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ディープなクールベ、マネも真似られない「世界の起源」(2)

2023-04-30 12:00:56 | 美術館・絵画
クールベの「世界の起源」がなぜ美術的に認められた絵画として、パリのオルセー美術館に飾ってあるのかを考えています。

「世界の起源」(一部画像を修正してあります)

クールベはどうして「世界の起源」を描いたのだろうか!
その答えは、「こんな絵は、オレ様しか描けないぞ」というのでしょうが、
そこに至る過程を「ルネサンス時代の画家の思想と技法」から洞察したいです。

まずブーシェの「オダリスク」(ルーブル美術館)ですが、この裸婦画がクールベの「世界の起源」と根元は同じであると考えました。

女性自身への注目度です。

根拠を、ブーシェ「水浴のディアナ」で示します。


侍女の視線が女性自身へと向くことが共通しています。

鑑賞者にも分かりやすくするために、ディアナが侍女の顔を(つまり自分自身を見られていることを)見ています。

絵画における共通点は、男をそそい立たせる(絵画が売れる)です。


絵画として成立するには、猫をこのような方向で描けません。


グルーズなら、アモルを使います。


ここまで説明すると、いかにクールベがリアリズムの頂点だとしても、少し行き過ぎでしょ?

そこを、このブログで追求したいのです。

まず、裸婦画をアングルが描いたらどうなるか。

絵画の評論家は、胴の長いオダリスクだと言ってますが、それは間違ってます。

巨匠アングルのギリギリの頑張りが、臀部を誇張するに留まっただけです。


では、ベラスケスならどうするか?

(お尻のサイズは、誇張されていませんが)

鑑賞者からは、女性の顔が見えていますが、描かれた女性は自分自身を見ていることになります。


鏡を使って女性の(男から見られない)姿を映し出すことは、ティツィアーノがやっています。


人に見せない(見せたくない→見られると恥ずかしい)という気持ちをくすぐるティツィアーノは流石です。


マネも「鏡の前の女」を真似てみました。


マネは、「見られると恥ずかしい」ものを絵画で表現することを考えつきました。

鏡は使いません。

どうせ男の求めている姿は、これをひっくり返した姿だろ!


そこで、マネはとても大胆な試みをしたのです。

「オランピア」では、美術評論家は実在する女性として首や手の飾り、サンダルの装着などを挙げていますが・・・

マネは花束によって「拡げられた女性自身」を表現したのです。

オランピアの花芯は、黒人の召使によって開かれています。

で、クールベは思いました。
「マネには勝てない」

マネを超えるリアリズムは何か!


ダナエが人気だって?


どうせ女が・・・、女を・・・、女の・・・、それに尽きるじゃないか!


それがオスとして求める「世界の起源」、それ以上の表現はないだろう。



マネに関しては、下記をご覧ください。 

本当は裸の女性がいない「草上の昼食」
https://blog.goo.ne.jp/y-fukucyan701/e/5752772f7fd9bcbdeffc96b141c54a09


すでに最初の(1)のアップから一年が過ぎてしまいました。
今回は、クールベのリアリズムという観点でまとめてみました。
さて、まだまだ私の表現と解説が未熟で自分自身もどかしさを感じています。
いつの日かシリーズ(3)に続けたいです。










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