『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

翻訳 ノ・チャンソンとエバン(3)

2022-09-26 11:41:07 | 翻訳

★★趣味の韓国語サークルで勉強した教材を翻訳したものです。営利目的はありません★★

著者  : キム・エラン

帰り道のチャンソンの顔が暗かった。バスの窓の外で8月の無慈悲な草色が平然と揺れるのが見えた。日の光も風もそのままなのに突然別の世界に来た気分だった。数十分の間に同じ風景がすっかり変ることがあるという事実が驚嘆に値した。

「お父ちゃんもそうだったのだろうか?」

 チャンソンがうつむいてエバンを見た。エバンはチャンソンの膝に座ってかすかなバスの振動を感じながらこっくりまどろんでいた。チャンソンは医者から聞いた話を一つ一つ反芻した。手術をしてもいいし、しなくてもいいということが何を意味するのかじっくり考えた。こんな時に自分が何をすればいいのかわからなかった。チャンソンがふと冷たく湿っぽい気配を感じて下をうかがった。自分のベージュ色の半ズボンにテニスボールほどの赤褐色の染みが見えた。染みは不完全な円模様を描いて段々大きく広がった。

「どうして、エバン。お前、そんなことしなかったじゃないか。」

 チャンソンがエバンの耳に囁いた。エバンを叱るより周囲に説明したわけだ。夏なのでバスの中に少し生臭い小便の臭いがすぐに広がった。少しだけ我慢しようかと思って、チャンソンは目的地までバス停二つを残してバスから降りた。チャンソンが畦道にエバンを下して優しく言った。

「エバン、少しだけ歩いてみて。ね?」

 エバンは地面にぴたっと腹ばいになったまま、動かなかった。チャンソンは仕方なくエバンを胸に抱いて黄昏に沈む薄暗い畦道を歩いた。真夏の暑さに犬を抱いて歩いてみると数分でTシャツがびっしょり濡れた。

「着いた。少しだけ我慢して。」

 病院でエバンの聴力が弱っているという話を聞いたのでいつもより声を上げた。そこらじゅうで頭をよくぶつけるなんて、視力も明らかに悪くなったのだろうと思った。ふいに痛々しい気持ちになってチャンソンがエバンの頭をそっと撫でた。エバンの口元がかすかに上がった。反対に目じりは柔らかく下がって、人が笑うように見えた。チャンソンが頭を上げて残りの距離を見極めた。ぬるい水田の上にカゲロウの群れが丸く一つにまとまって飛んでいた。あたかも、空間に時間の水しぶきができるようだった。もうエバンにご飯を食べさせる時間なのでチャンソンが足を速めた。

 

 その晩、祖母は夜中の12時過ぎに帰ってきた。祖母は板の間に上がるとポケットからラップで包んだバター焼きのスルメイカを取り出してチャンソンに差し出した。

「シロにやらずにお前だけ食べなさい。やろうとするなら頭だけ取り除いてやるんだよ。」

「お祖母ちゃん、お酒飲んだの?」

 チャンソンは祖母から酒気とともに香水の匂いがするのを感じた。祖母は返事の代わりにナイロン素材の鞄から煙草の箱を取り出した。そうして一本残った煙草をつまんで火を付けてから、ため息をつくように小さく呟いた。

「主よ、私を許したまえ・・・・」

 チャンソンはエバンを連れて一人で病院に行ってきた話を祖母にしようかしまいかためらった。

「明日日曜日なのにお酒を飲んだらどうするの?教会に行かない?」

「うん。」

「どうして?」

「ただ行かない。」

「お酒を誰と飲んだの?」

「前の牧師さまと。」

 チャンソンは前の牧師さまがどんなに良い方かを祖母から何回も聞いて知っていた。父の葬儀を手伝ってくれたのも、保険会社が保険金支給を拒否した時に、訴訟を調べてくれたのも、祖母が通っている教会の前の牧師さまだった。印紙番号や送料という難しい言葉の前で戦々恐々とした祖母に、一番大きい力になってくれたのも牧師様だと言った。例え、保険料請求訴訟は棄却されたけれど、「それでもそれほど争うことができたのは牧師さまのおかげ」だと祖母はしきりに言った。チャンソンは祖母がする話を半分も理解できなかった。

