ゆこちんのトランペット

トランペット奏者 藤井裕子のコンサート情報、トランペット談義のつもりが…こぼれ話や大きな声では言えない話も…毎日更新中♪

人間の価値、子どものオーケストラ、指導、子どもの力・・・のこと

2023年01月13日 12時30分23秒 | 音楽&トランペット&レッスン
こんにちはー!!

ちょっと真面目なお話を一つ行こうかと!!

私は指導の仕事を長年してきていて、最初の頃は「こう教えれば出来るようになる」みたいな感覚があって、実際「成長したい!」「上手くなりたい!」みたいな目標に対して、なにがしか効果を上げてきたと思うし、今も合奏などではいろんな成果を上げられていると自負できる部分もあったりはする。

でもここ数年、いろんなことを考えさせられているなーと思う。

子どもが伸びないと、自分の指導力が足りないんだ、、、自分が出来てないんだ、、、と思って、あれこれ調べてみたり、

自分がちゃんと出来れば、それが生徒の見本となって自ずと生徒が伸びるんだろうから、それが出来てないせいだ、、、もっと頑張らなくては!と思ったり、

そもそも「教える」とは何なんだろう?とか、

どうなっていればいいんだ?とか、

奏法における「正解」とか、人としての「正しさ」とか、音楽の「正解」とか、、、

そんな「正解」は「ない!」と思っていながらも、どこかで「正解が自分だけ分かってないのか?」と思ったり、、、

そんなグルグルがたくさんあったと思うし、何かしら「結果」が出れば、ホッとして「ああ、上手く行って良かった」と思うし、上手く行かなければ「あああ、ダメだな・・・」と成果をあげてる指導者との力の差なのか・・・と凹んでみたり・・・


楽器が上手く演奏できる、そういう基礎を与えることが出来れば、あとは勝手に育てばいいわけだから、それが出来るまではガッチリ教える、、、そういうことなのかな?みたいに思ったり。

その反面、自分ではそのことはあまり腑に落ちてなくて、「なにかこういう風にやりたい」というモノが先にあって、そのための演奏技術なんじゃないか?と思ってるフシがあって、アタマと心が綱引きをしているような、、、


そんな感じだから、自分に軸がないなーと思ったりして、なかなか苦しい感じがあったと思う。
若い頃は逆に言うと、根拠のない自信というか、ナゾにバッチリ軸があって、「私がやってることは、これで良いんだ!」という、そういう感覚があったんだよね、、、それが果たして本当に良いかは、分からん、、、ただ「軸」がある分だけ周りがどう言おうとどう見られようと平気だったから、気持ちは全く楽だったなー。

あー、、、今回もいろんな要素が絡まったまま書いているから、ちょっと読みにくいかもしれないけど、ワタシのブログを読んでくださってる方はすでに慣れてる(笑)と信じて進むことにする!


そんなわけで若干軸がブレブレのフジイだけど、先日ハッキリ気が付いたことがいくつかあった。

まず、、、

まだオーケストラの経験が少ない子どもが合奏に参加して、もちろんまだ合奏経験も少ないしトランペット歴も短いわけで、いろいろまぁこれからな部分があるわけだけど、

私が見てて、「あちゃー、、、そこ、それじゃオカシイって気が付かないもんか・・・」ってところがまぁ、たくさんあって、そりゃ合奏の中で捕まるわけですよ😓

それを「教えなきゃ」って私の中では思うワケ。

同時に「いやいや、時間が経って経験が増えて行けば自ずと分かるでしょ?今はまぁ一緒に『吹く』ってだけで良いじゃない?」って気持ちもあるわけ。

あんまり言って、イヤになっても困るし。

でも、ひと昔前の子どもはそこで、「ここはさー」と指摘したところで、「あ、そうか!」ってなるだけで、特に委縮するとかイヤになるとかはなかったわけだけど、今はあれこれ言うと「できてない自分はダメなのか?」とか「こんなにいろいろ言われるなんてヤだな」となったりして、そこも難しい。

