「真のプロフェショナルは、命を賭けるレベルに在る人のこと」
ドラッカーは専門家(スペシャリスト)の社会が来ていると強調する。確かに仕事や知識が細分化し、専門に磨きがかかって他のことが理解できない人が多くなった気がする。「知識労働者」社会というものだろう。スペシャリストに対して、ある“あこがれ感”のある言葉として、「プロフェショナル」がある。スペシャリストの一段上クラスとか、卓越した、抜きん出たとか、安直に捉えても良さそうだがどうも引っかかる。これでは、世にプロフェショナルとして賞賛される人に失礼な気がする。というのも、ある会社で“プロフェショナルな知識労働”を企業理念に掲げたので、企業内でどう位置づけ、賞賛するか? そこまで考えれば、エキスパート、マイスター、コンシェルジュ、など氾濫する称号との関連も気になって来る。そこで、私が感じたプロフェショナルの実例等について…。
「ゲルダ・タロー」…世界的に有名な「ロバート・キャパ」の分身とも言うべき女性の戦場写真家。ロバート・キャパの助手の様な形で関わるようになるが、助手とかマネージャーではなく、次第に対等の関係になっていく。ロバート・キャパという架空の名前を考えだし著名写真家にのし上げたのも彼女の功績。彼女自身が写真家として、第一線に出るようになりキャパの名前で発表するがついには、キャパを上回る評価を得て、ゲルダ・タローとして世に認められるようになる。その理由は何か? 「一歩前へ」の精神。味方に背を向けて銃弾が当たる危険を顧みず上陸する兵士に接近して撮る、等など迫真の写真を生み出した。そして、とうとう自身の命を落とす。
横山大観と言えば、日本画の大家。普通、身の回りを世話する弟子がいるものだが、大観にとって弟子、助手のような働きをしたのが筆職人だった。大観は、職人に徹底してこだわった人で、筆、和紙、表具師など職人を引き連れてパリの展覧会に乗り込み、彼らの匠振りを賞賛したそうである。芸術家の域となればプロフェショナルと言う言葉は軽すぎて使えそうもないが、素材や道具への“こだわり”は半端じゃない。
並みの耳鳴りを越えるゴーという音が、常時聞こえる生理的環境を想像して貰いたい。身体の痛みに耐えるため、毎回、15種類の薬を飲み、一時的に抑える生活。そんな苦痛に苛まれながら“ヒロシマという交響楽”を作曲した方がいる。耳鳴りの中で、複雑な五線譜を書き上げるなんて人間業と思えない。“命を削る”作業だ。鎮魂の響きが感動を呼び起こす。プロフェショナルという言葉が浮かんだ。
もう一つ、江戸のプロデューサー蔦屋重三郎にあやかってTUTAYAの店名でCD、ビデオレンタル業界を制覇したCCC(カルチャーコンビニエンス・クラブ)が、本の文化へのチャレンジ店舗「蔦屋書店」を代官山に開設した。テーマ別のコーナーに分かれて、お客様の相談に応える販売員を全国から募集した。例えば、ヨーロッパへの旅と言っても、今のお客様はテーマを持った旅を楽しみたいという程ハイレベルだ。そんな希望に応える販売員は、世界の旅のルポライターを長年やって来た方だ。実践の強みを生かしたプロフェショナルに相応しいスペシャリストである。
私の考える、プロフェショナルとは何か? ずっと続きそうなテーマだが、一言で表現すれば、真のプロフェショナルとは、「命を賭けるレベルに在る人」のこと。やっぱり高みの存在である。
ドラッカーは専門家(スペシャリスト)の社会が来ていると強調する。確かに仕事や知識が細分化し、専門に磨きがかかって他のことが理解できない人が多くなった気がする。「知識労働者」社会というものだろう。スペシャリストに対して、ある“あこがれ感”のある言葉として、「プロフェショナル」がある。スペシャリストの一段上クラスとか、卓越した、抜きん出たとか、安直に捉えても良さそうだがどうも引っかかる。これでは、世にプロフェショナルとして賞賛される人に失礼な気がする。というのも、ある会社で“プロフェショナルな知識労働”を企業理念に掲げたので、企業内でどう位置づけ、賞賛するか? そこまで考えれば、エキスパート、マイスター、コンシェルジュ、など氾濫する称号との関連も気になって来る。そこで、私が感じたプロフェショナルの実例等について…。
