マネの草上の昼食です。
この絵画をパリのオルセー美術館で実際に観たところ「裸の女性は存在しない」のではないかと考えるようになりました。
なぜにスキャンダルであったのか、その読み方について過去のブログを再度まとめ直しました。
私には、このように見えました。
本当は裸の女性はいません。
では、この女性は何をしているように見えますか?
裸にならずに、下半身が水に浸かっているだけです。
こんな絵を描いても売れるわけはありません。
そこで、マネとしてはニンフを入れたつもりでした。
これを真似ました。
しかし、この絵画が評価されるのは、右奥に裸婦を覗いているエロオヤジが性的な刺激をもたらすからです。
この絵には、エロオヤジがいないばかりでなく二人の男性は女性の裸を見ていません。
当時の観点からすれば、つまらない絵なのです。
しかし大衆は、さらなる勘違いをしました。
脱いだ服が、この女性のものだったとしたことでスキャンダルとなったのです。
では、何故脱いだ服の上にパンを入れたバスケットが転がっているのか分かりますか?
もしも女性が服を脱いだのならば、青いワンピースはバスケットの横に置かれるはずですよね!
マネの「草上の昼食」の一部分を拡大しますので、あなた自身がこの絵の読み方を感じ取ってください!
この女性が下着のまま無造作に水浴しているのか、それとも下着をまくりあげて身体を清めようとしているのか、どちらに見えますか?
「草上の昼食」は、実在する裸婦を描いたことがスキャンダルとなったとされている作品ですが・・・。
まず「草上の昼食」という画題ですが、原題は「水浴」だそうです。
そして、水浴するために脱いだ服を描き込んだことにより、裸婦はニンフではなく実在するということが問題となりました。
しかし実物を観ると、この女性は裸でありながら「水浴」した様子は感じ取れません。
これに対して水浴している女性はとてもリアルな描写です。
水浴するなら裸になるはずなのですが、なぜ下着をつけてるのでしょうか。
フランス語で、chemise (シミーズ)はワンピースの下につける下着です。
注目すべき点は、左手が下着の内側を通って、女性自身をつかみあげているように描かれていることです。
そして右手は、何か薄手の繊維質のようなものをすすいでいるように見受けられます。
つまり、女性が下着を濡らさないようにまくりあげて女性自身を清めた後に、履物をすすいでいる風景です。
もしも純粋な水浴であればこのように描かれるはずです。
これからchemiseを脱ぎ裸になるという時間的経過を想像させる絵です。
そこで裸の女性と二人の紳士が存在しなかったとしたら?
・・・と考えてみることにします。
現実には存在しない三人をこの絵から消し去ってみましょう。
脱ぎ捨てた服と「水浴している女性」の光景が妙にリアルです。
遠近法から考えても、この方が自然に感じます。
このような構図は、画家の想像だけからでは生まれないでしょう。
つまりマネは、この光景を目にしているはずです。
画家のリアルな体験を描写した証拠として、右側の男性の頭上に描かれたボートを書き込んでいます。
つまり、ここにボートの持ち主がやってくる可能性を考えると、女性は全裸にはなれないのです。
しかし、リアルな体験を描写しただけでは絵画としての存在価値がないので、マネは古典をマネすることを考えました。
マネは、水浴(身体を清めている女性)を描くためのダミーとして、どこかの絵にあった手前の三人を当てはめただけです。
だから、「裸の女性がいる」のではなく「二人の裸の男性には服を着せた」と理解すべきです。
したがって、この絵が避難される理由があるとすれば、裸であるべき男性が服を着ているというだけですね。
さらに言えば、この二人(マネと水浴している女性)は、ほとんど昼食を食べていません。
食べ散らかした形跡がなく、手をつけてないパンが地面に転がっている。
青いワンピースと思える服の上に<なぜゆえに>バスケットが転がっているのでしょうか?
