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ホリデイ・シーズンのはじまり




昨夜は英国では各地でクリスマスツリーの点灯式が行われた。11月第4金曜日。

わたしはパーティに出ていたので現場を見ることができなかったが、商店街や並木道のイルミネーションも一斉に灯火され、家族連れや観光客が一目見んと集まり、屋台や移動式遊園地が出、ホリデイシーズンの幕開けとなった。

そういえば米国でも感謝祭(11月第4木曜日)翌日からクリスマス解禁となり、セールが始まったり、いよいよ「メリー・クリスマス」を挨拶に使ったりが可能になる。英語文化圏ではどうもこの11月第4週末というのがシーズンの節目であるようだ。

まあ、もう1ヶ月前ですよね...


道中ラジオを聞いていると、某番組でリスナーから「今、ドイツのケルンのクリスマス市に向かってるの!とってもエキサイティング!」というメッセージが届いた。が、パーソナリティーは意地悪く「...水を差すようで悪いんですがね、ドイツのクリスマス市は来週からですよ...ゲラゲラ」

英国、米国では11月第4週末、ドイツでは11月最終から12月第1週末辺りなのか...


ベルギーやフランスなど、サンタ・クラース/サン・ニコラ(サンタクロースの原型となった子どもの守護聖人)のお祭りがある地域では12月6日にサンタ・クラースがプレゼントを持って来てくれてからのクリスマスシーズン突入になる。だから12月第1週末から第2週末付近からか。家庭でツリーを飾るのもこの日以降だ。


欧州でも国により、キリスト教の宗派により、シーズン突入のタイミングが違うのがとてもおもしろいと思った夜だった。
暗闇に灯るいろとりどりのイルミネーションというのはこうも人間をわくわくさせるものなんですな。
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通過儀礼




昨日は変なミスをし続けた日だった。

缶詰の中身を飛ばしたり、ゴミがゴミ箱にうまく入らずこぼしてしまったり、泡立て器がボールから跳ね返って来たり、駐車場の券を買う時、コインを入れすぎたためキャンセルボタンのつもりで押したのが「続行」ボタンで、1ポンド損した!とぶりぶり怒ったり...
わたしはどちらかというと要領も瞬発力にも優れたタイプだと思っていたのだが、加齢とともにどんどん動きが鈍臭くなるのを実感している。


ミスと言えば最近わたしに多いのは食材の「作り方」に関するミスだ。

例えば先日、娘のリクエストでタイのレッドカレーを作った。ペーストを全部入れてかき混ぜたら辛い。辛すぎる。
そこで手元に灯りをあて、眉間にしわを寄せながら目と容器の完璧な距離をはかって「作り方」をきっちり読んでみたら1瓶が8人前だったのである。
このまま調理を続けるならあと3本のココナッツミルクが必要だ...

食品ラベルの字、小さ過ぎやしませんか。
これが読みにくいので「まあええや」と適当な作り方をしてしまい、あとで後悔する、と。


いよいよ老眼鏡が必要なのである(先日、友だちには「早くない??」と言われた・泣)。たぶんわたしのイライラモタモタの何割かは小さい字がよく見えないせいだ。
夫はドラッグストアで5ポンドで売ってるのを買えばいいと言うが、初めての老眼鏡を手にするというのは一種の儀式だ。「マダム」になる儀式。
ここはやっぱりシャネルとかトム・フォードのやつじゃないとダメなんですよ。


そういうわけで週末はロンドンのシャネルで...


