『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

翻訳 宇宙の橋を渡って 3

2011-10-20 00:35:43 | 翻訳

 

それである晩、長い間ためらって長文の手紙を彼女に書いた。くちばしの黄色い若僧が現実を慨嘆し人生を云々したので、彼女が読んでどんなに呆れたことだろうか。<o:p></o:p>

 

 木蓮が咲いて散り、朝鮮レンギョウとから紫つつじが咲いて散り、黒船つつじとさつきが咲いて散った。でも桜が粉雪のように舞い散る頃になっても彼女からは返事が来なかった。僕の手紙が配達されなかったのか、引っ越したのか、あるいは健康に何か異常でも?・・・こんな気持ちは誰でも経験したはずだから、これ以上長く触れる必要がないだろう。<o:p></o:p>

 

 5月中旬ごろ、やきもきしながら待っていた返事をもらった。返事をもらった時の嬉しさは旧態依然とした記述になるはずだから、飛ばそう。学校をやめてソウルの実家で数か月休んでから、彼女は春川にある私立中学校の教師になったと書いてきた。そして地方の受験生がソウルに進学できなくなった入試制度についてとても残念がった。でも、その初めての手紙から僕の人生の方向性を作り出す2つの言葉を受け取った。「春川」という地名と「春川高校」という校名だった。僕はそれを一種の指令として受け取り、それ以外のすべての可能性を無視した。死か、あるいは生か。僕には他の選択も考慮することができなかった。決められた地名、決められた校名をミッションとして完遂してこそ再び彼女に会えるということをはっきりと気付いたからだ。<o:p></o:p>

 

 当時、ソウル進学の道が断たれた後、嶺東地方でちょっとできる子供はみな江陵高校を目標に入試準備をしていた。学校でも進学相談を通して江陵高校への進学を強く進めていた。でも、彼女の手紙を読んだ次の日から僕の周りは突然揺れ始めた。江陵高校ではなく、春川高校に進学すると僕が爆弾宣言をしてしまったからだ。<o:p></o:p>

 

 性根の悪い担任は特別クラスの学級委員で生徒会長の僕が春川高校に行く場合、他の生徒に与える影響を考えたのか、完全に頭のおかしくなってしまった奴として僕を扱った。そうして夜遅くまで学校に拘束して、一体全体春川へ行こうという理由は何だと、時には脅したり時にはすかしたりといった、ばかばかしいシチュエーションを演出した。でも、笑ってしまう話だが、僕は眉一つ動かさずに春川高校でなければ高校進学をしないと頑張った。結局父まで学校に呼び出されたが、幸運なことに父は僕の判断を聞いてくれた。担任の執拗な説得と押し付けに密かに怒りが込み上げて、「息子が春川高校に進学するといけない法律でもあるんですか。」と簡単にやり返したと僕に告げた。<o:p></o:p>

 

 結局、僕は教師たちからの露骨な冷やかしと憎悪を受けながら1年を過ごした。田舎の子が。春川高校がどんなに難しいところか、そこにでしゃばって行こうというのか。お前がそこに行って落ちたら恥ずかしいし、滑り止め高校にどんな顔して通うつもりかい。苦しい時間を耐えるときに一番大きな励ましと慰めになったのは、もちろん彼女の手紙だった。鼻血が出て死ぬほど勉強し、彼女から来る手紙を唯一の心の慰めとした。<o:p></o:p>

 


翻訳 宇宙の橋を渡って 2

2011-10-20 00:25:31 | 翻訳

 

僕がその子の家を再び訪ねたのはそれから12年後だった。高校2年の冬休み、ついにその子に会いに出かけた。待ち遠しさと恋しさ、そして忍耐した歳月が流れていた。しかしその冬にその子の家があった所で発見したものは、とても大きな果樹園だけだった。その子の家があった一帯に途方もない広さの果樹園ができていたのだった。<o:p></o:p>

 

