矢嶋武弘・Takehiroの部屋

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本多平八郎忠勝

2015年10月16日 07時17分31秒 | 歴史

<以下の記事を復刻します。>

ふと、本多平八郎忠勝という武将を思い出した。徳川家康の家臣で“徳川四天王”の一人であり、その豪勇ぶりは天下に知られていたという。
なぜ本多忠勝を思い出したかというと、昔、ある歴史書で読んだのだが、彼は生涯50回以上の戦いに参加したのに、かすり傷一つ負わなかったというので有名なのだ。
そこですぐに調べたくなった。ウィキペディアによれば(末尾にリンク)、忠勝は何と57回も戦場に赴きながらかすり傷一つ負わなかったというのだ。もとより、戦闘を避けて後方にいたわけではない。勇猛果敢な忠勝はいつも激戦場にいたはずで、自慢の「蜻蛉切」(とんぼぎり)という大槍を振り回していたに違いない。
この蜻蛉切というのは柄の長さが6メートルもあり(普通の槍は4,5メートルほど)、剛腕の者でなければ使い切れない。“天下三名槍”の一つと言われるものだ。

これほどの武将が57回の合戦で、かすり傷一つ負わなかったというのが驚きであり、昔から忠勝の凄さに感じ入っていた。もとより、忠勝のような猛将が現われれば、敵は戦うよりまず逃げたかもしれない。こんな男を相手にしていたら、命が幾つあっても足りないだろう。
しかし、戦場では敵の矢もどんどん飛んでくるから、傷一つ負わなかったというのは奇跡に近い。しかも、忠勝は“軽装”で有名な武将で、重装備の同僚を嘲笑ったという。これは動きやすいのが第一だったようだが、軽装なのに傷一つ負わなかったというのが素晴らしい。重装備なのに傷を負った武将はいくらでもいたからだ。

これほどの名将が唯一傷を負ったという話が面白い。晩年、忠勝が小刀で持物に名前を彫っていた時、うっかりして手を滑らせ、指に小さな切り傷を負ったというのだ。その時、彼は「わしの命運もここまでか」と嘆き、実際にその数日後に死去したという。つまり、忠勝は死の直前に初めて負傷したのだ。
天下の名将もそうなのだから、頭脳明晰な方々よ、物忘れがひどくなったりしたら、いよいよ“あの世”が近いと覚悟した方がいい。私などは人名も地名も用件も忘れやすくなったから、いつでもあの世へ行きそうなのだが(笑)。
本多平八郎忠勝は1610年(慶長15年)10月、死去した。享年62歳。ちょうど400年前のことである。(2010年5月30日)

本多忠勝・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%BF%A0%E5%8B%9D


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