そしてどこかで「言えば分かる、言えば出来るだろう」という気持ちがワタシの方にもあるってのも否めない。一緒に吹けば気が付くんじゃないか?とかも思う。でも、本当はそんなすぐに分かるってのは、たくさんの経験があってこそであって、最初は全く分からないに決まってる、、、決まってるのに、ワタシがそこを忘れかかってる、、、いや「焦って」見落としてるんだな、、、

それは、同僚の目を気にしてるって部分だな、とあとで気が付いた。

「ウチのパートはちゃんと指導してるけど、そっちはダメね」と言ってるかのように感じるから、それに焦ってるんだ、きっと。これは自分の受け取り方の問題だ。

実際、コロナ禍にあって、ちょっと体調に問題があればレッスンに来ることが出来ないし、またコロナ禍になってからは何となくいろんなモノの優先順位が変わったようにも思う。

こういう「自分たち」が活動の主体で、活動する自分たちがいるからその団体ってモノが存在する、というモノ

そういうモノを、何か「入れ物」と勘違いしている、いや大人が勘違いさせている

それが激しくなったように思う。

子どもって、本当は1人1人いろんな子どもがいるわけで、、、

私もこの前ハッとしたんだけど、「みんな違って良い」とかそんなんじゃなくて、「みんな違わなくてはいけない」って。

「みんなで一緒に」とか「みんな同じく」なんてのが今の中心でしょ?

みんなと一緒に出来ることが大事、みんなと一緒じゃないとオカシイ人、、、みたいな。

それでいて、勉強(学業成績)だけは「人を出し抜く」感じがめちゃくちゃ強いから、激しく矛盾するわけだけどね。

みんな『違わなくてはいけない』

『違わなくてはいけない』・・みんな違うと言うからこそ、学びがある。みんな違うんだ!!ということを理解した上で、その上で上手くやって行くにはどうしたら良いか。

上手くやって行くってのは「うまいことやる」っていう上手くやるじゃなくて、みんな違う、それが当たり前の世界であっても、誰も困らずに生きていくにはどうしたら良いか?という意味。困ってる人が困らなくてもいいようにできる場(社会)をどうやったら作れるか、、、

そういう上手くやって行く力ってのが、「生きる力」ってヤツじゃないかと、「大空小学校初代校長」の木村泰子さんのお話をあれこれ聞いて行く中で、ようやく彼女が訴えてることの意味が理解できてきて、それでハッとしたわけよ。何回かお話を(動画で)聞いただけでは、実は全く意味が分かってなかったんだな・・・と。なんか「指導力」の話に思ってたフシもあって、そうだとどうして泰子さんのような考えになるのかが、繋がって見えてこなかった。

それがパッと一筋見えてきて。(と言ってももっと学ぶとまた全然違ってくると思うが)

子どものオーケストラで考えると、

子どものため、のように見せかけた「オトナのため」の指導やなんかがいかに多かったか、、、

これが出来ないと困るよ
お客さんはお金を払って見に来るんだから、それに応えなきゃ
もっと上手く、もっとちゃんと
〇〇ちゃんは上手い、〇〇ちゃんは下手くそ
〇〇ちゃんは、家でもたくさん練習して偉い

そういう、何か問題でも?みたいなことが全部本当に子どものオケに必要なことだったのか?と問わなくちゃいけないってことにも気が付いて。

子どもが何か素晴らしい音楽に触れて、好奇心とワクワクで練習して、その道筋の手助けを大人が出来たりするなら、良いと思うし、

大人が正解を持ってるわけじゃない、大人だって分からなくて迷子になったりしてる、、、それでも頑張ってるし、一生懸命生きてるし、そしてそれもまた人生であって善悪など何もない、ということを見せてあげられたら、その方が希望になるかもしれない

人は正解に達するべきだし、大人は正しいことが出来てるし、ちゃんということを聞いてやれる人は素晴らしく、誰もがちゃんとやるべきで、それが出来てない人は人として価値が低く、素晴らしい演奏ができる人は努力をしているわけで評価されて当たり前!、、、

それって本当なのか?
もしそうなら、ホントに生きづらい世の中なんじゃないか?