 その後、とても長い年月、納得しないことを納得するために、荒涼とした現実と戦わざるをえなかった。恋しいことは何も戻ってこずに、戻ってこないことを恋しがる人の心は病に侵されるのだ。<o:p></o:p>

 

 今も僕はその子をまだ恋しがっている。ひょっとすると僕が書く小説のすべての基底にその子と僕の実らなかった恋が、まったく別の実を結んでいるのかもしれないのだ。小説というものは、結局僕たちが忘れて生きている人生というものへの初めての目覚めを語ろうというもがきでなければ他に何なのだろうか。              *<o:p></o:p>

 

 1972年、僕は中学2年の時ずっと一人の女性を想っていた。15歳で、朝鮮レンギョウ、から紫つつじが舞い散っていた、ある春の日、その女性は春の花よりもっと華やかな笑顔をみせながら、僕の目の前に現れた。でも大学を卒業したばかりの彼女を見て電気に打たれたような衝撃を受けたのは僕だけではなかった。長い髪と白い歯、軽やかな足取りを見て、僕の同年輩の子供がすべて騒々しい歓声をあげたからだ。その1年の間は彼女が僕らの中心だった。子供たちだけではなく、大人の間でも彼女に対する関心がとても高く、結局彼女は恋の噂話の主人公にされ、あらゆる噂に悩まされ、年末に学校に辞表を出してしまった。本当に馬鹿げた結末というほかなかった。<o:p></o:p>

 

 学校を離れる数日前に、彼女は僕を教材室に呼んだ。僕は彼女が留まっていた1年間彼女のために、ひたすら頭が爆発しそうなほど勉強し、教え子数百名の中で1番だった。彼女が僕に高校の進路について尋ねたので、その時ソウルにある高校に進学する予定だと話した。彼女のうちがソウルにあったのでいくつかの高校を具体的にあげながら、頑張って勉強して必ずソウルに進学しなさいと言った。そして僕に自分のうちの住所を書いてくれた。その日渡されたその住所が結局僕の人生の流れを変える決定的な契機になってしまった。一粒の種をぽんと押すように、僕の運命の空間に落ちた彼女の住所を30年たった今でも鮮やかに覚えている。<o:p></o:p>

 

 彼女が去って僕は3年になった。不幸にもソウルへ進学することは制度的に不可能になった。僕は学級委員に生徒会長まで兼任するようになり、生徒と教師の間で挟まれサンドイッチになっていった。犬の糞のような世の中、本当に生きる楽しみがなかった。 <o:p></o:p>

 


翻訳 宇宙の橋を渡って 1

2011-10-20 00:08:07 | 翻訳

自伝小説3 -別れの前後を振り返ってー

 

初版 20101111

 

 

 

題名: 宇宙の橋を渡って

 

 

 

 

作家: 朴サンウ

 

 

 

作家紹介: 

 

1958年京畿道カンジュ生まれ。1988年「文芸中央」新人文学賞に中編「消えない輝き」が当選しデビュー。小説集「シャガールの村に降る雪」「人形の村」「ドクサン洞の天使の詩」「愛より馴染みのない」、長編小説「刃物」「いばらの冠の肖像」等。理想文学賞、洞里文学賞受賞。

 

 

 

作家を語る:

 

彼は真摯である以上に厳粛だった。答える内容はあらかじめ反芻してから、一度も言葉を変えたり言いよどむこともなく、ゆっくり話した。彼は見えない刀を脇に下げているようだった。鋭くよく焼いて鍛えた刀ではなく、鈍くかなり重い擦り減らない鋳鉄の刀だと思った。速く機敏に短時間で終えることはできないが、相手を徐々に踏みつけて砕いてしまう鋳鉄の刀。彼は鋳鉄の刀のイメージを備えていた。ハソンラン(小説家)

 

 

 

本文:

 

 僕は1958年の夏に生まれた。陽暦(太陽暦)の816日、陰暦の72日だった。

 

