栗を焼き銀杏を焼く路地屋台
銀杏をほおばるリスの散歩道
秋の日が紅葉の影と遊びけり
風吹いてイチョウ並木に雨近し
ひだまりに落ち葉がひらりまたひらり
2年後、巨人のように大きいその友達は結局自殺した。ただ、その友達が死んだからではなく、その時僕の周りには死がとても身近にあった。深夜窓ガラスを覆う霧の粒子にも死がこもっていて、早朝湖面に差し込む朝日にも死が宿っていた。その時の僕には死もまた一種の観念だった。観念がそのように濃密な雰囲気で周りでゆらめいているので、僕自身が生と死の境でゆらめいている影法師のような気がした。だから明け方まで死という手に余る観念に捕われ、青春という観念に捕われ、人生という観念に捕われ、充血した目で座っていなければならなかった。眠らない19、すべてのことに馴染みがなかったけれど、どれ一つ完全に僕のものにならなかった頃だった。<o:p></o:p>
僕は大学でも4年間ずっと詩を専攻した。でも黒石洞の中央大学文芸創作科に入学して、はっきりと学んだこととは酒を飲むことと血気にはやって騒ぐこと、そして文学は大学で学べるものではないということだけだった。文学というものはいずれにせよ独学で成し遂げるものであるということを、早くもわかってしまったのだ。だから学校も行かず足がパンパンにはれるほどソウル市内をあちこち歩き回った。その時一番楽しく訪ねたのが南大門市場だった。世の中で一番大きいデパートと名付けた、南大門市場の路地を縫っていると時間がたつのが忘れられた。本当に興味津々でわかったものは、生の多様で多彩な風景だった。人々の額と目じりに刻まれたしわが平凡な人生から生まれたものには見えず、一本気で融通がきかないような表情で座りながら向かい合って煙草を吸う姿を見ていると、なぜかわからないが胸がいっぱいになった。<o:p></o:p>
詩を書くことはほとんど病的な状態にまで深まった。毎日友達と酒を飲み、毎日酔った。体重が49キロまで落ち、頬骨が飛び出るほどだった。下宿代を書籍とレコードを買う費用にしたため、両親に内緒で自炊を始めたのだった。自炊といっても、僕にとって本当の意味の自炊とは「自然に酔うこと(自酔)」というほかなかった。当時の僕を支えていた重要なものとして、詩以外にも音楽と書籍があった。特に音楽に深くのめり込み、言葉でたとえることがむずかしい無限空間性を経験できた。目を覚ますと毎朝チャイコフスキーの「イタリア奇想曲」を聞き、曇りや雨の日にはベンジャミン・ブリトンの「アルページオソナタ」をよく聞いた。もちろんポップも好きで、その時すでに数百枚のレコードを持っていた。好きなように音楽を聴いて本当にたくさんのことを学ぶことができた。本こそ僕の仕事なので当然読まなければならないのだが、音楽から得た感性的な教えは後日作家になって書いた、すべての文章のバックグランドミュージックの役割を果たしてくれた。すべての文章には音楽的要素があるのだ。<o:p></o:p>
それで、どんなに飛んでも最後まで着地することができない鳥のように、長くいつまでもみすぼらしく惨めな時間の中を浮遊しなければならなかった。僕はその時やっと17歳だったから。<o:p></o:p>
僕は高校1年の時から詩を書き始めた。今考えると詩だと主張することもできないものがほとんどだった。でも当時の僕には誰が何と言っても一番重要なものは詩だった。深夜も簡単に眠ることができず、浅い眠りに入りかけても、はっと目をこすって起き、明け方の深い静寂の中で詩を作ったりした。春川はよく深い霧が立ち込める湖畔の都市だった。地勢学的特性によると文人と肺病患者がたくさん排出されるという、その都市で3年間遊学生活をおくりながら詩を書いた。「高校に通った」とか「勉強した」という表現が似合わないほど文学に深く心酔していたころだった。<o:p></o:p>
春川で一番苦労したことは「一人」という現実に心身を適応させることだった。その時まで「一人」という物理的状況を漠然とした観念でだけ思い描いていた。でも、それは皮膚がひりひりするような実際の状況だった。街をぶらぶらしたり、霧の濃いコンジ川の土手道を歩いても、そんな問題がたやすく解決されるはずがなかった。そんな時自分を慰めることのできる唯一のことが詩を書くことだった。詩を書く間だけはすべてのことを忘れることができた。どんな欠乏感も感じないで、一人だという事実自体をはるか遠くに忘却することができた。それは強い薬のように効いて僕を落ち着かせ満足させた。<o:p></o:p>
