ピーナッツの唄

毎日の出来事や、スポーツ観戦、読書や映画等の感想を中心に、好奇心旺盛に書いています。

ちょいといい話

2008-07-21 19:56:55 | 独り言
◎ 広島カープの天谷選手、先日はデーゲームとナイターの開始時間を間違えて、練習開始時間に一時間半も遅刻してしまった。当日は先発から外された上に、罰金を課されることになった。
そして球団は、その罰金で25日の横浜戦に「遅刻ゼロ運動」に取りくむ広島工高の無遅刻の生徒78人を招待する。じつにしゃれの利いた企画になる。当の天谷選手は神妙だが、総額30万を超える罰金は高い勘違いになった。
のぼり調子の広島球団、首脳たちのイキなはからいに感心した。

◎ 先日電車で帰宅する時、始発駅から乗車した小生は運良く座れた。4人席には他に高校生が3人座ってケイタイを操作していた。2つ目の駅で4~5人の高齢の女性たちが乗り込んできた。次の駅で降りる小生がひとりの方に席を譲って上げた。そして出口の方に移動していたら、小生のとなりに座っていた男の子も立ち上がり席を譲ろうとしていた。
最近は高校生、中学生の子どもの犯罪が相次いで起こり、教育の問題が取沙汰されている。しかし子どもたちは大人の(両親たち)背中を何時も見つめて育っているのだと思う。もう一度大人たちがしっかりした行動と生活ぶりを見せなくてはと思いました。
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バタバタのこと

2008-07-21 11:46:56 | 独り言
昭和は遠くなりにけり・・・・・オート三輪

昭和30年代、人力で引っぱるリヤカーに変わってバイクで引っぱってダッダッダッタ・・・・・。それがバーハンドルから、小型の丸いハンドルに変わった。運転しているおじさんは、相変わらずの薄汚れた半袖かランニングシャツ、擦り切れた作業ズボンに腰や首に手ぬぐいを巻いているが、どことなく誇らしげに運転している。雨の心配もなくなった「オート三輪」の登場だった。

そう「ALWAYS 三丁目の夕日」で、青森から上京してきた六子を上野駅に迎えにきた鈴木社長のあの車なのだ。カワいくて、小さくて、ソフトな印象を与え、屋根なしのバイクやリヤカーと違い、雨の心配もせずに仕事に専念できるのも大きな魅力だった。映画の最終シーンで、青森に帰る六子を見送って夕日を背に家族を乗せて疾走するオート三輪が実にカッコよかった!!。

昭和の30年代頃までは、日本の自動車生産は四輪車よりオート三輪のほうがはるかに多く生産されていた。全盛期は昭和37年(1962年)12万台の生産台数を記録している。排気量は300CC前後、350Kg ほどの荷物を積める軽三輪は街の人気者だった。何しろ小回りがきき、狭い路地だってスイスイ。わずかなスペースでUターンだって簡単、そして2人乗り。価格は23万前後で、当時の250CCのバイクよりやや高め、しかし四輪自動車の半額だった。
そして車庫証明不要、オート三輪免許でOK、農家、酒屋さん、電気屋さん、牛乳屋さん、食料品屋さん・・・小売店や小さな企業が競って買い求めた。

小生は当時は大阪に居住していたが、関西ではこのオート三輪を「バタバタ」と呼んだ。売り出しのキャッチコピーも「街のヘリコプター」。大阪に本拠を置いたダイハツが「ミゼット」と命名して売り出し、TVコマーシャルで大人気をとり、街に氾濫した。しかし30年代後半には四輪車が全盛期を迎え、自動車やトラックも順次大型に姿を変えていった。ようやく日本全体が復興の気運がでて来た時代の思い出のひとつであった。

かって勇姿を誇ったオート三輪。

              

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