プロローグとして、クイズを出します。
苗字を許された時代、深田恭子さんと、浅田真央さんと
言う方がおられたとして、どちらが豊かな暮らしを、
されていたと思いますか?(答えは末尾に)
さて、前回の続きですが、
松田・梅田・桜田・杉田・など、田んぼの近くに、
木が植えられて、生活の中に、深く関わっていたことが、
解りますね。
また、田圃はその所有者が、畦道で隣との境界線を、
設けていました。
それによって、広田・太田・中田・小田・と苗字に付けて、
上下の格差とは、あまり関係ない、差別化していました。
これらの命名には、農地としてみた場合、木と抱き合わせの命名は、
畑にはなく、田圃のみですね。
広さにおいては、田圃と同様、畑でも広畑・大畑・中畑・小畑・
等ありますね。
こう見てくると、昔は苗字には、夢や希望・誇りりや自慢などは、
込めるものでは、なかったようですね。
一つ、逸話を・・・
戦国時代は、勝利者は敗者の財産を奪い、功績のあった武将に、
分け与えていました。
ある武将が、当該の殿から、ある国の土地を頂きました。
その区域には田圃も沢山あり、部下にも分け与えて、
相当余りました。
武将は、その土地を元々の土地で、米造りをしていた人々を、
小作人として使いました。
やがて、苗字を持つことを許された小作人たちは、
地主の名乗る吉田を頂いて名乗ろうとしました。
この武将は、頭脳明晰で額もあり、小作人たちを集めて、
「吉田はならぬが、𠮷田なら許す」と告げました。
小作人たちは、意味が解りません。
武将の説明はこうです。
「我々地主は、そもそも武士であるから、武士の士の下に、
口を付けた吉を使うのが正しいが、君たちはもともと、
百姓だろう、百姓は侍ではなく、土と関わってきたわけだから、
土の下に口を付けた𠮷が正しい。
小作人たちは、もともと漢字など読めないが、
言われたように書いて、届を出しました。
以後長い年月をかけて、地主には、ヨシダと名乗ってもよい、
と許可を得ているが、元々漢字など良く分からない、
家族や子や孫は、地主さまと同じ字を書いたりして、
明治に入って、少し漢字や苗字やを検討はしましたが、
出先機関の役所の担当者が、今ほど学が無く、
未だに乱れっぱなしの様ですね。
妙な苗字については、いずれもう一回、
書いてみたいと思います。
クイズの答え
深い・浅いは、土の層のことなので、土の層が深い方が、
土の量に比例して、養分が含まれているので、
単位面積当たりの収量は、多く成るわけですね。
当時は、田圃の広さで、年貢を取られていたから、
浅田家は,辛かったと思いますね。
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