CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

川崎造船所(現川崎重工業)のガントリークレーン

2021年08月26日 04時25分41秒 | 昔こんなものがあった 昭和編

本日は大正元年(1912)から解体された昭和37年(1962)まで神戸港のシンボル的

存在であった川崎造船(現川崎重工業)のガントリークレーンを写真紹介します。

上の写真は昭和36年(1961)頃の川崎重工業株式会社の巨大クレーン、ガントリークレーン

の航空写真です。 出典:市民のグラフ こうべ No.171(1987.1)Page12

全長303m、幅45m、高さ50mという巨大クレーンは大正元年(1912)に完成、

大正2年(1913)に「榛名」が進水、以降戦艦「伊勢」や航空母艦「加賀」など軍用船から

大型商船まで数多くの船舶の建造に使用されてきました。

上の写真は山手から神戸港を撮った神戸港の遠景です。ガントリークレーンが右端に

写っています。撮影時期は昭和6~7年頃 

出典:市民のグラフ こうべ No.171(1987.1)Page6

上の2枚の写真は川崎造船ガントリークレーンが完成して間もなく頃(大正元年)の

写真と大正元年(1912)11月26日の神戸新聞記事

出典:市民のグラフ 神戸No.198(1989年4月号) Page8

 

上の写真は昭和34年(1959)の川崎重工業ドック

KAWASAKI DOCKYARD N27 BERTHとの表示があります。

昭和25年(1950)から「KAWASAKI DOCKYARD」のネオンが点灯されています。

出典:飯塚富郎氏の写真集「昭和の神戸」 光村推古書院

上の写真は川西英さんの作品「神戸百景」中突堤の風景

中央部にガントリークレーンが描かれています。

出典:画集「神戸百景」川西英が愛した風景 星雲社(2008)Page57

 

同じテーマで写真が多く掲載されているサイトにリンクさせていただきました。

 ひでほブログ ガントリー・クレーン (fc2.com)

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滝善三郎が切腹した永福寺(かって神戸市兵庫区にあった)

2021年08月04日 05時22分54秒 | 昔こんなものがあった 昭和編

本日は神戸事件の責めを負って外国の公使の前で滝善三郎が切腹した場所(兵庫永福寺)

の紹介をします。この永福寺は戦災で焼失して現存していません。

 

上の写真はかって存在していた永福寺の本堂

撮影年月日は不明であるが戦前に撮られたもの(昭和)と推定

 出典:荒尾親成 編「ふるさとの想い出 明治・大正・昭和 神戸」(1979)

永福寺はどこにあったか

かって兵庫津にあった永福寺は現在も存在する南仲町にありました。

 

上の写真は現在の地図に永福寺跡の場所を明示したものです。
地図は地下鉄海岸線の中央市場前の駅の出口付近に掲示(撮影:2024-3-19)
上の写真は俗称「元禄絵図」と呼ばれる元禄9年(1696)に1万2千分の1の縮尺
で書かれた絵図(部分)の能福寺があった場所を明示したものです。


上の写真は明和6年(1769)の「兵庫津絵図」に永福寺の位置を示しました
兵庫津ミュージアムの常設展示よりで兵庫津の見どころも挿入されています。
撮影:2024-3-19

慶応4年(1868)1月11日(1868.2.4):神戸事件、三宮神社前を東進中の備前藩の隊列を横切ろうとしたフランス水兵と藩兵の軽微な接触に端を発し、沖に停泊中の外国艦隊(米・英・仏計18隻)から陸戦隊が上陸し備前藩と交戦した(「神戸事件」)。外国軍は居留地を占拠し、東西に関門を設けて日本人の通行を制限し、維新政府に恫喝的書状を送った。両軍に死者は出ていない。維新政府は、勅使・東久世通禧を神戸に派遣した。東久世は神戸運上所で6か国公使と会見し、天皇親政の国書を手渡して日本側の政権交代を告げ、衝突事件の日本側の責任を認め、責任者の処刑を約束した。備前藩小隊長瀧善三郎が、外国側と日本側立会いの下、兵庫永福寺で切腹した。