そこが重要です。
実は森に入ったときには、バスケットは敷物の上に置かれていたはずです。
黒い服がマネであり、赤いワンピースが「水浴した青いワンピースの女性」だとすれば理解しやすいでしょう。
お酒が進むにつれ、女性の胸に手を添えている男性が描かれています。
から瓶が、二人がお酒を飲んで盛り上がったことを示しています。
そこで女性が服を脱いで狭い敷物に横たわることになりました。
邪魔になったバスケットは、(マネによって)脱いだワンピースの上に移されたのでしょう。
二人は昼食を食べずに、バスケットの中身が散乱するような行為を行いました。
したがって本当の題名は「情事の後の水浴」です。
マネが水浴している女性と全体像を書きあげた後で、手前の三人を挿入したと考えると、とても自然に思えます。
ここで大胆な仮説をご提案します!
「モネは、マネがブローニュの森でセックスしていたことを知っていた」
さて!
なぜマネが「水浴」を「草上の昼食」に改題したかという理由を考えてみましょう。
この三角形の光の当たる部分にご注目ください。
この技法はセザンヌに通じます。
セザンヌの「草上の昼食」です。
光の当たる部分は、モネが真似ました。
光の当たる角度は、両者で一致しています。
さらに、モネはこの絵の中でマネに喧嘩を売っています。
モネの絵には、樹木の幹に「ハートの矢」がいたずら書きとして書き込まれています。
樹木の幹に刻んだ「P」の文字ですが、マネの奥さんとなる女性はピアノ「piano」の先生ですね。
もしもマネが結婚する前から住んでいたパティニョール街を意味するのであれば、昼食をとった場所は16区から近いブローニュの森となります。
水浴した場所が、川ではなく湖(または池にちかい)ように感じることから、マネはブローニュの森で逢引を重ねていた。
そしてマネと親交のあったモネは、森の中のことを知っていた。
そうなるとマネとしては、もう怒り爆発ですよね。
画題が「水浴」では、この絵の事実がばれてしまうことを恐れたマネは「草上の昼食」と改題しましたとサ。
マネの「水浴」をみたモネが真似たかったことは、「習作・草上の昼食」とオルセー美術館にある「修復・草上の昼食」を比較するとよく理解できます。
「習作・草上の昼食」の段階では、光の差し込みが上記のようにマネの真似でした。
しかし大作の「修復・草上の昼食」では、光が森の真上から全体にあたり、特に敷物の上に木漏れ日を描き込んでいます。
こちらでは、遊びごごろで描いた習作の「犬」は描かれていません。
多分、「ハートの矢」も消し去られているはずです。
その代わり、モネは別の形でマネをおちょくることにしました。
「習作・草上の昼食」と「修復・草上の昼食」おいての違いはそれだけではありません
中央にいる男性が入れ替わっています。
モネの黒服の男性は、マネの「水浴」の右側の男性を左側に対称に描いています。
そして!
その顔はマネそのものでした。
これはドガの描いたマネです。
そっくりでしょう!
