ちょっとしたアイデアが頭にキラリ~ンと浮かぶことがよくある。まるで自分のアイデアとは思えないような、自分がびっくりするようなアイデア!
自分で、わーお!と思うことがときどきある。
先日も、そっかー!!!!と思ったことがあったので、書いとこうと思います。
ただし、あっという間にまた違うアイデアが浮かぶのはいつものことなので、そんな感じで読んでください(^^ゞ
Schilkeくんと格闘しつつ、どうにか仲良く心を通じ合わせたく、いや、もしかしたら征服しようとしてるのかもしれなく、そういう心だからイケナイのかもしれないけど、とにかくSchilkeくんを自分のマシーンにしたいと七転八倒する日々。
そうしてる中で…
「息のスピード感」というイメージが出てきた。例えば紙飛行機とか、バットやラケットをスイングする感じとか。ひゅーんとかびゅーんって感じ。
で、この「スピード感」というのが絶妙で、「スピード」とは違う。これをスピードと考えてしまったり、あるいは息を「入れる」みたいに考えると、スピード感からむしろ遠ざかり、ひゅーんではなく、ギュ~とかオーリャーとか、パワーはかかるがスピード感が足りない感じになる。
「スピード感」はあくまで「感」が大切だ。つまり無駄に身体の中の「圧」が高くない、自然な息の流れ。
んで、この「スピード感」は非常に良かったりもするのだが、どうもこれだけではうまくいかない。
そしたら別の日、頭に「ド」とか「レ」とか…なにかしら音の名前が出てきた。
そういえば、楽器を吹く時には絶対音の私は絶対音で「ド」とか「レ」とか思って吹いている。いや、吹いていた。
ところが、そう言えばここのところはっきり「ソ」とか「ラ」とかじゃなくて「ヌォ」とか「リャ」とかハンパは言葉が浮かんでる気がしてきた。特にシャープやフラットの音となるとこの傾向はさらに強まり、自分でもあら?なんていってるっけ?みたいな。
そう、「母音」が曖昧になっているな!!と。
で次の朝、早速試してみることにした。
きちんとクリアな「母音」を発音してみようとする。最初は何とも変な口の中だったなぁ…と思い知らされる感じ。これで響こうって無理でしょ!と思った。
「母音」をクリアにイメージできてくると、今度はバリエーションを考えたくなってくる。
あ~これでいろんな「喋り方」ができるじゃなーい!!!
なんだか嬉しい気分になってきた。
でも、これでもまだ何だか不十分だ。息とのマッチングが今ひとつ。この2つのアイデアがどうしてもどちらかが優勢になって、うまくできない。
というわけで、グルグルしていたもんだからマウスピースを中川モデルにしてみたりしたんだけど、
またもあるときまた新しいビジョンが浮かんできた。
「弦楽器でいうところの『ボーイング』が『息』で、『左手』が身体(口の中も含めて)」
弦楽器でいう左手って、音程を作ったりビブラートをかけたり。
なーんと!なるほどー!!!
自分は今まで、弦楽器で言うところの右手と左手をごちゃ混ぜにイメージしていたってことか?!!!
音程は身体の方で作るものなのに、息で上や下の音を出そうと頑張っていた!
弦楽器では弓を出したい音のスピード感や雰囲気に合わせてどんな風に動かすか、がとても大切だ。
フレーズのスピード感とかは息のスピード感にかかっているのに、音を出すのに必死で力ばかり入ってしまったり。これじゃ、大きな音を出したくて、弓を弦にギーーっと押し付けてるのと一緒だ。
音が出る瞬間、これはとっても大切だ。弦楽器で言えば、弦の上に弓をのせ、無駄に弓を握り過ぎたりせず、腕の重さを適切にかけて横に引いてあげれば、適切な出だしを伴って音が出る。
ラッパでもきっと同じ。唇と息の接点。この瞬間を大切にしなくちゃいけない。無駄に息のスピードを上げて唇に激突させれば、弓を力いっぱいガギーッと衝突させたりしたのと一緒で、音が適切には立ち上がらないだろう。息も弓もすぐにスッポ抜ける。
音の高さも身体(左手)が作るのだとしたら、ハイトーンだからと息ばかりやたら張り切って圧力かけてみたところで、何の事だったんだか…と思えてきた。自分の身体の方で、適切にその音が出ている状態を作り、そしてそのこととは別にいいボーイングで弾いたらいいって思えてきた。
ここで、今までの癖がいろいろ邪魔するわけだけど、そこをスッキリさせていくのが練習じゃんか!