はっきりした性格と熱い情熱を兼ね備えたという獅子座生まれだ。血液型はA型のRh+。僕が生まれた1958年について特別な感慨はない。ところが世の中の人は1958年に生まれたというと、きまって「まあ、58年戌年生まれ!」と言いながら変わった種族でも眺めるようにしげしげと見る。生まれた戌年にどんな呪いでもかかっているというのか?今も僕はその理由がわからない。さらに見苦しいことは「58年戌年生まれ」をあやしい目つきでながめる人でさえ、僕が心配する理由がわからないのだ。どうして1958年戌年生まれになったかわからないが、とにかくそれは深い意味のある、この世の中の不条理のように感じられる。

 

 僕の脳裏に58年戌年生まれとして刻まれた最も有名な人物は、1026事件で暗殺されてこの世を去った朴正煕元大統領の息子、朴ジマン氏だ。そもそも58年戌年生まれが彼に対して抱く感情は格別だ。生まれてからいくらも経たないうちに朴政権が始まり、大学生活が終わる頃までずっと維新の下で生きていたので、あれやこれやで58年戌年生まれは彼に対して格別の感情を抱かざるをえない。朴ジマン氏が陸軍士官学校を卒業した直後から、僕は陸軍士官学校で軍隊生活を始めた。そこでも58年戌年生まれの朴ジマン氏についての話が伝説のように流布していた。

 

 朴ジマン氏が波乱万丈の人生を歩むのを見守りつつ、僕は文学のための人生を準備しようと疾風怒濤の時間の中をさまよった。作家になろうというただ一つの目標しか持っていなかったので、僕には文壇デビューがすべてを左右するキーワードというほかなかった。ところがその紆余曲折が驚くことに朴ジマン氏の父親の忌日に実を結んだ。19881026日午前、自殺一歩手前で当選通知を受け取ることになったのだ。本当に不思議な縁というほかない。

 

 話を聞く人は笑うかもしれないが、僕は6歳の時に初恋を経験した。そして30年以上過ぎた今日までもその時のことを昨日のことのように鮮やかに覚えている。少し見ないだけでも我慢できず、胸いっぱいになる恋しさ、一緒にいる間のこの上もない安らかさ、そして別れていた間の恐怖のような切ないじれったさと、別れた後で一層切なく恋しくなった歳月。今の僕は純粋さからはるかに遠い流刑地の中にいるようにそれを反芻し思い返す。

 

 僕がその女の子に初めて会ったのは職業軍人だった父の新しい赴任地でだった。目が際立って大きかったその女の子は、うちの家族が借りて住むことになった大家のたった一人の娘だった。兄弟姉妹がいないだけではなく、どういうわけか、その女の子には母親までいなくて、幼い僕が見ても見栄えのしない格好が言葉がないほどみすぼらしかった。

 

 まぶしい日の光が滝のようにあふれていた渓谷とザリガニ、からむらさきつつじ、山ぶどう、よもぎ、のいばらの花のようなものがひとりでに浮かんでくる同じ年生まれの女の子。近所に付き合うぐらいの同年輩の子供がだれもいなかったので、その女の子と僕が親しくなるのはあまりにも当然のことだった。その女の子と別れなければならない夕暮れを嫌い、その女の子と離れていなければならない夜も嫌いながら、そのすべてに対する償いのようにその女の子と会える朝を胸がいっぱいになりながら待ったりした。

 

 愛おしさがひときわ深まったある春の日、その女の子と僕はうちの前で泥んこ遊びをしていた。その時、舗装していない道路を白っぽいほこりを巻き上げながらジープが走ってきて、その女の子と僕のままごとの現場を邪魔した。二人の軍人が下りて、いきなり僕をジープに乗せたのだった。その女の子はおびえて二つの大きな目を見開いたままジープに乗せられていく僕を見てどうすることもできないでいた。しかし僕はそれが軍人家族の引っ越しのやり方だということをもう知っていた。その日乗せられていく僕を見守っていたその女の子の瞳を脳裏に焼き付けながら僕はひたすら一つ決心を固めた。夜になったら引っ越し先からこっそり抜け出してもう一度その女の子のうちへ戻ろうと。