続いて、「草上の昼食(原題は水浴)」がなぜ騒がれたのかについて、当時の「水浴」の絵画を考察して観ました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
草上の昼食は、2枚の絵の影響を受けています。
ひとつは、ディアナの水浴です。
この絵は、ニンフを隠れ蓑とした裸婦画です。
ニンフの美人画では、あくまでも女性は美しく且つエロチィックです。
もう一つは、スザンナと長老たちです。
これは神話を隠れ蓑とした裸婦画です。
若く美しい人妻が、高齢のエロオヤジに犯される描写です。
草上の昼食の原題が「水浴」であることから、マネはさらに3枚目の絵レンブラント水浴も参考にしています。
「水浴」という絵画の題材では「ニンフの美人画」と「エロオヤジによる陵辱画」が大多数を占める中で、レンブラントの「水浴」は異質です。
モデルが奥さんということで、美人画や裸婦画像とはしていません。
このような題材は、お金になるわけはないので、レンブラントの趣味の絵だと思います。
どうしてマネの「草上の昼食」が悪評であったのかというと、美術・芸術の名を借りたエロ画像ではなく、写真的な実写版だったからです。
ニンフの美人画としての水浴を2枚ご覧ください。
もう、「こんなに綺麗な若い女性の裸が観れるのか!」という絵でないとお金になりません。
エロオヤジによる陵辱画2枚ご覧ください。
いずれも、二人の高齢の男性に裸を覗かれています。
もう、こんなに綺麗な若い女性の裸が覗けるのか!<ということを想像させる絵>でないとお金になりません。
ここで、「当時の美術界の寸止め」についてご説明します。
宗教上の倫理から、単なる裸婦、特に恥毛を描くのは完璧にNGとなります。
そこで、画家たちは工夫をこらして言い訳を描きます。
この絵は、狩猟で怪我した足のケアを行っているという言い訳ですが、実は目線は足ではなく女性器です。
そしてニンフは、自分の身体が見られていることを意識させています。
ま、当時の男にとって、気絶しちゃうくらいエロい発想だと思います。
そして、見られている部分を犬を借りて表現しています。
特に、男色の方にとっては、、気絶しちゃうくらいエロい発想だと思います。
さて、エロオヤジによる陵辱画では、オヤジの視線にご注目ください。
ここでオヤジの視線が女性に向くとNGとなります。
ひとりは下方を向き、もう片方は目線を隠しながらも、腕の力と顔のシワによって裸を見るという微妙な表現がこの絵の価値です。
さらに、女性の身体は女性自身が見ているという、高度なエロい発想だと思います。
ここでも、さりげなく男色を見せちゃうなんて、これが「2枚の絵でたまたま」の偶然だと思いますか?
この様にして裸婦画を観ていくと、いかに「草上の昼食」が当時の絵画の常識から外れていたかということが理解できると思います。
以上、わたしは純粋に「草上の昼食」という絵画の意味を自分の感性で感じ取ってみました。
マネの研究者たち、絵画の解説者たちの観点とは異なる部分は、ご自身の感性でご判断ください。
この絵画をパリのオルセー美術館で実際に観たところ「裸の女性は存在しない」のではないかと考えるようになりました。
なぜにスキャンダルであったのか、その読み方について過去のブログを再度まとめ直しました。
私には、このように見えました。
本当は裸の女性はいません。
では、この女性は何をしているように見えますか?
裸にならずに、下半身が水に浸かっているだけです。
こんな絵を描いても売れるわけはありません。
そこで、マネとしてはニンフを入れたつもりでした。
これを真似ました。
しかし、この絵画が評価されるのは、右奥に裸婦を覗いているエロオヤジが性的な刺激をもたらすからです。
この絵には、エロオヤジがいないばかりでなく二人の男性は女性の裸を見ていません。
当時の観点からすれば、つまらない絵なのです。
しかし大衆は、さらなる勘違いをしました。
脱いだ服が、この女性のものだったとしたことでスキャンダルとなったのです。
では、何故脱いだ服の上にパンを入れたバスケットが転がっているのか分かりますか?
もしも女性が服を脱いだのならば、青いワンピースはバスケットの横に置かれるはずですよね!
マネの「草上の昼食」の一部分を拡大しますので、あなた自身がこの絵の読み方を感じ取ってください!
この女性が下着のまま無造作に水浴しているのか、それとも下着をまくりあげて身体を清めようとしているのか、どちらに見えますか?
「草上の昼食」は、実在する裸婦を描いたことがスキャンダルとなったとされている作品ですが・・・。
まず「草上の昼食」という画題ですが、原題は「水浴」だそうです。
そして、水浴するために脱いだ服を描き込んだことにより、裸婦はニンフではなく実在するということが問題となりました。
しかし実物を観ると、この女性は裸でありながら「水浴」した様子は感じ取れません。
これに対して水浴している女性はとてもリアルな描写です。
水浴するなら裸になるはずなのですが、なぜ下着をつけてるのでしょうか。
フランス語で、chemise (シミーズ)はワンピースの下につける下着です。
注目すべき点は、左手が下着の内側を通って、女性自身をつかみあげているように描かれていることです。
そして右手は、何か薄手の繊維質のようなものをすすいでいるように見受けられます。
つまり、女性が下着を濡らさないようにまくりあげて女性自身を清めた後に、履物をすすいでいる風景です。
もしも純粋な水浴であればこのように描かれるはずです。
これからchemiseを脱ぎ裸になるという時間的経過を想像させる絵です。
そこで裸の女性と二人の紳士が存在しなかったとしたら?