慶応4年(1868)1月15日(1868.2.8):
 勅使・東久世通禧、神戸で外国代表に政権交代を告げ事件処理。

 

 

上の写真は明治元年(1868)2月9日午後11時30分兵庫の永福寺において
各国代表者の立会いのもと行われた瀧善三郎正信の切腹の様子が描かれた画と
背景などが書かれた説明書きの写真です。2008-8-8撮影

上の写真は滝善三郎切腹の図 かねてつ食品社長 村上忠雄氏所蔵

出典:市民のグラフ こうべ No.26 (1974年3月)Page14-15

上の写真は滝善三郎が母と姉に宛てた遺言状

出典:市民のグラフ こうべ No.26 (1974年3月)Page15

能福寺の境内に標題の神戸事件の犠牲者瀧善三郎正信顕彰碑があります。(上の写真)
下の写真の説明書きのように、元は能福寺の東100mのところにあった永福寺に
建立されたものである。


瀧善三郎正信は備前藩士で500名の備前の警備隊の第三砲隊長であった。
神戸事件の概要(三宮神社前の説明文より引用)は以下のとおりです。
神戸開港早々の明治元年(1868)正月11日、尼崎へ出向を命じられた岡山備前藩の隊士の行列が三宮神社前を通過するとき、神戸沖に停泊中の外国軍艦の乗組員数名が行列を横切った。隊士の瀧善三郎正信は日本の風習から無礼を怒って相手を傷つけた。それがもとで外国兵と備前藩士の一行との間に砲火を交える騒ぎとなった。その結果、神戸の街は外国兵によって一時占拠されてしまった。
同月15日、東久世通禧は勅命で神戸へ来て明治維新で天皇新政となったことを初めて外国側に知らせ同時にこの事件について交渉をした。結局、瀧善三郎は責任を一身に負い外国人代表ら立会いの面前で切腹して問題は解決した。
フランス兵2名が隊列を横切りにたいして槍でその兵に軽傷を負わせた。
死者が出ていない事件に対して1人の切腹は刑が重過ぎるという考えもあったが、
備前藩士瀧善三郎正信の切腹で問題は解決した。
神戸の開港1ヶ月後に起きた神戸事件は明治新政府にとって初めての外交交渉となった。
この事件の穏便解決で活躍したのは明治元年(1868)5月23日兵庫県の初代知事と
なった伊藤博文(当時28歳の青年であった)である。
伊藤博文は偶然事件翌日の1月12日に神戸に立ち寄っていた。
伊藤博文まず大阪の外国事務取調掛の東久邇通禧(ひがしくにみちとみ)を勅使として神戸の
各国の公使を集めて「王政復古」を宣言した後、新政府の代表者として認めさせたうえで
事件解決の交渉に入っていった。
1月16日に外国公使の示した条件は厳しいもので岡山藩側の発砲を命じた士官は死罪
であった。こうして瀧善三郎正信の切腹は2月9日午後11時30分兵庫の永福寺において
各国代表者の立会いのもと行われた。
この切腹により日本の危機は脱せられた。
下の写真は昭和8年(1933)有志により永福寺に建てられた顕彰碑である。
永福寺が戦火で消失したため能福寺に移転されたものである。

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加納宗七の初代銅像(戦時中の金属供出で現存せず)

2021年07月29日 05時43分03秒 | 昔こんなものがあった 昭和編

本日は昭和9年(1934)8月1日から昭和19年(1944)5月26日まで存在していた

加納宗七の銅像をテーマに取り上げます。

参照資料:

  1)松田裕之 著「加納宗七伝」朱鳥社(2014)

  2)荒尾親成 編「ふるさとの想い出 明治・大正・昭和 神戸」(1979)

  3)一坂太郎 著「ひょうご幕末 維新列伝」神戸新聞出版社(2008)