「今牧師さまがお祖母ちゃんと会いたくないそうだ。」

「それはどういうことなの?」

「なんだって。何でもないよ。あっ、そしてこれ。」

 祖母が話題を転じて財布から何かを取り出した。

「お前、前からほしいと言っていただろう?」

「何?」

「休憩所の所長が携帯電話を換えたの。液晶がちょっと壊れているけれど、通話はできるだろうって。欲しければ持っていけというので、家の子犬にやろうと持ってきたよ。何か芯かチップかそれだけ入れるといいと言っていたけれど?」

 チャンソンが目を輝かせて旧型のスマートフォンを受け取った。祖母の言葉とおり、左側の角に蜘蛛の巣模様の小さいひびがあるけれど、それくらいなら大丈夫だった。

「米櫃にご飯が残っているかい?」

 チャンソンがスマートフォンから目を離さないまま答えた。

「うん。」

「じゃ、お祖母ちゃんは先に寝るつもりだから、少し遊んで寝なさい。シロのご飯の入れ物からすえたにおいがしたけど、ちょっと洗っておいて。」

 祖母が空の煙草箱につばを吐いてから煙草をもんで消した。そうしてよろよろ暗い部屋へ入って行った。

 

 チャンソンは小部屋に横たわって電源も入らないスマートフォンをしばらくなでまわした。そして休み時間ごとに携帯電話のゲームに熱中していたクラスの子供達を思い浮かべた。四角いモニターの中で機械か生物かわからない小さいものが、ぶくぶくしながら砕ける姿を友達の肩越しにしばらく盗みみたりしたのだ。チャンソンはその世界がいつも気にかかっていた。友達達が互いに文字だけで対話し、チャンソンが勇気を出して話しかけても、液晶から目を離さず、返事をする時は特にそうだった。チャンソンは友達の間でコミュニケーションが動き出す原理と語彙から疎外されていた。ところが、突然嘘のようにそれが生まれたのだ。まだ通信会社と契約して電話番号が通じるようにしたのではないけれど、機器があるのでいつでも自分が望む世界とつながることができるようだった。チャンソンがふいに静けさを感じて周囲を見回した。一日中うんうん言って後ろ足をなめていたエバンがチャンソンの横でぐっすり寝ていた。チャンソンの顔に薄い影がかかった。動物病院の医者はエバンが手術をしなければ危険だと言った。しかし、老犬なので「手術しても良くなるはずもない」と言った。チャンソンはその簡単な言葉がよく理解できなくて何回も目をぱちぱちさせた。

「そうすればできることが何もないのですか?」

 医者が呼吸を静めた後落ち着いて答えた。

「最後の方法として・・・・めったにないですが安楽死を選ぶ方がいて・・・・」

「それ、何ですか?」

「苦しむペットをぐっすり眠らせてから、心臓を止める注射を打ってやるので、安らかになって。」

 医者は「それをしてから、後悔したり、苦しがる人も多いので、慎重に決めること」だという言葉を忘れなかった。ひとまず、エバンに良くしてやれと、持ちこたえて生きている間とても苦しいはずなので、横でよく慰めてやりなさいと言った。しかし、チャンソンはどうすれば良くできるのか、エバンが本当に望むことが何かわからなかった。折よく向かいの部屋で祖母がため息を吐くように「ああ、死ねばすべての苦しみが消えるだろう。死ねば憂いがないだろう。神よ、私を静かに連れて行ってください」と言う声が聞こえてきた。チャンソンが体を回してエバンを穴が開くほどじっと眺めた。互いに鼻が触れるほどの近い距離だった。

「お前がお前の顔を見た時間より僕がお前の顔を見た時間が長い・・・わかるかい?」

 エバンの濡れた睫毛がかすかにぶるぶる震えた。チャンソンがエバンの口の形、髭、小鼻、眉、一つ一つ心を込めて眺めた。そうすると、その上に生きて、とても、持ちこたえる、苦しみのような言葉が慌ただしく重なった。

「ねえねえ、エバン。僕はいつも気にかけていた。死ぬことが治るほど苦しいというのは一体全体どれぐらい苦しいのだろうか?」

「・・・・」

「エバン、とても苦しいのかい?僕がよくわからなくて御免。」

「・・・・」

「ねえねえ、エバン。もしも耐えられなかったら・・・後で、とてもとても苦しかったら、お兄ちゃんに必ず言って。わかったね?」

 エバンがううと声を出した。チャンソンは体を回してまっすぐ横たわってから、暗闇の中で空っぽの壁をしばらく眺めた。

              