・・・と考えてみることにします。
現実には存在しない三人をこの絵から消し去ってみましょう。
脱ぎ捨てた服と「水浴している女性」の光景が妙にリアルです。
遠近法から考えても、この方が自然に感じます。
このような構図は、画家の想像だけからでは生まれないでしょう。
つまりマネは、この光景を目にしているはずです。
画家のリアルな体験を描写した証拠として、右側の男性の頭上に描かれたボートを書き込んでいます。
つまり、ここにボートの持ち主がやってくる可能性を考えると、女性は全裸にはなれないのです。
しかし、リアルな体験を描写しただけでは絵画としての存在価値がないので、マネは古典をマネすることを考えました。
マネは、水浴(身体を清めている女性)を描くためのダミーとして、どこかの絵にあった手前の三人を当てはめただけです。
だから、「裸の女性がいる」のではなく「二人の裸の男性には服を着せた」と理解すべきです。
したがって、この絵が避難される理由があるとすれば、裸であるべき男性が服を着ているというだけですね。
さらに言えば、この二人(マネと水浴している女性)は、ほとんど昼食を食べていません。
食べ散らかした形跡がなく、手をつけてないパンが地面に転がっている。
青いワンピースと思える服の上に<なぜゆえに>バスケットが転がっているのでしょうか?
そこが重要です。
実は森に入ったときには、バスケットは敷物の上に置かれていたはずです。
黒い服がマネであり、赤いワンピースが「水浴した青いワンピースの女性」だとすれば理解しやすいでしょう。
お酒が進むにつれ、女性の胸に手を添えている男性が描かれています。
から瓶が、二人がお酒を飲んで盛り上がったことを示しています。
そこで女性が服を脱いで狭い敷物に横たわることになりました。
邪魔になったバスケットは、(マネによって)脱いだワンピースの上に移されたのでしょう。
二人は昼食を食べずに、バスケットの中身が散乱するような行為を行いました。
したがって本当の題名は「情事の後の水浴」です。
マネが水浴している女性と全体像を書きあげた後で、手前の三人を挿入したと考えると、とても自然に思えます。
ここで大胆な仮説をご提案します!
「モネは、マネがブローニュの森でセックスしていたことを知っていた」
さて!
なぜマネが「水浴」を「草上の昼食」に改題したかという理由を考えてみましょう。
この三角形の光の当たる部分にご注目ください。
この技法はセザンヌに通じます。
セザンヌの「草上の昼食」です。
光の当たる部分は、モネが真似ました。
光の当たる角度は、両者で一致しています。
さらに、モネはこの絵の中でマネに喧嘩を売っています。
モネの絵には、樹木の幹に「ハートの矢」がいたずら書きとして書き込まれています。
樹木の幹に刻んだ「P」の文字ですが、マネの奥さんとなる女性はピアノ「piano」の先生ですね。
もしもマネが結婚する前から住んでいたパティニョール街を意味するのであれば、昼食をとった場所は16区から近いブローニュの森となります。
水浴した場所が、川ではなく湖(または池にちかい)ように感じることから、マネはブローニュの森で逢引を重ねていた。
そしてマネと親交のあったモネは、森の中のことを知っていた。
そうなるとマネとしては、もう怒り爆発ですよね。
画題が「水浴」では、この絵の事実がばれてしまうことを恐れたマネは「草上の昼食」と改題しましたとサ。
マネの「水浴」をみたモネが真似たかったことは、「習作・草上の昼食」とオルセー美術館にある「修復・草上の昼食」を比較するとよく理解できます。
「習作・草上の昼食」の段階では、光の差し込みが上記のようにマネの真似でした。
しかし大作の「修復・草上の昼食」では、光が森の真上から全体にあたり、特に敷物の上に木漏れ日を描き込んでいます。
こちらでは、遊びごごろで描いた習作の「犬」は描かれていません。
多分、「ハートの矢」も消し去られているはずです。
その代わり、モネは別の形でマネをおちょくることにしました。
「習作・草上の昼食」と「修復・草上の昼食」おいての違いはそれだけではありません
中央にいる男性が入れ替わっています。
モネの黒服の男性は、マネの「水浴」の右側の男性を左側に対称に描いています。
そして!