加納宗七(1827-1887)は1871年(明治4年)、明治政府が計画した生田川の付け替え

工事を請負い、3か月で工事を完了させた。宗七は17万坪に及ぶ旧生田川の埋立地や

堤防跡を娘婿の有本明とともに兵庫県から落札し、区画整備を行った人物です。

神戸開港当時(1868-1-1以降)生田川はたびたび氾濫し水害を起していました。

居留地に住む外国人の陳情により上記の生田川付け替え工事が行われました。

現在の三宮周辺の繁栄の基礎を造った功績により「加納町」の地名が残っています。

1873年(明治6年)、加納宗七は当時の神戸港が台風によって大きな被害を受ける
ことに対処すべく、生田川の河口に「加納港」と呼ばれる避難港を建造した。
この避難港は1915年(大正4年)に埋め立てられ、国鉄神戸臨港線神戸港駅が
建設された。

加納宗七は紀州出身の豪商で幕末の勤王運動に参加、同じ紀州藩の陸奥宗光にその豪腕

が認められ、その紹介で坂本龍馬、中岡慎太郎や伊藤博文、大隈重信、中島信行らと

親交を結び、龍馬が慶応3年(1867)11月京都近江屋で暗殺されると、その下手人の

探査に従事、同年の12月7日の夜、下手人の三浦休太郎が護衛の新選組数人とともに

京都三条油小路花屋町の料亭天満屋で酒宴を催すとの情報をつかみ陸奥宗光、加納宗七ら

16名が天満屋に斬りこみチャンバラをやり名を挙げた話題の持ち主でもある。(天満屋騒動)

ただ、商人である加納宗七が実際に斬りこんだかどうか不確定である。

 

上の写真は加納宗七が埋め立てを行った旧生田川上流の久方橋東詰めに建設された

加納宗七の銅像です。 出典:2)

神戸市市街地造成の先駆者、加納宗七(1827-1887)の顕彰は宗七の死から半世紀近く

を経た昭和8年(1933)6月、生田神社氏子総代の席で斉藤喜四郎が宗七の偉業を称え、

これに感銘を受けた神戸市議会議員の重成千代吉が顕彰事業の推進を呼びかけました。

「加納宗七氏銅像建設趣旨書」を市内有力者に配布して賛同者を募り、さらに同年の

12月16日、兵庫県に建設請願書を提出した。

昭和9年(1934)1月27日、重成千代吉宛てに県知事白根竹介捺印の許可書が届き、

東京間組に請負業者に指定、2月1日に地鎮祭が催された。

銅像の製作は建設請願と同時に進められた。原型は加納宗七晩年の写真をベースに

宗七が設計図を片手に指揮命令している姿が採用され製作者を公募し、雲中小学校で

教鞭をとっていた神戸在住の彫塑家・福田青陽(正一)が選ばれた。

福田青陽は不眠不休で作業を行い昭和9年(1934)1月10日に銅像は完成した。

同年7月18日、総工費1万1,200円を投じた加納宗七の銅像が無事竣工、8月1日に除幕式

が開催されました。(台座は高さ4m、銅像は2.5m高さ)

昭和19年(1944)5月26日、銅像供出奉告式が執り行われ、銅像は消滅しました。

 

昭和54年(1979)、生田神社において荒尾親成さんが編纂した資料2)の出版祝賀会の

席上で元神戸市長の中井一夫から加納宗七記念碑再建を行いたい旨の発言があった。

これを受け、記念碑が東遊園地に建立され昭和56年(1981)3月16日に除幕された。

記念碑(2代目加納宗七の銅像)の写真を添付しておきます。

 

上の写真は加納宗七像(左の隅)と加納宗七の題字(陸奥宗光の書による)の遠景
多分前の部分は旧生田川を表わしたものだと思います。撮影日:2011-6-21
このモニュメントの前に加納橋の欄干もあるのですが、写真を撮るのを失念
していました。

 