僕はいつも自作の詩を記した分厚いノートを持って通った。どのくらい多くの詩がそのノートの中に書かれていたか正確に思い出せない。周りの何人かの友達もそのノートの正体を知って、それをいいことに自分たちのラブレターに僕の詩を引用させてほしいとこっそり頼んで来たりした。もちろん詩を貸すようなことはしなかった。その代わり詩のように甘いラブレターを書いてやり、カフエでチンチュハとアビの「ある夏の夜」を聞きながらパンをおごってもらったりした。でもその時まで文学は僕にとって道ではなく、一種の雰囲気だった。雰囲気を取りはらってそれ自体が一つの道になるために、どのくらい多くの時間と忍苦の過程が必要かを、その時知っていたら決して作家や詩人にならなかっただろう。今は多くのことを知りすぎてしまったけれど、その時は本当に何も知らなかったのだ。やっと17、くちばしの黄色い若僧だったから。<o:p></o:p>
僕は3年間文学書を読んで詩を書きながら春川で暮らした。孤独だということ以外にほかに思い出すこともない。隣の部屋に同じように下宿していた友達がいたけれど、実家がアンヤンだったその友達は、母親を早くに亡くしたからか巨人のような大きい体格にもかかわらず、いつも寡黙で憂鬱な表情でうなだれて通った。二人でいる時たまに彼が口を開くときがあったけれど、そのたびにテープレコーダーのように同じことをくりかえし言った。<o:p></o:p>
「僕は長く生きないつもりだ。」「僕は早晩死ぬつもりだ。」<o:p></o:p>
ところで僕が春川高校に進学するという爆弾宣言をしてから、僕と成績が同じぐらいの特別クラスの一人の友達が現れて自分も春川高校に進学すると宣言した。それでその友達と僕は学校で同じ仲間として扱われたが、僕はそんな周りの状況には毛ほども神経を使わなかった。寝ても覚めても座っても立っても、ひたすら試験に受からなければという一念で燃えあがって、周りで起きることに全く対応しなかったのだ。ひょっとして誰かが横でののしり続け唾を吐いたとしても、僕は微動だにせず辛抱して座ったまま勉強に熱中していただろう。<o:p></o:p>
とにかく入試で僕は771番、友達は773番の受験番号をもらった。父が付き添ってくれたが僕は試験を見て不安と焦燥に駆られてしまった。友達が易しすぎるといって毎時間教室を一番早く出たりしたので、僕の心配は倍加せざるをえなかった。ところが試験の2日後、発表された合格者名簿に771はあったが、773番はなかった。「春川」という一粒の種、きっかけを通して互いに別の人生の流れが生み出される瞬間だった(その友達は今米国に住んでいるが、数年前に江南大通りで本当に奇跡的に再会し、しばらく「春川」の話を交わしたことがあった。彼が「春川高校に合格したとしたら~」という仮定と、僕が「春川高校に不合格になったとしたら~」という仮定ついて本当にたくさん考えさせられた。現在とは完全に異なった人生の方向の根っこに驚くべきことに「春川」という一粒の種がくっ付いていたからだ)。<o:p></o:p>
春川高校には合格したが、彼女に会ったのは2月末ごろになってからだった。入学のために春川へ来て下宿を決めてからすぐに、はじめて電話をして明洞のコーヒーショップで会うことができた。彼女を待っていた1時間ほどの冬の日の午後、その時間の濃さには僕の人生のすべての秘密が込められていた。しかし僕はそれもわからず、ときめき震える胸でとんでもない期待感を膨らましていた。彼女がいる春川に僕も住むようになって、その喜びをどんな言葉で表現することができようか。<o:p></o:p>
彼女は17歳の僕の目で見ても、非常に疲れて見えた。人が疲れてみえるということは、人生を苦しんで生きているという意味と別に違いはない。一時的に回復できる問題ではなく、根本的に難しい問題を抱える人から感じられる人間的な深さとストレスの重圧感のようなもの。彼女は一言二言言葉を交わした後、とても静かに力のない口調で僕が後ろにひっくり返るような発言をした。<o:p></o:p>
「私、学校に辞表を出したの。体がよくなくて休まなければならないようなの。君には本当に悪いんだけど・・・どうしたら?」<o:p></o:p>
僕は記憶力が本当に良いほうだが彼女からそう言われた次の瞬間からのことは記憶に残っていない。とにかく彼女が春川を離れることになったという言葉を聞いたその瞬間、春川へ流れて行った僕の人生は、まったく別の流れを作り始めた。烈火のような時間を過ごしながらミッションを完遂した後で得たものは無残な失恋だけだった。彼女が離れてしまった春川、最後まで馴染めなかった春川・・・春川に到着するなり心の足首を切断されてしまった。<o:p></o:p>