老眼鏡デビューざんす。

次回お会いした時、わたしが頭の上にカチューシャのように載せているのはサングラスではなく、老眼鏡です。



みなさまもよい週末を。
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門 2012




先日ロンドンで娘のお友達のお母様とお茶をした。

彼女は某カレッジの医学博士で、座ってお茶を飲む時間もないほど忙しい人である。フリータイムなど全く望むべくもないが、もし自分のために小一時間自由時間があるとしたら、音楽を編集したり、サングリアを飲みながらくだらない映画を見たいわと言った。


「(専業主婦である)あなたは毎日何をしているの?」

と、きらきらした瞳を向けられた。
受けるのがすごく苦手な質問だ。

専業主婦というのは主に「カオスを元に戻す」「ほころびを修繕する」など、マイナスをゼロの状態に戻すことを中心に活動することで、何かを生産するタイプの活動とはちょっと違う...たぶん。
家庭内でも社会においてでも、ちょっとした不具合を毎日地道に修理していくのは重要な仕事だと思うのだが、人間、生産活動をしていないと内心に忸怩たるものを感じるのはなぜだろう?これこれを生産している、とカッコつけたくなるのはなぜだろう?「あなたが何者であるかは、あなたが何を生産したかによって決定する」からか?

カオスを元に戻す「アイロンがけ」や「カルキ取り作業」以外には、わたしの場合は、持病のある飼い犬の世話とか、お菓子を焼く、2日かけてシチューを煮込む、留守番が必要、娘のお迎え、学校のボランティアや地域の手伝い...
常に家のメインテナンスをしていると堂々と言うほど家は大きくなく、手のかかる小さい子どももおらず、ボランティアは毎日あるわけではなく、敢えて日々の仕事を細かく数え上げれば数え上げるほど内容が薄くなるような気がし、いったいわたしは毎日何をしているのか、何もしてないやん、あははは

「...特に何も」

という感じの返答になってしまう。

「特に何も」と言った後は寂しい。せめてブルージュで前に受け持っていたカレッジの講師を続けていれば...そしたら「カレッジで教えているの」以上、説明終わり、なのになあと思う。それにわたしの虚栄心を満たしてくれるし(笑)。

「綺麗にしているのが仕事」と言ってはどうだろう?もちろん大ボケとして(笑)。
あるいは明日から狂ったようにピアノを弾いたり、フィットネスに通おうかしら。
いやそれよりも堂々と「家事やボランティアで結構忙しいのよ」と言えるほど、目の前の仕事に一所懸命取り組む人にわたしはなりたい。


医学博士は
「分かった!何もしないからあなたはその若さを保ってるのよ!」と診断を下した。

ストレートにアホと言われた方が気が楽なのである(笑)。



「彼は後を顧みた。そうして到底又元の路へ引き返す勇気を有たなかった。彼はまえを眺めた。前には堅固な扉が何時迄も展望を遮っていた。彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった」(夏目漱石「門」)


わたしは宗助のように知的でもなく、罪悪感に苛まれているわけでもないが、同じように門を通る人でもなく、通らないで済む人でもないと思う。それで不幸ではない。もしかしたら不幸なのかもしれない。不幸ってなんだっけ?分からない。

今後もしばらくはわたしはこれと言って何もしないだろう。いつかは門を通るかもしれないし、通らないことを小さな疼きとして胸にし続けるのかもしれない。
それまでは門の下で日が暮れるのを眺めるのである。それも楽しい...ああこうやって「通らないで済む人」になっていくのかなあ。

それもかなりいいような気がする。




(上の「門」からの引用、「彼は後を顧みた。...」に関して、これを「門を通る」とはすなわち「やりたいことにチャレンジ」とか「生産的な仕事をする」などという意味でだけ解釈されるとしたら、それはわたしの文章の劣悪さゆえなので、追記(11/23)。「門を通らない」ことを「どこまでも世間を出ることが出来ぬ」(夏目漱石「草枕」)という意味で考えてはどうだろう)
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patinage




ブルージュのマルクトにはもうスケートリンクが出ているだろう...
あの、ロケーションは申し分ないのにどうにもこうにもしょぼいやつ。

11月に入るとどこからともなく器材が運び込まれ、毎日牛の歩みで設置が進む。
特に人けのまだ少ない早朝、やりかけの現場を通りかかると、ああ今年も終わりかという気持ちでいっぱいになるのだ。


