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小学生の頃の夏休みに、雲の日記というものに挑戦したことがある。
絵日記を書く課題があったのだが、その頃は絵も文章も苦手だったので、雲を描写するのがいちばん簡単だと考えたのだった。
たしかに雲の写生は簡単だった。白と灰色のクレヨンがあればよかった。日本晴れの日は雲がない。何も描かなくていい、やったあ、だった。
それでも1週間も続かなかった。やはり簡単で単純なものは面白くないのだった。
午後は、日が暮れるまで川にいた。
湧き水が混じっているので冷たかった。泳いでいて体が冷えきってくると岸に上がり、熱した砂に腹ばって温まる。熱くなると、また川に飛び込む。
夏休みは毎日、それの繰り返しだった。
砂地に寝転がってぼんやり空を見つめていると、頭の中がとほうもない空のようにからっぽになった。
雲が流れていた。ああ、雲が流れているなあと思った。それ以外に思考は広がらなかった。
空腹になると、クルミの木の高い茂みに石を投げて実を落とす。かたい種を河原の石で砕き、白い実を取り出して食べる。実と殻と砂が口の中でじゃりじゃりするので、舌先で固いものだけを避けては、吐き出し吐き出しして食べた。
お盆の頃になると、河原は無数のトンボが飛び交いはじめる。
トンボには仏さんが乗っているから、殺生してはいけないと大人に言われた。でも子どもは、禁じられたことはすぐに忘れてしまう。というより、やってみたくなる。
細い竹の棒をふりまわして、飛んでくるトンボをつぎつぎに叩き落とす。空中でバシッという手ごたえを残して、トンボは翅を広げたまま川面に落ちる。
トンボが笹舟のように、揺れながら流れていくのが痛快だった。生贄となったトンボの翅が次第に川面を埋めつくしてゆく。無為なるぼくらの夏を、いっとき満たしてくれる祭典だった。
いくどかの夏をやり過ごす。簡単で単純なことにも挫折はあった。
その挫折感とともに雲の日記を思い出す。空には雲が、川面にはトンボの翅が、悔恨の影を落として漂っている。
今のぼくには、雲はたいそう複雑な表情をしているようにみえる。
雲というものを、なんの変哲もない単純なものだと思っていた、遠い日の不思議な少年は、いまも河原に取り残されているようだ。
おはようございます。
今朝も雲を眺めていました。
つぎつぎと移り変わっていく夏の雲は見飽きません。
ぼくももう年ですが、最近また雲の魅力に魅かれています。
その形、予測できないし捕らえられないし、さまざま。
読んでいただき、ありがとうございます。
『雲は天才である』という書名は知っていますが、
読んだことはありません。
はるかな天にあって手のとどかない存在、
ということでは天才と言えますか。