青い鳥を常に求めて

人生の理想を追求する姿勢で何事にも当たりたい。

トヨタの車その3

2004-08-02 16:35:00 | Weblog
事故に強くショックを吸収するとは聞いていましたが、ここで、見事にそれが立証されたのです。以来、車はトヨタばかりです。先に、書き忘れたのは病院から出た薬です。頭痛薬、シップ薬、抗生物質だったとおもいますが、台湾の旅行は文化交流で100名近い人達をお連れする副団長の大事な役割でしたから、やめるわけにも行かず、飛行機、バスで酔う人の面倒を見る立場でした。それが、自分の怪我を忘れさせたのかも知れません。薬の世話にならずに済みました。

トヨタの車その2

2004-08-02 16:24:00 | Weblog
続きです。皆が一番心配したのは車の保険でした。誰かが聞くと入っていませんという。アパレル会社の社員のようですから、責任者が出てくるかと思えば、誰も来ず、保険はないという。タクシーとプロの運転手は怒り出しました。それぞれが名前を控え今後のことが心配しながら分かれました。後で判明したことは、一番前のタクシーのドライバーは鞭打ち1ヶ月の怪我、その次も鞭打ち二十日間。
小生と後ろの二人は怪我なしでした。約4or5日首と肩がこった感じはあり、一応病院で検査を受けました。3日後には海外に出掛けることを話しますと、後遺症は1週間後に顕著に現れる、旅行は禁止といいわたされましたが、如何してもと言うと薬を山ほど持たせてくれました。今でも、笑い話になっていますが、旅の前日、突然謝りに私の自宅へ彼女がくるというのです。無事だし、明日海外へ発つので忙しいからと断ると、如何しても行くと言う。おしえるのが面倒だからJRの駅まで迎えに行く。菓子折ひとつ持って謝りたい気持ちはわかるがかえって迷惑。帰りも送り皆から何やってんのと笑われる。若い社員のミスでも、社長が私なら一緒に出向くものをと社長に腹が立つ。保険は社長が入っていたので、後で、皆が安心するが、事後の折衝は保険やが全部。私の車はイクスィブ3年目ながら一万kも走っていない新車並。3年落ちで70万円弱。後ろの車はコロナで勿論廃車。それ以来新車に乗るのが怖くなりました。

トヨタの車

2004-08-02 16:02:00 | Weblog
数年前、事故に遭いました。携帯電話がこれほど普及する前のことでした。名古屋の盛り場デパートの前のバス停の信号待ちをしていました。突然後ろからショック。前の車に衝突、ボンネットがジャバラノようにつぶれて盛り上がるのを懸命にブレーキを踏んでいました。衝撃が終って皆が車外に出ると、私の後ろのその後ろに原因の車がいました。真っ青になって動けなくなっている若い女性がクラウンに乗っていました。左手に携帯電話が見えました。被害を受けたのは四台でした。如何したのと聞く以外言葉は驚きで、出ません。電話しながら走っていたのだろうと一人が言いましたが、彼女からの返事は無言でした。結論は携帯電話をかけながら走って、気がついたら前が信号で止まっていた。急いでブレーキを踏むところアクセルを踏んだとしか思えない衝撃でした。後ろと私の車は前後がぐしゃぐしゃに見事につぶれ、共にトヨタの車でした。前が四輪駆動の頑丈な車で形状は無傷、その前がタクシーでした。警察を携帯で呼ぶように言うが、彼女は放心状態。やむなく近くの公衆電話から110番しました。検証が終わり、皆で警察へ行くことになり、前の車2台が走行不能。前と後ろのつぶれた私の車に3人を乗せて近くの警察へ。そして後で、これで来たのか帰りは駄目ですよと驚いた警官に言われ、取引先のトヨタの代理店からレッカー車が来ました。ところが後できがついたのですが、私はデパートの古美術商と約束で、トランクには何百万円相当のやきものが何点か積んでいました。トランクはぐしゃぐしゃで空かず、工具で無理やり明けて安堵。桐箱はそれぞれ無傷で奥へ押し込まれていました。昼の事故で一段落したのは夜でした。大事なやきものを約束の店に置きねその日は帰宅しました。

中年で取った車の免許

2004-08-02 13:39:00 | Weblog
現在の住宅地へ移転して困ったことは、1時間に2本しかバスがないことである。生涯運転はしないで、何時も後ろに乗る人間などと、威張っていた小生であるが、車なしでは生活ができない。当時大学生だった娘と一緒に自動車学校へ入校した。これで話題になり、55才の時でした。中年の運転は普通より長くかかるというので恐れていたが、乗ってみると楽しいものであった。大学の期末試験が入ったせいもあるが、娘より一足早く免許証を手にすることができた。報告に自動車学校へ行くと、校長さんが一度お茶をご一緒したかったとコーヒーを馳走してくれた。皆、学科は何点取ったか楽しみにしていて待っていてくれた。万点だと期待していてくれたらしい。もじって、ひねった問題をひねりすぎて三問失敗97点で皆さんの期待を裏切ってしまった。
当時、受験したものは一人一問を記憶して帰って報告することになっていた。帰宅して問題をワープロで75問程記憶したものをプリントして届けた。今でもそれはその学校の語り草になっていると聞いた。教官に意地悪されたなどの話をよく聞くが、十分楽しんでの取得であったし、今でも、バックの車庫入れや縦列駐車は得意である。しかも、当時は半クラッチでS字クランクをゆっくり走ることは
難しいと言われていたのだが、これが好きであった。それは最初に当たった教官の素晴らしさが原因である。初日の2時間。この半クラッチ状態で2百メートル近い直線を何往復もする練習だけをしてくれた。これが卒業までエンストを知らずにクラッチ操作の上手さに繋がった。そして、車が好きになり、世間が広くなったのである。お陰で、今日まで無事故、無違反で来られた原因でもある。感謝感謝である。

3年振りに動かした車

2004-08-02 13:09:00 | Weblog
前回に書いた2台の車、マークⅡとコルサである
我が家の駐車場は門からアトリエ入り口へ通るスペースなのだが、今まで2台だったものが1台増えることで、奥に3年眠っていたマークⅡを移動せねばならない。皆が動くわけがないと言うのを、まず、バッテリーが効かない。チャージしてエンジン始動。すぐ涼しくなりクーラーが働いた。かなり奥までバック、続いてコルサ。友人が貸してくれたカルデイナ全部トヨタ製である。マークⅡが動いたのはやはり自慢である。日本の車の信用は莫大なものがあった。三菱だけが何故あのようなことになったのか不思議である。