ロンドンでも洒落たロケーションに何カ所もリンクが出る。
さすが世界の都市、ブルージュとはスケールが違う。

写真は週末のサマセットハウス。
去年はここと、ロンドン郊外のハンプトンコートで滑った。今年もサマセットハウスではぜひ滑りたいと思っている。

何年か前にはグリニッジの旧海軍学校や自然史博物館でも滑ったことがあるが、まだまだ他にもハイドパーク、ロンドン塔、カナリー・ワーフと素敵なところがたくさんあるので少しずつ制覇するつもり。

ウインタースポーツが苦手なわたしもスケートは好き。気持ちだけはバレエ「パティナージュ」のつもりで服装も優雅に。



先日、日本の友人に冬の英国旅行に関して相談を受けた。
彼女は英国ミステリゆかりの地を中心に訪れたいとのことで、田舎の「雪」の状態を心配していたが、わたしは田舎に行くなら雪よりも「暗さ」の心配をするべきだと思う。
この時期、午後3時を過ぎたらもう暗くなり始め、それゆえ田舎の散策には時間と行動範囲が限られる(日本人が考えるより人通りがないし、街灯もない)のではないか。
逆にロンドンなどの大都市は日が暮れても人通りは多いし、明るいし、また出し物やイベントも多く、冬でも、特にクリスマス前のこの時期は楽しめると思う。
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箱の外を見よ




娘の学校に、もう去ってしまわれたが科学系博士がおられた。
学校には博士号をお持ちの先生が6割くらい。科学系では8割9割になる。懇談会の時に名前の短冊がずらっと張り出されているのを「まるで病院に迷いこんだみたーい」と、側の先生にボケられたことがある・笑。

長年、ある部門のダイレクターを努められ、生徒にもかなり人気があったそうだ。


彼の残したさまざまな知恵の中でもその粋は「ハコの外を見よ」という一言で、今も学校内では思考硬直を解除するマジックフレーズとして機能している。パラダイムや常識にとらわれず、既存のそのハコの外側を見よ、思考フレームの外を考えよ、という金言だ。


科学者である彼が「ハコの外を見よ」とおっしゃるのは、なるほどわたしにも説得力があった。

だから、人間は言語化できないものを思考することはできないのに(<ラッセル的に)、どのようにハコの外(言語の外、つまり「わたし」世界の外側)を観察することができるのだとか、自分はハコの中の囚人であると言う自覚だけがハコに切れ目を入れることができるのではないのか、という突っ込みは控えよう。

「ハコの外を見よ」、言わんとすることはわたしにも体感レベルから分かる。学術的なものの見方だけでなく、判断を迫られている時、悩める時、進路やあるいは生き方そのものを問う時にも使える、豆電球がぱっと灯るようなフレーズだ。
彼の墓石には間違いなくこの金言が刻まれるだろう。



自然、彼が去った後も他の学校関係者が優越感と感動に満ちた表情でこのマジックフレーズを口にするのをしばしば聞く。わたしは...それが可笑しくて家でギャグにして使っている。申し訳ない。

とうとう先日、PTAで正確な返答に窮したある方が事実関係の裏付けなく「”ハコの外を見”るべきだったのでは?」と発言した。わたしはこれをかなりかなーり不快なエクリチュール(各自が社会的に選択したポジションゆえに使う言葉)だと感じた。
ものの分かったような大人ってほんっとにイヤですよねーっ(笑)。

複雑な問題を「金言」という風呂敷で包んで簡単な問題にすり替えるのはズルくないか?それこそハコの外を見ていないのではないか?わたしはことわざや四字熟語が好きな方だが、他人を黙らせるために「印籠」として使う人は好きではない。
が、みなが慕うあの先生の金言を穢してはいけないと思ったので聞き流した。

上にも書いたように思考するということは、むしろ「自分が捕われているハコの形状を知る」ということであると思う。それが人間の能力の限界であり、始まりであると思う。
こういうマジックフレーズや金言を偉い先生から拝借して来て、それで物事に説明をつけたと思える人は、自分がどんなハコの中の囚人かを知った方がいい。


まあ。かく言うわたしも「エクリチュール」とか使うし、人のことはとても言えないのだけれど、自分のことを棚に上げるのは得意!
「賢明な言い回しは何も証明しない」(by ヴォルテール)とかどうでしょう(笑)?
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