こういう風に弦楽器と比べて考えてみたら、やたらと自分の中がスッキリしてきた。
今まで、「どうして???」「なんでこうなっちゃうんだ?!」という風に思っていたことも、そりゃそうだね!と原因と結果みたいなのがクリアになったので、じゃあ次にはこうやってみよう!というアイデアがスッキリと浮かぶようになった。
というわけで、そういうビジョンが頭にただ今絶賛浮かんでるところです。
で、ここで…
これはひょっとしたら、Schilkeだからそういうイメージなのだろうか???
バックを吹いていたころには、こういうビジョンは浮かばなかった。どちらかと言うと、バックのときは「うた」のイメージとほぼイコールで、自分が「歌って」いれば、楽器から出てくるって感じ。
ここでいう「うた」ってのは、いわゆる「心を込めましょう」というときの「歌いましょう」とは違って、本当にフィジカル的に歌うという行為に近いという意味。
で、私としてはSchilkeでも歌えばいいのではないか?と思っていた。もしかしたら、歌えばいいのかもしれない。ところが自分ではどうしてもSchilkeで歌えない。何だかイコールにならないのだ。あまりうまく説明できないけど、Schilkeの方が息が必要なのか何だかわからないけど、歌おうとすると息を持っていかれてしまって、身体がクローズしてしまい、結果的に歌うよりは力むになりやすい。もっとパワー(呼吸筋のね)があればいいのか?と思ってみたり。とにかくSchilkeで思いの丈を歌うというのは、私には夢のようであり、それにはどうしても息が足りない感じがしてならないのだ。空間が足りないって感じ。
でも、弦楽器的なビジョンだと、結果的に求めているモノに少し近くなる。歌うよりは直接的でない、といえばそんな気もするけど、弦楽器で思いの丈を奏でる人がいーっぱいいるんだから、何かをうまく変えていけばできるはずだ!!
はたして…ここで、弦楽器的ビジョンと歌う感覚はどう違ってるんだろう?ということがふと気になる。
強いて言えば…スピード感だろうか??
歌の方が、スピード感が若干遅くても歌えるかもしれない。「支える」とか「細く出す」とかそういうイメージが使えるところをみるとそうかもしれない。
弓の方が、よほどのピアニシモのロングトーンでない限りはある程度のスピード感を常に感じる。
そうかもなー。
書いてる間に、ビジョンがよりスッキリしてきた。
Schilkeの方がバックよりも若干息のスピード感が必要なんだろうか?バックの方が息のスピード感よりも圧力とか支えに対応してるのだろうか。
このへんが、もしかしたらバック吹きとSchilke吹きに分かれるってところのポイントなんだろうか?!
まあまだ実験中だけど、そんな風な考えが浮かんでる今日このごろです!
自分で、わーお!と思うことがときどきある。
先日も、そっかー!!!!と思ったことがあったので、書いとこうと思います。
ただし、あっという間にまた違うアイデアが浮かぶのはいつものことなので、そんな感じで読んでください(^^ゞ
Schilkeくんと格闘しつつ、どうにか仲良く心を通じ合わせたく、いや、もしかしたら征服しようとしてるのかもしれなく、そういう心だからイケナイのかもしれないけど、とにかくSchilkeくんを自分のマシーンにしたいと七転八倒する日々。
そうしてる中で…
「息のスピード感」というイメージが出てきた。例えば紙飛行機とか、バットやラケットをスイングする感じとか。ひゅーんとかびゅーんって感じ。
で、この「スピード感」というのが絶妙で、「スピード」とは違う。これをスピードと考えてしまったり、あるいは息を「入れる」みたいに考えると、スピード感からむしろ遠ざかり、ひゅーんではなく、ギュ~とかオーリャーとか、パワーはかかるがスピード感が足りない感じになる。
「スピード感」はあくまで「感」が大切だ。つまり無駄に身体の中の「圧」が高くない、自然な息の流れ。
んで、この「スピード感」は非常に良かったりもするのだが、どうもこれだけではうまくいかない。
そしたら別の日、頭に「ド」とか「レ」とか…なにかしら音の名前が出てきた。
そういえば、楽器を吹く時には絶対音の私は絶対音で「ド」とか「レ」とか思って吹いている。いや、吹いていた。
ところが、そう言えばここのところはっきり「ソ」とか「ラ」とかじゃなくて「ヌォ」とか「リャ」とかハンパは言葉が浮かんでる気がしてきた。特にシャープやフラットの音となるとこの傾向はさらに強まり、自分でもあら?なんていってるっけ?みたいな。
そう、「母音」が曖昧になっているな!!と。
で次の朝、早速試してみることにした。
きちんとクリアな「母音」を発音してみようとする。最初は何とも変な口の中だったなぁ…と思い知らされる感じ。これで響こうって無理でしょ!と思った。
「母音」をクリアにイメージできてくると、今度はバリエーションを考えたくなってくる。
あ~これでいろんな「喋り方」ができるじゃなーい!!!
