つぶやき、遊び・仕事・日常

一日の出来事のあれこれを雑多に記録していきます

友人が結婚するそうです

2021-02-18 05:53:48 | 日記
おいらはまだなのだが、友人が結婚するそうだ。
うれしさ半分、危惧が半分といったところとでしょうか。
うらやましさもあるかもしれません、そしてその危惧はこんな部分です。

◆結婚にも折衝事は必要なのかも
 最初に式場を決めたそうです。
 新婦の希望もあったのでしょうが、某有名式場です。
 だが、いかにコロナの状況と言えども大安は別格のようです。
 希望する大安のその日は、すでに予約で一杯のようです。
 なので日時の変更を求められているそうです。
 
 そこでおいらの出番です。
 はぁ こちらは顧客だ、顧客の要望に合わせて調整は出来ないのか、前後の式典の時間調整を20分間ほどできないのか。
 それでもできないそうです。
 さらには婚約指輪です。
 某有名ブランドのサイズ直しが8週間必要だそうです。
 はぁ そんなものやる気になれば1週間でできるだろうに。

 それもできないそうです。
 だったらそんなものやめてしまえ!
 と言いたいところですが、新婦はこの指輪に執着し結局サイズ直しは結納後、結婚式までにに改めてすることに。
 しかも結婚式は午後3時からで披露宴は4時からというヘンなスケジュール。
 つまりは、式場の都合のいいスケジュールいうこと、相手側のスケジュールということです。
 これで式場の稼働率は向上するのでしょうが、参列者の不自由さは高まります。

 そこで思ったこととは、世の中は交渉事で成り立っているということ。
 決められたことや予定は大事なことです。
 だが、そこにアローアンス(余裕)はないものか。
 顧客の要望に応じての、財・サービスの提供はできないものか。
 
 やる気になればできるはずというのが、おいらの考えです。
 こんなサービス精神のない式場は、いつになるかもわかりませんがおいらは絶対に選びません!!
 出来ないときにも、対案や代案を示すことこそががビジネスの基本だと考えています。
 皆さんはどうお考えでしょうか。

 

下山の哲学

2021-02-17 06:22:40 | 日記
「下山の哲学」このタイトルに誘われました。
世界中に14座ある8000メートル級の山々を全て踏破した日本人初の14サミッター竹内洋岳(ひろたか)氏の書です。
今の自分は人生の後半を生きている、という認識を新たにした感じでしょうか。

◆登るために下る
 登頂することに注目が集まりがちな登山ですが、それらの峰々をいかに下山したかが克明に描かれていました。
 登るときよりも事故が起こりやすいのがが下山、雪崩や悪天候、突然の体調悪化等、数々の壮絶な体験があるそうだ。
 それでも登山を完結するためには、一歩ずつ自分の足で下りなくてはなりません。
 次の山に登るためには、現在の山を下らなければならないというしごく当たり前のことです。

 登頂は通過点のひとつでしかないのです。
 下山時に誰も経験したことのない新たなルートを拓くこともある。
 どんなパートナーを得るかで、その登山は変わる。
 そういった登山家の思いは、まるで人生哲学のようなであって、
 そんな竹内氏の「次の山に登るために下ってくる」という言葉に惹かれるものです。
 下山もまた挑戦の一部と言うことです。

 二つのことを感じました。
 一つ目は、頂上を極めた後の生きざまの難しさです。頂点を極めた後のふるまいは難しいものです。
 そして二つ目は、下山は次の山に登るための行動です。登るためには下ることが必要ということです。
 人生と並べながら考えていきたいものです。
 

忘れられる人が前に進める

2021-02-16 06:35:19 | 日記
おもいっきり時期をはずした話題なのだが、昨年は新型コロナの影響でどこも忘年会が控えられたようだ。
単なる年末の飲み会という捉え方もあるが、そうばかりではないようだ。
またその起源は古く室町時代にもさかのぼるものだという。
できなかった忘年会のことを少し考えてみた。

