4)参議院を廃止、一院制にせよ
今の日本では、参議院は全く無駄なものであり、ただちに廃止した方が良い。要するに、国政に混乱をもたらすか、衆議院のカーボンコピーになるかのどちらかである。
一院制が良いのか二院制が良いのかは、それぞれの国によって違うところだが、連邦制の国とか貴族制度が残っている国はほぼ二院制である。しかし、単一国家の場合は圧倒的に一院制が多く、ここ数十年の間に二院制を廃止して一院制に移った国もいくつかある(デンマークやスウェーデンなど)。
戦後、貴族院が廃止されて参議院が発足した当時は、参議院に対してそれなりの役割や存在意義が期待されていた。「衆議院は政党で選び、参議院は人物で選ぶ」という考えが一般的だったから、参議院には『緑風会』といった無所属議員の会派ができ、是々非々の高い立場から国政に参加したので、参議院はよく“良識の府”と呼ばれ存在感を示していた。
ところが、それから何十年も経つうちに、参議院は今や完全に“政党化”してしまい、衆議院と全く同じ立場で動く第二院と化したのである。こうなると、参議院の存在価値は薄れ、むしろ無用の長物、はては税金の有害な“金食い虫”の立場に転落したのである。
参議院は年間410億円以上の経費を使っているが、選挙ともなれば何百億円もの費用がかかる。国家財政が豊かであればそれほど問題ではなかろうが、衆議院と同じ政党本位で動く第二院なら、全く無駄なことこの上もない。
いま経費や費用の話をしてしまったが、税金の無駄遣いは二義的なものである。問題は参議院の「存在意義」がどこにあるかということだ。もし、存在意義があるとすれば、それは現代の“特権階級”になってしまったということである。
これは極めて皮肉な話だが、第一院の衆議院よりも優遇された立場にあるということだ。ご承知のように、参議院には解散がない。したがって、議員の任期は6年と保証されている。衆議院ではいつ解散になるかと議員たちはビクビクしているが、参議院議員は6年間悠然としていられるのだ。どちらが一院でどちらが二院なのか、分からなくなる感じではないか。まるで、戦前の「貴族院」と同じように優雅である。
衆参両院の関係で一番ショッキングだったのは、誰もが覚えているだろうが、ちょうど3年前の解散・総選挙だった。衆議院で「可決」された郵政改革法案が参議院で「否決」されると、時の総理大臣は何と衆議院を解散してしまったのだ。解散されるべきは参議院の方ではないか! 衆議院を無事通過した法案が参議院で否決されたら、どうして衆議院が解散されなければならないのか。こんなに筋の通らない馬鹿げたことはない。国政史上、初めてのことだ。これこそ国政の混乱である。その混乱の引き金をひいたのは参議院である。自民党は総選挙で圧勝したから良かっただろうが、解散されない参議院の“特権”をまざまざと見せつけられた一幕であった。
私はこれまで何度も言ってきたが、日本が道州制の導入などによって一応「連邦国家」の体制を取ったとしたら、第二院は必要になるかもしれない。「連邦院」でも何でも良いが、参議院に代わる第二院が誕生してもおかしくはない。しかし、現在の「単一国家」の下では、参議院は無用の長物どころか、特権をいいことにして国政を混乱させる有害無益の“金食い虫”でしかない。来るべき憲法改正において、ぜひ廃止して欲しいと強く望むものである。(2008年9月13日)
5)「道州制」への道
地方分権の推進が叫ばれるようになって久しいが、その行き着く先は「道州制」の導入だと私は思っている。21世紀のいつ頃にそれが実現するかは分からないが、その方向ははっきりしていると思う。
道州制の「道州」とは、一つの「地方政府」を意味する。明治維新の時に、藩を廃止して県を置いた“廃藩置県”になぞらえて“廃県置州”とも言われる。つまり、地方の行政区域が、今の都道府県から道州へと拡大するのだ。その場合、47都道府県は8~15ぐらいの道州に組み込まれるだろうが、その数は問題ではない。要は「地方政府」がいくつも出来るということだ。
例えば、今の東北地方は「東北州」と言ったものになり、東北の有権者がその長官を直接選ぶといった形になる。州議会も当然出来るから、今ある県や県議会の存在意義はほとんど無くなってしまうだろう。これは地方行政の抜本的な改革である。東北全体の行政経費は大幅に削減され、予算のより効率的な運用が可能になるはずである。
また、行政単位が県から州に拡大するため、広域的な問題や共通のプロジェクトを解決するには、非常にやりやすくなるはずだ。例えば、東北全体のインフラ整備などは州議会で決めれば良いので、県単位でいちいち折衝するよりははるかに効率的になる。
こうした利点はあるが、それでは今ある県は一体どうなっていくのか。私は県は無くなっていくと思う。県議会も無くなるだろう。
日本には以前「郡」というものがあったが、郡は県と市町村の間に埋没して郡制度そのものが廃止された経緯がある。今でも「○○郡」という呼称が一部に残っているが、それはかつての郡制度の“化石”に過ぎない。したがって、道州制が確立すると「県」は昔の郡と同じような運命をたどって消滅するしかないだろう。これは大変な行政改革である。同様に県議会も廃止されて、全ては州議会に統合されていくのだ。(むろん、市区町村議会は別である)