上の写真は現在の加納宗七の銅像の近景です。撮影:2011-6-21
旧生田川は現在のフラワーロードが流れの中心であった。天井川であることから
氾濫が多く、旧生田川右岸にあった外国人居留地もたびたび水に浸かることから
川の付け替えが行われ現在の新生田川の川の流れとなった。
当時建設されたフラワーロードは幅18m、延長1.6kmで東西に街区が設けられ
明治6年(1873)5月西の街区を加納町と名づけた。
上記にWikipediaの解説に出てくる避難港の建造であるが、名称は加納湾とも
呼ばれていた。(現在は埋め立てられ存在しない)
加納宗七の娘婿である有本明の名前をとった有本町も明治6年には存在したが、
定着せず現在は有本町の名前は存在しない。

 

訪問記:東遊園地にある加納宗七像 on 2011-6-21 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

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昔のラジオ関西本社 

2021年07月27日 05時33分44秒 | 昔こんなものがあった 昭和編

本日は昔こんなものがあった 昭和編のシリーズで昭和43年(1967)~平成7年(1905)

に神戸市須磨区御幸町にラジオ関西本社の社屋があった写真を紹介します。

上の写真は昭和43年(1967)3月16日にラジオ関西本社の新社屋が完成して間もない

頃の写真です。JOCRの看板がかかっています。

商業施設のレストインスマも写っています。

周波数は1952年4月1日民放ラジオ10番目の開局から1,4907kCであったが昭和53年(1978)

11月23日から558kHzに変更されています。

ラジオ関西の公式サイト:神戸に再び水陸両用車登場か? | 三上公也の朝は恋人 | ラジオ関西 JOCR 558KHz

 

阪神淡路大震災時の放送

平成7年(1995)1月17日の阪神淡路大震災で被災しましたが、無事だった機材を

駆使して放送を続け69時間CM抜きの特別編成で伝え続けられました。

特に被災者に寄り添った「被災者の安否情報」、「救援物資の実情」など住民にとって

役立つ情報が発信されメディアの役目と責任を充分に果たされました。

1995年2月1日、仮設スタジオ117から放送開始。

さらに同年3月1日、全本社機能、仮設社屋に移転。

平成8年(1996)8月8日からハーバーランド「神戸情報文化ビル」に移転、

現在に至っています。

神戸情報文化ビル

神戸情報文化ビルにはラジオ関西の他、神戸新聞、松方ホールなどが入っています。

上の写真は神戸情報文化ビルの前にあるキリンの銅像 撮影:2016-11-14

カルメニのキリン伝説について現地の説明書きより引用
このキリンの下で待ち合わせると不思議と恋がかなうらしい 
古来中国で霊獣とされた「麒麟」はおすが麒、めすが麟とも言われます。
つまり、男と女がひとつになって「麒麟」なのです。
カルメニのキリンの下で待ち合わせる2人はひとつの麒麟。
恋が不思議とかない、いつしか2人は光り輝き始めます。

上の写真は神戸情報文化ビルの内部より撮った写真 撮影:2016-11-14

 

ラジオ関西は1952年4月1日民放ラジオ10番目の開局(コールサインJOCR 当初の

周波数は1,490kC)したので来年の4月1日に開局70周年を迎えます。

当初は神戸放送株式会社(現・株式会社ラジオ関西)として1951年8月22日に創立。

創立から勘定すると今年の8月22日が70周年の創立記念日となります。

現在の場所(神戸情報文化ビル)に移転したのは1996年8月8日、それまでは神戸市

須磨区行幸町に本社社屋が昭和43年(1968)3月16日よりありました。

 

関連ブログ:

   

 

淡路島(淡路市)散策記 on 2020-10-30 その4 ラジオ関西送信アンテナ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

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かって舞子介類館があった in 神戸市垂水区 明治41年(1908)から昭和5年(1930)に開設

