月の綺麗な夜だった。
レストランからの帰り、雪はとあることを思い出した。
成績のことや聡美とのことで頭がいっぱいで、すっかり先輩にお礼を言うのを忘れていたのだ。
先輩にはノートも貸してもらったし、バイトの紹介までしてもらった。
なのにまだ何のお礼もしていない‥。
雪は自分の無礼を責め、携帯電話を取り出した。
先輩はあと一つテストが残っていると言っていた。でも何時に終わるか聞いていない。
雪はメールを送ることにした。
先輩、残りのテストはどうでしたか?
ノートにバイトまで本当にありがとうございました。休みに入ってから時間のある日はありますか?
ご飯でもご馳走させて下さい‥
何度メールの文章を打ち直しても、なんだか上から目線になってしまう‥。
しかしもうわけが分からなくなって、そのまま送信ボタンを押してしまった。
もうメールの文章を今さら悔いたって手遅れだと、雪は暗い路地を下を向いて歩いた。
すると後ろから何者かが付けてくるような気配がした。
振り返ってみたが、誰もいない。
辺りを見回すと、明かりの点いた窓から犬の泣き声が聞こえる。
物音は、あれのせいかもしれなかった。
雪はビビって損した、と再び歩き出した。
こういった夜道での神経過敏は、去年横山からストーキングを受けたときのトラウマだ。
路地裏から見上げた空は、ビルが折り重なった小さな隙間からしか見ることが出来なくて、月の光も届かない。
雪は切り取られた暗い空を見上げながら、先輩が送ってくれた時には気付かない恐怖を感じた。
そして先輩に対する感謝を、改めて感じた。
先輩が‥今年色々と私の面倒を見てくれたのは事実だ‥。
去年はひねくれた見方をしちゃってたよなぁ‥
雪は横山の件だって、健太先輩が青田先輩のせいじゃないと言っていたのに信じなかったことを思い出した。
それまでの悪感情から、そして怒りのあまり意地を張って彼のせいだと決めつけていたのかもしれない。
でも‥だからって潔く認めるには、なんか煮え切らない気もするし‥
雪と先輩との間には、横山の件だけではなく色々なことがあった。
その数々の記憶を並べてみると、やはり雪の心には先輩の黒い影が映り込むのだった。
雪は、これ以上深く考えこむことを止めた。
なぜなら青田先輩は、只の学科の先輩の一人にすぎないからだ。
先輩がどんな人であれ、上手く付き合うに越したことはないからな。
4年生の卒業までもう残り少ないんだし‥
雪はそれよりも聡美とのことの方が気がかりだったので、下を向いて考えていた。
すると背後から男が近づいてきて、雪の耳元でそっと囁いた。
「ねぇ~~」
路地裏に、雪の悲鳴が大きく轟いた‥。
秀紀と雪は、そのまま家まで一緒に歩いた。
部屋までの階段を昇る途中も、雪は秀紀の怪しげな素振りをずっと非難していた。
秀紀は秀紀で、バカに大きな声で叫んだ雪に文句を言った。
そうでなくても変質者と勘違いされて、通報されたことが何度もあるのだ。
秀紀は雪に、暗い夜道は彼氏に送ってもらえと言ったが、雪はその存在を否定した。
続けてこの間焼き肉の時に会った、八・二分けの男の子(太一のことだ)は彼氏じゃないのかと聞いてきたので、また雪は否定した。
「ふぅん‥あんた結構やり手だと思ってたけど違うの?」
秀紀はこの間、雪が外車で家まで送ってもらったのを目撃していた。
あの外車の持ち主が彼氏なんじゃないのかと聞く秀紀に、雪はどもりながら必死に否定した。
「な、なに言って‥!彼氏じゃないですよ!違いますから!ただの先輩ですよ‥!先輩!」
そのうろたえぶりに、秀紀は若干興ざめしたように「そんなにムキにならなくてもいいじゃない」と言った。
雪は先輩との関係を聞かれた時、条件反射のように慌てて否定する自分の反応を呪った‥。
気まずい思いをした雪は、話題を変えた。
大家さんが旅行に行っているという話だ。それは部屋を退去する連絡をした時に聞いたものだった。
秀紀はその話を聞いて、どうして雪が大家に連絡をしたのかと訝しがった。
その流れから、部屋を引き払うつもりだということを、雪は秀紀に告げた。