道州という「地方政府」が出来れば、今の中央官庁の権限はそれらの道州に相当に移譲される。「三位一体の改革」と言って、税財源の配分見直しなどが今行われているが、こうした動きも道州制実現への下地と見れば受け入れられやすいだろう。
ここで地方行財政の細かい話をする時間はないが、地方の活性化こそが21世紀・日本の生きる道である。 明治維新によって、日本は中央集権体制を確立した。それは富国強兵を進める上で非常に有効であった。しかし、戦後も東京への一極集中が進んだため、いろいろな問題やヒズミが派生した。このため、地方分権の推進が叫ばれるようになったのだが、実態はどうなっているだろうか。中央と地方の格差は、かえって拡大しているのではないか。
理屈っぽい話は止めるが、私は地方の活性化なくして日本の発展はあり得ないと思っている。上意下達の官僚的な中央集権体制では、地方の活力は生かされない。上から下へではなく、下から上への真の「民主主義国家」が誕生しなければ、本当の活力は生まれてこないだろう。そういう意味で、21世紀の早い段階で道州制が実現するものと思うし、またそれを望んでいる。
愛国心も、上から下へでは強制的になってしまう。下から上へ湧きあがるものこそ本当の愛国心なのだ。 道州制が実現すれば、日本は事実上の「連邦国家」となる。左翼的愛国主義者である私は、これを『大日本連邦国』ないしは『大日本合州国』と呼びたい。(2008年9月16日)
6)新しい「国立追悼施設」を建立しよう
国の追悼施設というのは、日本国民だけでなく外国の人たちも快く参拝してくれるものが好ましい。諸外国ではよく無名戦士の慰霊施設というのがあって、わが国の要人も一般の日本人も快く参拝するケースが多い。
こうした点から考えると、靖国神社は国の追悼施設としては全く不適切である。なぜなら「国家神道」を奉じるこの宗教法人は、相当数の日本人にとっては良いとしても、外国の元首や要人らがお参りするには全く相応しくないからだ。これまでに、どれほどの外国人が靖国神社にお参りしただろうか。ほとんど皆無であろう。
こういうことを言うのは、国の追悼施設は完全に“無宗教”であることが望ましいのだ。そうすれば、どんな宗教を持った国の人だろうが、気兼ねなしに快く参拝できるのである。例えば、アメリカのアーリントン国立墓地は「キリスト教」を全面に打ち出しているものではない。主に軍人を埋葬しているそうだが、無名戦士や故ケネディ大統領の墓もあり、昔お参りに行ったことがあるが、まるで公園のような佇まいで、どんな外国人も気軽に訪れることができる観光スポットという感じだ。全く宗教性がないのである。
これに対して、靖国神社は国家神道だから、参拝形式がどうの玉串料がどうのといった神道の掟(おきて)に縛られるので、外国人はとてもお参りできるものではない。しかも、靖国神社は先の大戦を「自存自衛の戦争」と位置づけているから、ほとんどの外国人はこれに反発して参拝などするはずがない。
先の大戦が自存自衛の戦いなのかどうかは、日本人でも様ざまな見方があるので、ここでその議論をするつもりはない。そんなことを始めれば切りがなくなるので止めよう。要は「国家神道」を全面に打ち出した靖国神社は、国の追悼施設には不適切である。もとより、ここにお参りするのは各人の自由だから、参拝したい人はどんどん行けば良いのである。A級戦犯合祀問題がどうのといった話は別である。
さて、国の追悼施設は完全に“無宗教”であることが望ましいから、私は率直に言って、今の「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」(東京・千代田区)がそれに最も相応しいと考える。この墓苑は1959年(昭和34年)に国によって建てられ、先の大戦の戦没者35万人余りのご遺骨が納められている。これらのご遺骨は身元不明で遺族にお渡しできないものばかりなので、いわば日本の“無名戦士の墓”と言ってよいものだ。
この戦没者墓苑を拡充するなどして、新たな国の追悼施設を造ろうという考えが以前からあるが、私はこれに大賛成である。完全に無宗教であるから、一般の日本国民も外国人も気軽に参拝できる。お参りの仕方はもちろん自由だから、参拝形式がどうの玉串料がどうのといった問題はない。
さらに言わせてもらえば、私はこの追悼施設が21世紀の日本を象徴する「平和の祈念塔」であってほしいと願うものである。戦没者墓苑は「平和公園」になっても良いし、とにかく平和国家・日本の象徴になってほしいと願うのである。そうなれば、ここが「鎮魂・不戦・平和」の祈りの場所となるだろう。
最後に一言。 日本の首相や要人、はてはわれわれ一般の日本人が外国の追悼施設に自由に参拝しているというのに、外国の元首や要人がその“答礼”のためにお参りしようとしても、それに相応しい追悼施設が日本にないというのは、外国の人たちに対し失礼ではないか! 新しい無宗教の国立追悼施設を、早急に建立すべきである。(2008年9月24日)