2021年01月27日 04時09分17秒 | 昔こんなものがあった 昭和編

2019年6月15日の神戸新聞朝刊に舞子介類館の標本の記事が掲載されていました。

現在、昔の資料を整理処分作業中でその過程で出てきた。

これに刺激され矢倉和三郎について調べてみました。

舞子介類館の標本は貝類収集・研究家の矢倉和三郎氏(1875-1944)が垂水区舞子浜

の自宅に明治41年(1908)に開設されたもので昭和5年(1930)の閉館までの22年間

存在していました。

所蔵標本は約2900種に上り、年間5000人が訪れたが赤字のため閉館。

標本の一部は研究機関に一部売却されたものの他は行方不明となった。

2018年、樟蔭学園(東大阪市)が所蔵する貝類標本約500点について調査したところ、

舞子介類館から購入したものであることが判明しました。

これは、樟蔭高等女学校(当時)が1917(大正6)年に設立された際、理科の教材用に

揃えたものと思われます。舞子介類館由来の現存標本でこれだけまとまったものは

知られておらず、同館の活動や、当時の日本の生物相を知るうえで大変貴重な資料です。

上記の貝類標本は2018年に大阪市立自然史博物館に寄贈されました。

大阪市立自然史博物館では下記要綱で展示会を開催、一般公開されました。

   1.名称              企画展示「標本を未来に引き継ぐ〜新収資料展2019〜」
        2.主催              大阪市立自然史博物館
        3.会期              2019年4月27日(土)〜5月26日(日)
                           ※開館時間:午前9時30分~午後5時
                               (入館は午後4時30分まで)
        4.会場              大阪市立自然史博物館ネイチャーホール
                               (花と緑と自然の情報センター2階)
                              〒546-0034  大阪市東住吉区長居公園1-23

大阪樟蔭学園(下記サイト)に上述の詳しいいきさつが紹介されています。

 学校法人樟蔭学園 :: 本学園が寄贈した貝類の標本(創立当時)が展示されました! (osaka-shoin.ac.jp)

 

矢倉和三郎氏は旧兵庫県博物学会の顧問を務め、介類研究家として著作も多い

「知る人ぞ知る存在」の有名な方です。

 

矢倉和三郎の著作

国立国会図書館のデジタルコレクションで矢倉和三郎著「日本貝類写真帖」大正2年刊

の内容を観れますので、リンクを張っておきます。

 日本貝類写真帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

さらに同じく国会図書館のデジタルコレクションで「介類叢話 : 趣味研究」大正11年刊

の内容を観れますので、リンクを張っておきます。

介類叢話 : 趣味研究 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

尚、国会図書館の資料によれば舞子介類館は井上甫田によって開館されたとの記述

がありました。(矢倉亀三郎はかって井上甫田と名乗っていました)

矢倉和三郎氏の著作には上記の他、下記の著作があります。

「兵庫県産貝類目録」甲南貝類荘 1932年刊

「趣味研究介類叢話」成山堂書店 1994年10月

 

矢倉和三郎(1875-1944)の略歴

(出典:貝類学雑誌 19(3・4)1957 金丸:日本貝類学史 Page270-271)

 明治8年(1875) 大阪北浜の両替商に生まれる

 明治37-38年頃 舞子に転住

  もとは古銭の収集家であったが平瀬介館(京都市下長者町)の趣旨に感銘し

  貝類の収集家に転向。

  当時、矢倉和三郎は井上甫田という名前を使っていました。

  また別名で矢倉甫田という名前もあります。

 明治41年7月(1908)7月 自邸んの一部を開放して舞子介類館を開設

  舞子介類館は入場料は徴収せず貝類彫刻品の販売、絵葉書などの土産物を販売して

  利益を得る程度であった。

  宣伝に努め、しきりに同好者を求めて標本の供給交換を希望し、且つ学校方面

  及び後進者に標本を販売して活動資金の補足に充てた。開館5年の大正2年(1913)