なんだか嬉しい気分になってきた。
でも、これでもまだ何だか不十分だ。息とのマッチングが今ひとつ。この2つのアイデアがどうしてもどちらかが優勢になって、うまくできない。
というわけで、グルグルしていたもんだからマウスピースを中川モデルにしてみたりしたんだけど、
またもあるときまた新しいビジョンが浮かんできた。
「弦楽器でいうところの『ボーイング』が『息』で、『左手』が身体(口の中も含めて)」
弦楽器でいう左手って、音程を作ったりビブラートをかけたり。
なーんと!なるほどー!!!
自分は今まで、弦楽器で言うところの右手と左手をごちゃ混ぜにイメージしていたってことか?!!!
音程は身体の方で作るものなのに、息で上や下の音を出そうと頑張っていた!
弦楽器では弓を出したい音のスピード感や雰囲気に合わせてどんな風に動かすか、がとても大切だ。
フレーズのスピード感とかは息のスピード感にかかっているのに、音を出すのに必死で力ばかり入ってしまったり。これじゃ、大きな音を出したくて、弓を弦にギーーっと押し付けてるのと一緒だ。
音が出る瞬間、これはとっても大切だ。弦楽器で言えば、弦の上に弓をのせ、無駄に弓を握り過ぎたりせず、腕の重さを適切にかけて横に引いてあげれば、適切な出だしを伴って音が出る。
ラッパでもきっと同じ。唇と息の接点。この瞬間を大切にしなくちゃいけない。無駄に息のスピードを上げて唇に激突させれば、弓を力いっぱいガギーッと衝突させたりしたのと一緒で、音が適切には立ち上がらないだろう。息も弓もすぐにスッポ抜ける。
音の高さも身体(左手)が作るのだとしたら、ハイトーンだからと息ばかりやたら張り切って圧力かけてみたところで、何の事だったんだか…と思えてきた。自分の身体の方で、適切にその音が出ている状態を作り、そしてそのこととは別にいいボーイングで弾いたらいいって思えてきた。
ここで、今までの癖がいろいろ邪魔するわけだけど、そこをスッキリさせていくのが練習じゃんか!
こういう風に弦楽器と比べて考えてみたら、やたらと自分の中がスッキリしてきた。
今まで、「どうして???」「なんでこうなっちゃうんだ?!」という風に思っていたことも、そりゃそうだね!と原因と結果みたいなのがクリアになったので、じゃあ次にはこうやってみよう!というアイデアがスッキリと浮かぶようになった。
というわけで、そういうビジョンが頭にただ今絶賛浮かんでるところです。
で、ここで…
これはひょっとしたら、Schilkeだからそういうイメージなのだろうか???
バックを吹いていたころには、こういうビジョンは浮かばなかった。どちらかと言うと、バックのときは「うた」のイメージとほぼイコールで、自分が「歌って」いれば、楽器から出てくるって感じ。
ここでいう「うた」ってのは、いわゆる「心を込めましょう」というときの「歌いましょう」とは違って、本当にフィジカル的に歌うという行為に近いという意味。
で、私としてはSchilkeでも歌えばいいのではないか?と思っていた。もしかしたら、歌えばいいのかもしれない。ところが自分ではどうしてもSchilkeで歌えない。何だかイコールにならないのだ。あまりうまく説明できないけど、Schilkeの方が息が必要なのか何だかわからないけど、歌おうとすると息を持っていかれてしまって、身体がクローズしてしまい、結果的に歌うよりは力むになりやすい。もっとパワー(呼吸筋のね)があればいいのか?と思ってみたり。とにかくSchilkeで思いの丈を歌うというのは、私には夢のようであり、それにはどうしても息が足りない感じがしてならないのだ。空間が足りないって感じ。
でも、弦楽器的なビジョンだと、結果的に求めているモノに少し近くなる。歌うよりは直接的でない、といえばそんな気もするけど、弦楽器で思いの丈を奏でる人がいーっぱいいるんだから、何かをうまく変えていけばできるはずだ!!
はたして…ここで、弦楽器的ビジョンと歌う感覚はどう違ってるんだろう?ということがふと気になる。
強いて言えば…スピード感だろうか??
歌の方が、スピード感が若干遅くても歌えるかもしれない。「支える」とか「細く出す」とかそういうイメージが使えるところをみるとそうかもしれない。
弓の方が、よほどのピアニシモのロングトーンでない限りはある程度のスピード感を常に感じる。
そうかもなー。
書いてる間に、ビジョンがよりスッキリしてきた。
Schilkeの方がバックよりも若干息のスピード感が必要なんだろうか?バックの方が息のスピード感よりも圧力とか支えに対応してるのだろうか。
このへんが、もしかしたらバック吹きとSchilke吹きに分かれるってところのポイントなんだろうか?!
まあまだ実験中だけど、そんな風な考えが浮かんでる今日このごろです!