「ゲルダ・タロー」…世界的に有名な「ロバート・キャパ」の分身とも言うべき女性の戦場写真家。ロバート・キャパの助手の様な形で関わるようになるが、助手とかマネージャーではなく、次第に対等の関係になっていく。ロバート・キャパという架空の名前を考えだし著名写真家にのし上げたのも彼女の功績。彼女自身が写真家として、第一線に出るようになりキャパの名前で発表するがついには、キャパを上回る評価を得て、ゲルダ・タローとして世に認められるようになる。その理由は何か? 「一歩前へ」の精神。味方に背を向けて銃弾が当たる危険を顧みず上陸する兵士に接近して撮る、等など迫真の写真を生み出した。そして、とうとう自身の命を落とす。
横山大観と言えば、日本画の大家。普通、身の回りを世話する弟子がいるものだが、大観にとって弟子、助手のような働きをしたのが筆職人だった。大観は、職人に徹底してこだわった人で、筆、和紙、表具師など職人を引き連れてパリの展覧会に乗り込み、彼らの匠振りを賞賛したそうである。芸術家の域となればプロフェショナルと言う言葉は軽すぎて使えそうもないが、素材や道具への“こだわり”は半端じゃない。
並みの耳鳴りを越えるゴーという音が、常時聞こえる生理的環境を想像して貰いたい。身体の痛みに耐えるため、毎回、15種類の薬を飲み、一時的に抑える生活。そんな苦痛に苛まれながら“ヒロシマという交響楽”を作曲した方がいる。耳鳴りの中で、複雑な五線譜を書き上げるなんて人間業と思えない。“命を削る”作業だ。鎮魂の響きが感動を呼び起こす。プロフェショナルという言葉が浮かんだ。
もう一つ、江戸のプロデューサー蔦屋重三郎にあやかってTUTAYAの店名でCD、ビデオレンタル業界を制覇したCCC(カルチャーコンビニエンス・クラブ)が、本の文化へのチャレンジ店舗「蔦屋書店」を代官山に開設した。テーマ別のコーナーに分かれて、お客様の相談に応える販売員を全国から募集した。例えば、ヨーロッパへの旅と言っても、今のお客様はテーマを持った旅を楽しみたいという程ハイレベルだ。そんな希望に応える販売員は、世界の旅のルポライターを長年やって来た方だ。実践の強みを生かしたプロフェショナルに相応しいスペシャリストである。
私の考える、プロフェショナルとは何か? ずっと続きそうなテーマだが、一言で表現すれば、真のプロフェショナルとは、「命を賭けるレベルに在る人」のこと。やっぱり高みの存在である。
「日本の強み“繊細さ”と匠技の戦略的思考」
難しいタイトルになった。「匠の技を賞賛すべきか!?」…発端はこんな悩みからたどり着いた愚見。グローバル経営にひた走る日本企業は、匠の技やトコトン機能追求にこだわってガラパゴスの罠にはまり、韓国、台湾の“顧客発想”の価格競争に敗れたのが家電業界だった。
中堅といって良いグローバル化推進中の企業の人材育成策を考えていたら、企業内に根強い熟練の技能や細部へのこだわりが過剰品質の根底にあり“職人技のデジタル化”が進む状況の中で、職人の技をどう評価すべきか?の壁につき当たった。
ドラッカーは、マネジメントたる者は全体最適を優先しなければならないという。砕いて言えば、マネージャーは常にアウトプットから考えなさいということ。教会を造る3人の石工の話が出てくるが、二人目の職人のこだわりが問題だと指摘する。つまり、部分最適を優先してはコスト高となり、返って全体価値を損ねる、つまりは競争に勝てないということになる。
では、細部にこだわる、或いは完璧を追求する技はムダなのか!? 職人の技は完成度が高いほど、「匠」といわれる人間の技と感性に頼るアナログの世界に近づく。日本画の大家「横山大観」は和紙、筆、表装など職人技に徹底的にこだわった。筆は絵を描くときの道具そのもの、行書体ではなく“真体”を描く筆を求めたという話しがある。まさに名人芸の域の“筆づくり”だった。ここまで来ると“芸術品”、“文化”の域。普通の人が努力しただけでは到達できるものではない。このような例は、極々少数の人たちの世界である。プロフェショナルという表現だけでは失礼な感じがする。