  「日本貝類写真帖」を発行し、また絵葉書は「コンコロジー」と題し毎年1組づつ

  を新たに出して前後10余集に及んだ。何れも優秀な写真で貝類の美観を世に紹介

  するのに役立った。また大いに郷土産貝類の調査に力を注ぎ、その努力は鮮新層

  の化石にも及び新種Pecten Yagurai Makiyamaを出し、その海岸の細砂中から

  ミジンギリギリッツを択りだすなどの成績を挙げた。

  大正5年(1916)「兵庫県産貝類目録」を編纂し720種を明らかにした。

  この日本において地方目録を刊行した最初のものであった。

  この目録は昭和8年(1933)さらに増訂され831種の掲載となった。

  氏はまた文献の不十分な中にありながら常に耳目をそば立てて貝類に関する見聞を

  求めて手記し、考究怠らず所見をまとめては地方若しくは中央の新聞雑誌に投稿した。

  大正11年(1922)それら並びに未発表の手記を集成して「趣味研究貝類叢話」と

  題して丸善書店から出版した。実に開館15周年記念出版であったである。

  なお叢話以後も「兵庫県博物学会誌」等にしばしば貝類記事を投じて昭和16年(1941)

  におよんでいる。舞子介類館の陳列品は分類標本2,500種におよび実に平瀬博物館に

  次ぐ大収集で外に参考品も多々あったが、これらを維持するのは容易ではなく苦労は

  絶えなかった。昭和5年(1930)10月農林省地質調査所の所望に応じ分類標本を挙げて

  これに売却した。氏は多くの苦難を抱え最愛の標本をも手放さなければならなかった。

  なおも貝を離るること能わず本山村の新居を「甲南貝類荘」と号し、副品を整理し、

  知友に連絡して再興を計ったが、後にはそれをも宝塚昆虫館に譲渡し、昭和19年(1944)

  2月病のため没した。年70歳。ヤグラギセル、ヤグラモシオガイ、ヤグラビョウブガイ

  は氏の功績を記念するものである。(本誌13(5-8)Page320参照)

 

写真が無いと寂しいので矢倉和三郎の自筆と思われる標本ラベルと「カタヤマガイ」の

標本(旧宝塚昆虫館蔵)の写真を添付しておきます。

出典:2013年KECだより第9号 2013年12月26日発行 page8/8

写真撮影者の川上誠太氏は阪神貝類談話会で「宝塚昆虫館旧蔵の矢倉和三郎貝類

コレクションについて」と題して講演発表されています。

ラベルには舞子介類館標本の英文名「The Maiko Conchological Cabinet]が

印刷されています。

 

私立樟蔭学園旧蔵の舞子介類館標本の記事が神戸新聞に掲載されました(6月15日付)。
神戸新聞webサイトでもご覧いただけます。

神戸新聞NEXT|総合|100年前の貝標本520点発見 絶滅危惧種も

 

毎日新聞の報道では舞子介類館の外観写真も掲載されています。

 舞子介類館:幻の貝コレクション、90年ぶり発見 神戸で22年だけ開館 大阪・自然史博物館で展示中 - 毎日新聞 (mainichi.jp)

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ミナト神戸で紹介された神戸タワー

2020年12月24日 04時39分26秒 | 昔こんなものがあった 昭和編

1962年に出版された「ミナト神戸」朝日新聞社神戸支局編のPage88に神戸タワーが

紹介されています。著作権の切れた書籍であるので写真と本文をそのまま紹介します。

上の写真はミナト神戸で紹介された神戸タワー

撮影時期は明記されていないが1962年(昭和37年)より前に撮影されたことは確実

上の写真は本文

神戸タワーが大正13年(1924)に建てられたこと13階に展望台があったこと

展望台に上がるエレーベーターの利用料が大人20銭、子供10銭であったことなどが

記述されています。

神戸タワーの高さについて

話題は変わりますが、神戸新聞2019年4月15日夕刊に神戸タワー再考という記事で

神戸タワーの高さについて気鋭の郷土史家・佐々木孝昌さんが調査された結果について

記述されていました。

多くの書物では神戸タワーの高さが90mと書かれていたが間違っている。真実は57m

(正確には56.94m)であるとの結論である。

1930年(昭和5年)の神戸の案内本に神戸タワーの高さは300尺=90mとあり、これが下地

となって戦後90mが定着したと推定。1968年(昭和43年)のタワー解体を伝える新聞には

高さ57m13階建てとある。さらに1978年(昭和53年)の神戸新聞連載「聚楽館物語」には

56.94mと記載されていたのが上記結論の根拠である。

 