「色々あって‥また実家に戻ることになったんです」
秀紀は青天の霹靂に、少しだけ沈黙した。
しかしすぐに元のペースで、「そうなったらちょ~~っぴり寂しいかもね。うるさいのがいなくなるのはせいせいするけど」と皮肉った。
そして心に引っかかったワードを、思わず独りごちた。
「そっか‥実家か‥」
雪はその横顔に微かにいつもと違うものを感じたが、「シャワーは静かにね」という彼の言葉に、いつも通りムッとして別れを告げた‥。
シャワーから上がって携帯を見ると、先輩からメールが入っていた。
どうせ同じ科目なんだから。そんなに気を使わなくても大丈夫だよ。
もうすぐ夏休みだな。楽しんでな^^
雪はメールを読んで、若干拍子抜けした。
いくらテストが同じ科目といったって、サブノートまで貸してくれてアルバイトの紹介までしてくれて‥。
おまけに相手は学科の先輩だ。気を遣うに決まってる‥。
私のこと面倒くさいと思ってる‥?夏休みが始まったら、会うこともないのに‥
一度くらいはちゃんとご馳走しようと思ってたのになぁ‥。
けどメールの文章的にいちいち返信するような感じでもなかったし‥。
このままだと休み明けには、また気まずい仲に戻ってるかもな‥。
どうせ急に仲良くなった仲だし、もしそうなったとしても仕方ないか‥。
「‥‥‥‥」
そこまで考えて、雪は微妙な気分になったのだが、再び深く考えることを止めた。
代わりに携帯電話を手に取ると、アドレス帳に載っている数々の友人のメアドをスクロールした。
布団に寝転び、仰向けになって携帯を見る。
皆にもメール送らないとな‥。休みにも入ることだし‥
これまで奨学金のことでいっぱいいっぱいで、雪には皆のことを考えるゆとりが無かった。
休みに入ることで、雪にも少し余裕ができる。
ちょっとは皆に対して、気を遣わないといけないと雪なりに思ってのことだった。
雪は時間をかけてメールを打った。萌菜に、恵に、学科のみんなに‥。
勿論聡美にも送った。それは自然を装った、よそよそしい文章だったけれど。
同じ頃小西恵は、自室で期末課題の制作に励んでいるところだった。
先ほど雪から送られて来たメールに、口元に笑みを浮かべながら返信する。
”は~い!雪ねぇも夏休み楽しんでね~。あたしもこの課題終わったら‥
恵は送信した後、疲れた身体を伸ばすように伸びをした。
この課題が終わったら、待ちに待った夏休み。今年はヨーロッパへ旅行し、数々の美術館を巡る計画を立てている‥。
ふいに恵は、机の上に置かれた一枚のデッサンに目を留めた。
スケッチブックに描かれたそれは、青田淳のデッサンだ。
恵は溜息を吐きながら、なんとなくそれに陰影を足していく。
漫画に出てくる完璧な王子様‥。そんな人だと思ってたのになぁ‥
結局あたし一人カン違いなんかしちゃって‥。やっぱり現実は違うよなぁ。
恵の脳裏に、氷の面のような先輩の横顔が思い浮かんだ。
理想と現実のギャップに耐え切れず、恵は彼から手を引いたのだが、なんにせよ顔はタイプだ。
カッコイイから描き甲斐がある。
恵はペンを持つ手を動かし続けながら、雪と先輩の仲はどうなったのだろうと思いを巡らせた。
ペン先が雪の横顔を描く。
雪ねぇは多分‥気付かなかっただろうけど、合コンの日の青田先輩のあの反応はどう見ても‥
先輩から雪へと、ペン先は矢印を描いた。
あの時、幼い少年が示すような嫉妬を表す彼を見て、恵は少し心配になった。
そのことを雪に伝えなかったことに、幾らかの不安も抱えている。
恵は白い霞がかかるような心持ちで、ぼんやりと二人のデッサンを見ていた。
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<嵐の後>でした。
今回は少し落ち着いた話でしたね。そしてようやく雪3年の1学期が終わりました。
次回から夏休みですね~~!また新しい季節の始まりです。
ということで、次回<夏休みの始まり>です。
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