◆なかなかいい儀式じゃないかな
 室町時代に「としわすれ」という行事があったそうだ。
 これはどうやら日本独自の習慣で、欧米には似たような行事はないし、そういった単語すらない。
 その年の憂さを晴らそうじゃないか、そしてまた来年も頑張ろうという意味合いで、
 その意味ではコロナ渦で中止となったのは残念なことだ。
 もう終わったことは脇において、気持ちの切り替えをきちんとして、前に進もうとする。
 なんだかすごく日本人的で、日本人の戦後や震災からの復興エネルギーにもつながるのだろう。

 一年間の憂さを忘れて仲間としての結束を今一度確認し、翌年以降につなげる。
 そう考えると忘年会と言うネーミングにも味わいを感ずる。
 忘れることはとても大切だ。
 いらだちや、トラブルや、失敗や、もしかしたらついてしまった嘘などいろいろなものを我々は忘れることができる。
 忘れるから前に進むことが出来る。
 そう考えれば、忘れることってとても大切なことのようだ。
 先輩たちが編み出したこの大事な儀式に感謝するとともに、これからも続けていきたいものだ。

やりたいことはひとつがいいらしい

2021-02-15 06:21:04 | 日記
あれをやろう、これもやりたい、それもやらなくちゃとばかりに、
手当たり次第に手を出していてはなかなか身にはつきにくいもののようだ。
曹洞宗の開祖道元はこう言っていた。

◆少水の常に流るればよく石を穿つが如し
 世の流行に合わせて手当たり次第に手を出していては、結局は何も身につかないものだ。
 汗水垂らしても疲れ果てるだけかもしれない。
 仕事とは関係がないのかもしれないが、自分の人生の修行と考えれば、一刻も早く自分に適した素性にあったものを見つけて、
 どこまでも飽きることなくその道一本を進むべきものらしい。

 「精進」の「精」とは、純一という意味だそうだ。また「進」とは、一歩も退かないで進むことだそうだ。
 道元は、精進し努力を重ねていくときの生活態度を、「少水の常に流るれば、よく石を穿つが如し。」と説いている。
 何もねじり鉢巻きで目標に向かって一気に進めということではない。
 少水とはポツポツと落ちる水だ。これを滴水ともいう。
 雨だれが石を穿つのは、激しく落ちるからではない。絶え間なく落ち続けるからこそのようだ。

 そうですね、続けるということは大事なことだと思います。
 でも、そのやりたいことを一つに絞るということが、なかなか難しいのかもしれませんね。
 

運がいい

2021-02-14 07:03:15 | 日記
おらはいままでに好不調の波はあったものの、おおむね運は良かったと思う。
だが今日マンガ喫茶でこんな言葉を拾った。
運を生かすには、努力が必要だという。
そういうものなのかもしれないと思わされた。

◆運がいいだけで成功するほど世の中は甘くない
 いかに待って生まれた運の良さがあろうとも、それだけで成功するほど世の中は甘くないし、運だけでは幸せになれない。
 運は与えられただけでは何の役にも立たないのだ。
 運は使わなくてはならない。
 運は使ってこそ効力を発揮するのだ。
 正しく使えば大きな成果を得られるのだ。
 
 そして運を正しくつかうとは、自分自身のベストを尽くすこと。全力を出し切ることだ。
 最後の最後まで、1分1秒まで諦めずに挑戦し続けることだ。
 終了の瞬間まで全力で取り組めば、そこではじめて運が味方する。
 運が自分を後押ししてくれる、そして結果が生まれるのだ。
 途中で手を抜いたり、最後まで力を出し切らない者には、運は決して味方しない。
 幸せを得たり勝利したりするためには、全力を出し切り、最後の瞬間まで絶対にあきらめないことだ。

 そうか、そういうことだったんですね。
 たしかに、幸運に胡坐をかいていれば、それはすぐに消え去ってしまうものかもですね。