その顔はマネそのものでした。
これはドガの描いたマネです。
そっくりでしょう!
続いて、「草上の昼食(原題は水浴)」がなぜ騒がれたのかについて、当時の「水浴」の絵画を考察して観ました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
草上の昼食は、2枚の絵の影響を受けています。
ひとつは、ディアナの水浴です。
この絵は、ニンフを隠れ蓑とした裸婦画です。
ニンフの美人画では、あくまでも女性は美しく且つエロチィックです。
もう一つは、スザンナと長老たちです。
これは神話を隠れ蓑とした裸婦画です。
若く美しい人妻が、高齢のエロオヤジに犯される描写です。
草上の昼食の原題が「水浴」であることから、マネはさらに3枚目の絵レンブラント水浴も参考にしています。
「水浴」という絵画の題材では「ニンフの美人画」と「エロオヤジによる陵辱画」が大多数を占める中で、レンブラントの「水浴」は異質です。
モデルが奥さんということで、美人画や裸婦画像とはしていません。
このような題材は、お金になるわけはないので、レンブラントの趣味の絵だと思います。
どうしてマネの「草上の昼食」が悪評であったのかというと、美術・芸術の名を借りたエロ画像ではなく、写真的な実写版だったからです。
ニンフの美人画としての水浴を2枚ご覧ください。
もう、「こんなに綺麗な若い女性の裸が観れるのか!」という絵でないとお金になりません。
エロオヤジによる陵辱画2枚ご覧ください。
いずれも、二人の高齢の男性に裸を覗かれています。
もう、こんなに綺麗な若い女性の裸が覗けるのか!<ということを想像させる絵>でないとお金になりません。
ここで、「当時の美術界の寸止め」についてご説明します。
宗教上の倫理から、単なる裸婦、特に恥毛を描くのは完璧にNGとなります。
そこで、画家たちは工夫をこらして言い訳を描きます。
この絵は、狩猟で怪我した足のケアを行っているという言い訳ですが、実は目線は足ではなく女性器です。
そしてニンフは、自分の身体が見られていることを意識させています。
ま、当時の男にとって、気絶しちゃうくらいエロい発想だと思います。
そして、見られている部分を犬を借りて表現しています。
特に、男色の方にとっては、、気絶しちゃうくらいエロい発想だと思います。
さて、エロオヤジによる陵辱画では、オヤジの視線にご注目ください。
ここでオヤジの視線が女性に向くとNGとなります。
ひとりは下方を向き、もう片方は目線を隠しながらも、腕の力と顔のシワによって裸を見るという微妙な表現がこの絵の価値です。
さらに、女性の身体は女性自身が見ているという、高度なエロい発想だと思います。
ここでも、さりげなく男色を見せちゃうなんて、これが「2枚の絵でたまたま」の偶然だと思いますか?
この様にして裸婦画を観ていくと、いかに「草上の昼食」が当時の絵画の常識から外れていたかということが理解できると思います。
以上、わたしは純粋に「草上の昼食」という絵画の意味を自分の感性で感じ取ってみました。
マネの研究者たち、絵画の解説者たちの観点とは異なる部分は、ご自身の感性でご判断ください。