.jp/piroshigogo-222215-ch.php
『日本共産党の正体』 から抜粋
■結成時、一斉に離党
1955年(昭和30年)1月1日、共産党はようやく、機関紙 『アカハタ』 で 「極左的冒険主義と手を切る」 と発表した。
その後、在日朝鮮人活動家の間では、二つの考え方が対立するようになる。一つは、北朝鮮支持の旗を実際に日本国内で掲げるべきという考え方。もう一つは、幅広い統一戦線をつくるために、旗は心の中に掲げるべきという日本共産党民対の考え方であった。対立は激しかった。ここにキー・パーソンが登場する。韓徳銖である。後に朝鮮総連中央常任委員会議長、北朝鮮最高人民会議常任委員を歴任する彼は、1907年(明治40年)慶尚北道で生まれている。1927年(昭和2年)渡日して、日大専門部に入学(後に中退)。
共産党系の労組である全協に加入し、1934年(昭和9年)、熱海線トンネル工事の争議に加わり検挙される。戦後は朝連に参加。朝連中央本部総務局長などを歴任した。韓徳銖は、共産党の指導下で日本革命を共に目指したいわゆる“民対派”に対して、朝鮮や朝鮮労働党との結合を(おそらく朝鮮労働党側の内意を受けて)主張した“民対派”として、在日朝鮮人運動の路線転換に主導的役割を果たした。
1955年(昭和30年)3月11日、民戦は中央委員会を開いた。その席で韓徳銖は“在日朝鮮人運動の転換について”演説する。反対派のヤジが激しく、中断せざるをえなくなった。だが、彼の作った路線転換への流れは変わらなかった。5月23日、浅草公会堂で最後の民戦6全大会が開かれ、翌24日解散する。こうして1955年5月25日、今からちょうど50年前、民戦解散の翌日、朝鮮民主主義人民共和国支持、日本の内政不干渉を掲げて、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が結成された。共産党に党籍のあった在日朝鮮人は一斉に離脱した。
同年7月24日、共産党は民族対策部を解消。朝鮮人党員離党の方針を決定することで、これを追認した。戦前、戦後の最も苦しかった時代、共産党の中で最も困難な仕事を引き受け、党を支えたのは在日朝鮮人の人々であった。共産党の正史では、そのことに一言も触れられていない。
半世紀という歳月は、共産党と朝鮮総連という二つの組織を、全く別々の遠い所まで連れていった。在日朝鮮人と日本共産党が、共に夢見た濃密な “時” を振り返る者も もういない。
転載終わり
何が 「我が党わぁ~平和を愛し、結党以来平和一筋です」 なものか。共産党の嘘、詭弁に騙されるな!
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こういう過去の経緯があったから、日本共産党は在日朝鮮人韓国人・絶対擁護なのだ。
日本人は二の次、三の次。
我々日本人は、日本共産党にとって、朝鮮人・韓国人に血税を貢ぐための存在なのだ。
それなら私は、もう、生涯、共産党に投票する事は無いな。
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我々日本共産党の支持者は、そんなに単純ではありません。
朝鮮問題だけで支持政党を決めているわけではありません。
各政党を見比べて、相対的に信頼できる政党を選んでいるのです。