それを「正義」にしてるから生きづらさを抱えた人がとっても多くなってるんじゃないの?


大人は試行錯誤が多かった分、子どもよりは経験が多いと思う。
だけど、本当の正しいなんか知らないよ。
つか、「本当の正しい」なんて、知ってると思ってる人はどうかしてると思うわ。お釈迦様ですか?ってのね。

100年経ったら、今正しいと思ってることなんか、真逆になっててもなんらおかしくない。国が違ったら常識も違う。

例えば吹奏楽コンクールなんか見たら、すっごく分かるでしょ?

スッキリバーンと鳴らしてるのが良い、って時代があったり、ソフトな響きが全国大会のトレンドなんて年があったり、、、

こういうのは「正解」とか「正しい」じゃなくて「トレンド」だよね。
だから、「そうじゃない」人やそうじゃないモノがあって、当たり前。むしろそうじゃなくちゃー。だって、人はみな違うべきなんだから。

違うからぶつかりまくれ!!ってんじゃなくて、違うのが当たり前なんだから、それでどうやったらみんなが快適に生きられるか、困ってる人がいたら、それを余力のある人が助けることが出来れば、それが良いってこと。

経験値が少ない子が上手くできないのは当たり前。

そしたら、その子が困ってないか?を見てあげて、寄り添えるのが大切なことであって、

「この子はできてない!」
「私は出来てるのに!!」
「努力が足りない!」

とか言ってんじゃー、それは世の中としてはとっても生きづらいってことでしょ?

いやいや、それが現実だ!

なんていうかもしれない。それは「そういう教育を受けて来た我々」の作ってしまった社会であって、それが良い社会ですか?って話じゃんか?

強いモノが正義で、弱いモノは悪。

これを全力で肯定できる人っている?絶対人前では逆に言うでしょ?

でも今やってる教育って、まさに「強いモノが正義」を教え込んでるってことじゃない?

だってさ、もっとちゃんと!もっと上手く!!って言って、それが出来てれば「素晴らしい!」ってんだからさ。

自分がだれかに強要された(暗黙、無意識レベルでも)んじゃなくて、自分自身が「なんて素敵なんだー!!あれをやりたい!!」って思って、進むならそれはどんどんやったら良いヤツ!ワクワクを止める権利、誰にもない!

でも、「ちゃんと出来てなきゃいけないんだ・・・(だから自分はダメだ)」と思いながら、努力して頑張ってって、でいったい何を目指してるんだろう?
いや、なにを目指させてるんだろう?

子どもの問題じゃない。大人の問題。

我々が受けてきた教育はそういうモノだったと思うけど、それでもまだある程度「自分は自分」っていう感覚があった時代だったから、それでも良かったと思うの。

でも、だんだんそれが消えてきて、それで「正義」が押し通されると、シンドイ人も増えるんじゃないか?

それに耐えることが出来て頑張って来れた人は、正当な成果なんだから文句ある?ってなるわね。でもそれって、「やれる環境」があったとか「やれる能力があった」から、って部分もあるじゃない?

下手だから、出来てないから、そんな人と一緒に練習する時間がもったいない、、、

結構なパワーワードだわね。。。


それと、そうそう!その経験値の低い子どもにね、ワタシもついついあれこれ何とか気が付くようにと、面白くなるように説明するわけだけど、それでも子どもは敏感だから、「あー、、、また文句言われた」って思うし、こっちの「注意してる」という意図は簡単にバレるわけで、、、

ホント良くないね。

我慢できずに、何か自分で作ってしまってるプレッシャーや焦りに耐えられなくて、言っちゃうわけよ、「良かれと思って」。

ホントなら、もっと半年とかゆっくりと時間をかけて、待ってあげても良いんだし、なんなら子ども同士で、そういうことが教え合えたりする環境を作ったら良いのに、、、手間を惜しんでるってことだよね、、

それにさ、結局大人同士でも腹割って話しができないなら、どうして「子ども同士本音で語り合いなよ!」なんて言える?

