小川町は好きな町だ。
山と低い丘陵に囲まれた古い家並みが残る盆地の町だ。
その小川町を出発点に、町の側にある仙元山に登り、そこから尾根伝いに嵐山町へと歩いてみた。
この尾根は300mを超えるところがない低山で、蛇行して流れる槻川と八高線が通る谷とにはさまれて続いている。
そして尾根歩きの終点にあたるところには戦国時代の山城跡、小倉城跡があって、最近は発掘調査が進んでいるようだ。
昭和の雰囲気が残る家並みが続き、所々に構えの立派な割烹旅館などがある。
東秩父村から来て嵐山町へと流れる槻川。奥にはこれから登る仙元山。風もなくて穏やかな日だ。
山沿いのここではまだ梅は咲き始め。
落ち着いた暖色系の色で整えられた風景は心を穏やかにしてくれる。
仙元山には前に来たことがあるので今回は別のルートで登ってみた。
街から八高線にそって少し南へ歩き、青山城跡・仙元山という標識に導かれて踏切を渡り、登山口へとむかう。
ここが登山口。
道はトラバースしながら南へと緩やかに登っていく。この分では仙元山のかなり南側にでそうだ。
尾根道に出た。右に行けば青山城跡、左が仙元山。地図で確認すると仙元山の600mほど南だった。
まずは仙元山へ。
すぐに山頂に到着。
北東方向が開けていて、小川町が見える。その向こうには赤城山など北関東の山が霞んで見えていた。
まだ休憩する気分ではないので隣の青山城跡へ向う。
先ほどの尾根の分岐点からほんのわずかで青山城跡だ。堀切のあとが明瞭だ。
山頂は平らにならされていて、いまは木でおおわれている。
青山城という呼び名は文献記録等があるわけではなく、八高線がとおっている山麓の地名によっている。割谷というのは反対側の山麓の地名だ。
ここで軽く食事休憩。カップラーメンとパンをいただく。
また歩き始めてしばらくするとこのような案内が目に入った。いつつけたものか、今の季節に「見ごろ」はないでしょう。
まあ季節になれば見られるということだろうが。
日当たりのいい広い尾根を少しそれた方向にあるらしい。
そこからひと登りで大日山。ここで南から東へとルートが曲がる。
山頂からは笠山と堂平山がよく見えた。
大日山から東に向かって次のピークにつくと案内標識の一部に「物見山」と書き込みがされている。
だれかが、こっちがほんとうの物見山だと主張しているらしい。
さらに歩くと次のピークに立派な標識があった。地形図を見るとこちらに物見山と記入されている。
しかし、国土地理院の表示とはいえ、小さな山の名は、ある集落と別の集落では違っていたりするものだ。
物見山から少し歩くとなにやら大きな石碑が立ち並んでいるところがあった。
仙元大日神と掘られていた。ここからははっきりとした下りの道となった。
林道が横切る峠に出た。ここから登り返したところが小倉城跡だ。
峠のそばにも中世の遺跡とされる平らに削られた地形がみられるようだ。
小倉城は先に通ってきた青山城跡とは規模が違う。
登り始めるとさっそく堀切と切岸が出迎えてくれた。
戦国の山城ブームらしくてのぼりがたくさん立て並べてあった。
テレビで鎌倉殿の13人というドラマをやっているが、このあたりは比企氏や畠山氏と関連が深い。
嵐山町にはそのころの城館あととして有名な菅谷館跡もある。
でもここは時代が違う戦国期の山城だ。
要所要所にこのような案内看板が設置されていた。
峠方向からの攻撃への守りとして大きな堀がつくられている。
まずはニノ郭へ。
ニノ郭の南西角が一番高くなって少し張り出していて櫓があったと想像される。
そこから槻川の谷の向こうに出発点の仙元山が望まれた。
となりの本郭に移動してみるとここもかなり広い。
奥の一角では発掘調査が行われていて立ち入りが禁止されていた。
その一角から嵐山町方向が展望できた。
本郭の外回りに行ってみると石積みの跡が残っていた。ほかの部分は調査後埋め戻されているらしい。
このあたりでよく見かける片岩という平たく割れやすい岩を積み上げている。
これは本郭の外周の土手。やはり片岩が利用されている。
ほかにも写真は撮ったのだが割愛する。
城跡からは先ほどの峠に戻り、林道を利用して下におりた。
城蹟を望む。ここに駐車場がつくられている。
この寺からも直接登れるが、かなり急傾斜で、遺跡の破壊にもつながるので、見学するなら別のルートを使うことが望ましいと思う。
城跡に置いてあったパンフレットの地図を紹介しておこう。
ここからは舗装の車道を歩いて武蔵嵐山駅へとむかったが結構な距離があって疲れた。
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