国内の市場だけで生きていけたアナログ時代は良かったが、グローバル競争とIT(デジタル化)の時代になり、日本人的“繊細さ”の長所が“過剰品質”=“高コスト体質”につながった。この時代背景を説明する言葉が見つかった。『日本の小さなムラの内側では、ステイタスと小さな技巧と完全主義が有効であった。だが、世界の大きな、激しい流動の渦中では、機能(Function)と体力と不完全(失敗許容)が求められる』(江川淑夫)
そこで「匠」について、やっとたどり着いた私の結論、「匠の世界で成功するには、家族経営的限界規模でなければならない。一定水準以上の価格を超えて満足感(感動)を満たすものでなくてはならない。適正な売上規模を確保するには、顧客マーケットは地理的空間(距離)を超える広がりを持っていなければならない」…その他、色々あるでしょうが、こんな処でしょうか!? 卑近な例で言えば、カウンターだけのお鮨やさんにその原型があるという感覚です。
“プロフェショナル”とは何か? 次に来るテーマである。ビジネスマンとして、或いは、自由人として、“あこがれ”の響きを持つキーワードだと思う。
*3/2に書きだして1ヶ月経ってしまいました。悩ましいテーマでありました。
難しいタイトルになった。「匠の技を賞賛すべきか!?」…発端はこんな悩みからたどり着いた愚見。グローバル経営にひた走る日本企業は、匠の技やトコトン機能追求にこだわってガラパゴスの罠にはまり、韓国、台湾の“顧客発想”の価格競争に敗れたのが家電業界だった。
中堅といって良いグローバル化推進中の企業の人材育成策を考えていたら、企業内に根強い熟練の技能や細部へのこだわりが過剰品質の根底にあり“職人技のデジタル化”が進む状況の中で、職人の技をどう評価すべきか?の壁につき当たった。
ドラッカーは、マネジメントたる者は全体最適を優先しなければならないという。砕いて言えば、マネージャーは常にアウトプットから考えなさいということ。教会を造る3人の石工の話が出てくるが、二人目の職人のこだわりが問題だと指摘する。つまり、部分最適を優先してはコスト高となり、返って全体価値を損ねる、つまりは競争に勝てないということになる。
では、細部にこだわる、或いは完璧を追求する技はムダなのか!? 職人の技は完成度が高いほど、「匠」といわれる人間の技と感性に頼るアナログの世界に近づく。日本画の大家「横山大観」は和紙、筆、表装など職人技に徹底的にこだわった。筆は絵を描くときの道具そのもの、行書体ではなく“真体”を描く筆を求めたという話しがある。まさに名人芸の域の“筆づくり”だった。ここまで来ると“芸術品”、“文化”の域。普通の人が努力しただけでは到達できるものではない。このような例は、極々少数の人たちの世界である。プロフェショナルという表現だけでは失礼な感じがする。
国内の市場だけで生きていけたアナログ時代は良かったが、グローバル競争とIT(デジタル化)の時代になり、日本人的“繊細さ”の長所が“過剰品質”=“高コスト体質”につながった。この時代背景を説明する言葉が見つかった。『日本の小さなムラの内側では、ステイタスと小さな技巧と完全主義が有効であった。だが、世界の大きな、激しい流動の渦中では、機能(Function)と体力と不完全(失敗許容)が求められる』(江川淑夫)
そこで「匠」について、やっとたどり着いた私の結論、「匠の世界で成功するには、家族経営的限界規模でなければならない。一定水準以上の価格を超えて満足感(感動)を満たすものでなくてはならない。適正な売上規模を確保するには、顧客マーケットは地理的空間(距離)を超える広がりを持っていなければならない」…その他、色々あるでしょうが、こんな処でしょうか!? 卑近な例で言えば、カウンターだけのお鮨やさんにその原型があるという感覚です。
“プロフェショナル”とは何か? 次に来るテーマである。ビジネスマンとして、或いは、自由人として、“あこがれ”の響きを持つキーワードだと思う。
*3/2に書きだして1ヶ月経ってしまいました。悩ましいテーマでありました。