今日のタイトルは、8.15の終戦記念日のタイトル「終戦日が半年早かったらなあ」を、
引用しています。
この戦争で、桁違いに犠牲者が出たのは、終戦前半年に集中していることに、
気付いたからなのです。
この半年にどんな重大な転機があったかを、前回まで私なりに分析して、
記事にしてきました。
今日は、終戦まで十日間を、日本の動き・連合国のうち米国、それとこの戦争に
本来関係なかったソ連が、日本にどんな影響を与えたかを、総括したいと思います。
日本が、公式に御前会議で、終戦のためのアクションを起こしたのが、6月22日でした。
しかし日本はここで大チョンボをします。
四月初めに、「日ソ不可侵条約」破棄を通告して来たソ連に、終戦の仲介を頼むのです。
一か月たって、7月26日連合国は、日本に対し、「ポツダム宣言」(降伏要求最終宣言)
を発します。
日本は、ソ連に仲介を頼んでいるので、期待して待つこととし、ポツダム宣言を
実質黙殺してしまいます。
返事をしないで、待ってくれるだろうと、安易に考えるほどの体たらくです。
アメリカでは、七月末二発の原爆の製造に成功しました。
開発責任者は、砂漠の実験ではなく、敵国に使ってみることを目論んでいました。
大統領に、一発目は京都にしたいと提言しますが、民間人が多いところは、
後に、国際的な批判を浴びる事になると、承認しません。
原発開発責任者は、「広島は、軍の設備がほとんどで、民間人は少ない」と、
嘘の進言をするのです。
大統領はそれを信じて承認し、結果8月6日原爆を広島に投下となるのです。
名刀を手にしたバカ殿が、人を切ってみたいと辻斬りをやるのに似ていませんか。
火事場泥棒を企んでいたソ連は、8月末頃対日戦線に、参戦する心算でいたのですが、
米国が、とんでもない爆弾を作ったことを知り、即参戦を決め8月8日、
日本大使館に宣戦布告をし、8月9日早朝、全軍が日本の前線に総攻撃を掛けます。
日本も米国に宣戦布告したとき、米国への通達より、真珠湾攻撃の方が早かったと
聞きましたが、ソ連は、大使館の周りの電話線を全部切断し、本土に通知出来ないように、
仕組んだのです。
八月に入って、米国による原爆は二発、ソ連の満州北部侵攻による戦死や
開拓団の民間人への強姦や殺人、シベリヤ抑留当初30万人としていましたが、
76万人に及んだと判って来たようです。
北方では、北方四島、更には北海道の分割統治も企んでいたようで、
これは米国の反対でかなわなかったが、米国は、代償として抑留者(捕虜として強制労働)を、
黙認したとの説もあります。
これだけ書いても、書き尽くした感は全く有りませんが、結構長くなってしまいました。
最後まで、お付き合いくださり有難うございました。
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