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門 2012




先日ロンドンで娘のお友達のお母様とお茶をした。

彼女は某カレッジの医学博士で、座ってお茶を飲む時間もないほど忙しい人である。フリータイムなど全く望むべくもないが、もし自分のために小一時間自由時間があるとしたら、音楽を編集したり、サングリアを飲みながらくだらない映画を見たいわと言った。


「(専業主婦である)あなたは毎日何をしているの?」

と、きらきらした瞳を向けられた。
受けるのがすごく苦手な質問だ。

専業主婦というのは主に「カオスを元に戻す」「ほころびを修繕する」など、マイナスをゼロの状態に戻すことを中心に活動することで、何かを生産するタイプの活動とはちょっと違う...たぶん。
家庭内でも社会においてでも、ちょっとした不具合を毎日地道に修理していくのは重要な仕事だと思うのだが、人間、生産活動をしていないと内心に忸怩たるものを感じるのはなぜだろう?これこれを生産している、とカッコつけたくなるのはなぜだろう?「あなたが何者であるかは、あなたが何を生産したかによって決定する」からか?

カオスを元に戻す「アイロンがけ」や「カルキ取り作業」以外には、わたしの場合は、持病のある飼い犬の世話とか、お菓子を焼く、2日かけてシチューを煮込む、留守番が必要、娘のお迎え、学校のボランティアや地域の手伝い...
常に家のメインテナンスをしていると堂々と言うほど家は大きくなく、手のかかる小さい子どももおらず、ボランティアは毎日あるわけではなく、敢えて日々の仕事を細かく数え上げれば数え上げるほど内容が薄くなるような気がし、いったいわたしは毎日何をしているのか、何もしてないやん、あははは

「...特に何も」

という感じの返答になってしまう。

「特に何も」と言った後は寂しい。せめてブルージュで前に受け持っていたカレッジの講師を続けていれば...そしたら「カレッジで教えているの」以上、説明終わり、なのになあと思う。それにわたしの虚栄心を満たしてくれるし(笑)。

「綺麗にしているのが仕事」と言ってはどうだろう?もちろん大ボケとして(笑)。
あるいは明日から狂ったようにピアノを弾いたり、フィットネスに通おうかしら。
いやそれよりも堂々と「家事やボランティアで結構忙しいのよ」と言えるほど、目の前の仕事に一所懸命取り組む人にわたしはなりたい。


医学博士は
「分かった!何もしないからあなたはその若さを保ってるのよ!」と診断を下した。

ストレートにアホと言われた方が気が楽なのである(笑)。



「彼は後を顧みた。そうして到底又元の路へ引き返す勇気を有たなかった。彼はまえを眺めた。前には堅固な扉が何時迄も展望を遮っていた。彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった」(夏目漱石「門」)


わたしは宗助のように知的でもなく、罪悪感に苛まれているわけでもないが、同じように門を通る人でもなく、通らないで済む人でもないと思う。それで不幸ではない。もしかしたら不幸なのかもしれない。不幸ってなんだっけ?分からない。

今後もしばらくはわたしはこれと言って何もしないだろう。いつかは門を通るかもしれないし、通らないことを小さな疼きとして胸にし続けるのかもしれない。
それまでは門の下で日が暮れるのを眺めるのである。それも楽しい...ああこうやって「通らないで済む人」になっていくのかなあ。

それもかなりいいような気がする。




(上の「門」からの引用、「彼は後を顧みた。...」に関して、これを「門を通る」とはすなわち「やりたいことにチャレンジ」とか「生産的な仕事をする」などという意味でだけ解釈されるとしたら、それはわたしの文章の劣悪さゆえなので、追記(11/23)。「門を通らない」ことを「どこまでも世間を出ることが出来ぬ」(夏目漱石「草枕」)という意味で考えてはどうだろう)
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