 チャンソンはアパートの外廊下それぞれの玄関にA4の大きさの紙を貼った。40枚単位で小分けして角ごとに前もってセロテープを張って置いたのだった。「高等部 国語 課外」「課外より強大な1台3システム、少数精鋭グループ」「内申 準備 特別 教材、期末成績表がさっと変わります。」その他にピアノとテコンドー学院を始めとして美容院とフィトネスジム、チキン、ピザ配達業界の広告も多かった。チラシ配布アルバイト面接の時に、チャンソンは自分の年を少し多めにした。幸い、生徒証を見せるという所はなかった。背が届かない所にある郵便箱は支えるものを使ったり、自分の位置から飛ぶことで解決した。共同玄関の暗証番号が必要な新築アパートはなるべく避けたけれど、時たま知らないふりをして入居者の後について入って行った。幼く見える顔に生徒鞄を背負ったチャンソンを疑う人はほとんどいなかった。それでも、他人の家の玄関にチラシを入れるうちに、誰かが突然ドアを開けて出てくれば胸がどきどきした。

 

 割当量は考えるほど速く減らなかった。エレベーターがない高級テラスハウスのワンルームも多く、人々は行き来に防御的だったり、無視したり、神経質だったりした。アルバイトを始めてから、一日だけチャンソンは自分がチラシ配布をあまりに簡単に見ていたことに気づいた。生れてからこんなに体を使うことで、無理をしたことがなかった。初日から足に弾丸が詰まったように階段を上り下りすることは、体を侮辱するものだった。辞めたくなる度にチャンソンは呪文のように「1枚20ウォン。千枚配れば2万ウォン・・・。」

という言葉をつぶやいた。そうすれば少し耐える力が出た。何日間も休憩所にも立ち寄らず、夕暮になれば失神したように眠っているチャンソンを、祖母は別に怪しみもしなかった。ただ1回「お前、顔がどうしてそんなに日焼けしたんだい?」と言っただけだった。

 

 作業は一人でする時もあり、多数がグループを組んで動く時も多かった。一度は同じグループで働く中学生の先輩がアパートの階段に座って青いイオン飲料をあおりながら尋ねた。

「おい、お前、どうしてこれをしているんだい?」

 チャンソンが当惑したそぶりを隠しながら言葉を転じた。

「先輩は?」

「俺は何、ただ煙草代を稼ごうとしているのだよ。」

「そう・・・」

「お前は? 小学生がお金を手に入れて使うのかい?」

 チャンソンが躊躇してから率直に答えた。

「・・・ちょっと具合が悪いのがいて。」

「あ・・・」

中学生が今更のように善良な口調で尋ねた。

「ところでこれで大丈夫?」

 チャンソンが目を伏せて憂鬱げに答えた。

「うちの犬は小さくて10万ウォンぐらいかかるそうです。」

「えっ?何?犬?」

 中学生はしばらく混乱して世間の世情に明るい大人のふりをして「最近は動物病院代もとても高い」と不平を言った。

「いいえ、そうじゃないです。犬の安楽死代がそれぐらいかかるので、僕にお金がなくて・・・」

 中学生が何かじっくり考えてから、たちまちチャンソンを面と向かって責めた。

「何言っているのだ。こいつ、完全におかしい。」

 

 決まった区域を全部回ると、チャンソンはアパート団地の中の遊び場で時々休んだ。セロテープとはさみ、チラシ、さらにタオルと水筒が入った生徒鞄を背負ったまま木陰に座って町の子供達が遊ぶのを見た。三々五々ベンチに集まる母親達が育児を共有し、歓談を交わして、心配や関心、愛情がこもった目で自分の子供を眺める姿を観察した。「ああ、母親達は子供をあのように見るんだな」「あんな目つきで接するのだね」ちらっと見た。その度にチャンソンは不思議にも生まれて一度も顔を見ることができなかった母の代わりにエバンを思い浮かべた。「エバンもこんな所で散歩したら良いはずなのに」「エバンもあんなおやつをやったら興奮するはずなのに」と惜しんだ。エバンは最近チャンソンが出かける時も見上げなかった。ぼんやりした目でぼんやりと虚空を凝視した。チャンソンがご飯に生卵を割って、祖母に隠れてマグロの缶詰を載せてやっても、首を回す日が多くなかった。「近頃、僕がしょっちゅう家を留守にするからすねたのかな?」すまない気持ちになったけれど、最大のお金を早く集めようとすれば仕方なかった。


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