きっとたわいもないことなら楽しくお話できるだろうけど、本当に困ってることとか、本質的なところなんか、安心で安全なところでなくちゃ言えないよね。。。

ひょっとしたら家族にだって言えてないかもしれない。いや、家族の方が言いにくいか💦

そういうのをやってる姿(つまりは本当に信頼して腹を割ってる、、、みんな違うんだから、言ってみたら誰かにとってはすぐに解決できることかもしれないんだから)を見せることが出来ていれば、「ああ、大人になるとこういう風に助け合えるんだ!」と思えて、楽になるだろうけど、

みんなが「自分は立派であろう」とすればするほど、息苦しいかもしれない。

結果的に「あの人は立派だ!」ってのは、良いじゃない?!凄く良いじゃない?それと「立派であらねばならない」と思うのは違うって話ね。

あー、子どもってさ、ほっておいて、だけどよーく見てたらさ、ちゃーんと結構やってるんだよね、大事なこと。

この前も、言わなくても次困るな、と思うようなことはちゃんとパッとメモしてんのよ。

それを見てて、あー子どもってホントは凄いな!って思ったんだけど、

ついついそのあと、取りこぼしてるのを見て、「これもやっときな!」なんて余計なこと言っちゃってさー、、、そうすると絶対自分で気が付いて自分でやったこととは違って、人に言われたからやったことだから、絶対続かないし楽しくないよね。

その場ではもちろん素直にやるよ。

だけど、それが長い目で見てタメになったか?って言ったら、絶対違うね。。。

ホント、失敗したなって思ったわ。

そういうのが「失敗だ」と気が付くことが出来るようになったのは、成長だなと思うけど、こういうことをもっとちゃんと「子どもにとって大切なのは何か」ってのをちゃんと軸を持っていないとダメだなと思う。


あとね、

『当事者意識』ってのが、物凄く大切だっての。

これはホントにそう思うし、それでいて、出来てないところがたくさんあるなと思う。

「同情」とかそういうのとは違うのよね。

「じゃー自分に何ができる?」ってところ。それね!

よーくさ、何かあれこれ計画したり提案したりしたときに、批判とか意見とかは言うけど、それでじゃあどうしたら?となったら知らんぷりってことあるんだよね。

「当事者意識」があるとしたら、それじゃー単に話がとっ散らかるだけで困るよね、と気が付くはず。

出来ない、困ってるって人がいたときに、「はー、、、この人ダメ」って言うのは簡単だけど、じゃ―「自分に」何ができる?ってことが無けりゃ、そのことこそきっとダメよね。

別に隣に居るってだけでも、もしかしたらその「困った」は少し改善されるかもしれないし、話を聞くってだけでもいいかもしれないし、「あの子、困ってるよ」と誰かに助けを求めるってのでも良いんだろし、「おはよー」って笑顔をかけてあげるのでも良いのかもしれない、、、

そういうことをやれる社会がきっと生きやすい社会なんだろう。

そういう社会を担う子どもを育てる(見守る)、そして大人だってまったく発展途上なんだから、一緒に学んで行くってのがさらに一生発展していく人生てのなんだろうな、、、

これは、まだ学んだばかりのことで、「体得」出来るほどに身になってない。

「知る」ことは大切だけど、知るのと理解できるのと「できる」のは次元が違うから、日々精進だな!!!

子どもたちよ!!大人だって、偉そうにしてるし出来てるみたいにやってるけどね、ホントは全然まだ発展途上なのよ!

それでも死ぬまであれこれチャレンジしながら生きるのさ!!

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