1968年(昭和43年)の解体

神戸タワーは昭和43年(1968)10月下旬に完全に解体されました

 

神戸タワー跡のモニュメント

上の写真は湊川公園の南側に設置された時計塔 撮影:2018年3月21日

時計塔の4面に掲示されているパネルも含めて写真紹介します。

上の写真は時計塔と神戸タワーに関する説明書き 撮影:2018-3-21

読みづらいと思いますので、以下説明書きより要約引用します。
「かって、新開地は神戸一の繁華街として栄え、その中心湊川公園には繁栄のシンボル
として神戸タワーがそびえたっていました。このタワーからは神戸市内が一望でき、晴れた
日には遠く紀淡あたりまで眺望でき、東洋一だと神戸ぅ子は自慢していました。
湊川公園に神戸タワーを模した時計塔を建設しました。
この時計塔は高さ8mの花崗岩石張・アルミダイキャスト作りで、4個のベル(カリヨン)
が備えつけられ時間がくるとメロディを奏でます。夜間には両側の植え込みから
ライトで時計塔が浮かびあがるようになっています。」

昭和60年(1985)6月15日 神戸兵庫ライオンズクラブ湊川公園活性委員会


上の写真はかってこの地にあった湊川公園のシンボル「神戸タワー」

神戸タワーは大正13年(1924)に建設されました。高さ90m57mもありました。
昭和9年(1934)からネオンを輝かせた。昭和43年(1968)に取り壊された。


時計塔の側面パネルには時計塔の断面構造図(写真が不明瞭なので省略)と開港時の
兵庫津と1985年の兵庫津付近の地図(下の2枚の写真)

 

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関西テレビ「兵頭大樹の今昔さんぽ」で紹介された摩耶観光ホテル on 2020-2-7

2020年04月07日 04時27分33秒 | 昔こんなものがあった 昭和編

1929年から1993年まで摩耶山の観光名所の一つであった摩耶観光ホテルが
2020年2月7日18時20分からの関西テレビ報道ランナー「兵頭大樹の今昔さんぽ」
という番組で紹介されていましたので摩耶観光ホテルを主題としてブログを書きます。

摩耶観光ホテルは地元ではヤマカンという愛称で呼ばれています。

本ブログでも以前に摩耶観光ホテルをテーマに書いていますのでリンクしておきます。

 https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/1ade7c33304768777ae313f16e4ad65b

摩耶観光ホテルについてWikipediaより引用紹介します。

摩耶観光ホテル(まやかんこうホテル)は、かつて神戸市灘区の摩耶山中腹に存在したホテル。

ケーブル会社の福利厚生施設として営業開始した時は摩耶倶楽部[1]、第二次大戦前
から戦中にかけては摩耶ホテルや摩耶山温泉ホテル・摩耶山温泉、
戦後の改装後は摩耶観光ホテルや摩耶国際観光ホテル、ホテル閉鎖後の1970年(昭和45年)
頃から1994年(平成6年)頃まで摩耶学生センター等と呼称された。
また摩耶観光ホテル・摩耶学生センターの頃から、マヤカン(摩耶観光ホテルの略語)
という俗称でも呼ばれている。設計者は今北乙吉[2]。
現在は廃業し、そのアールデコ風のユニークな建築は廃墟となっており、内部は
経年劣化による損傷が激しく危険であるため、完全に立入禁止となっている。

摩耶観光ホテルの歴史

 

上の写真は昭和4年(1929)11月16日に開業した摩耶倶楽部。

実際には昭和7年(1932)頃?の摩耶山ホテル

この建物が竣工したのは昭和4年11月6日ですが当初の用途は諸説があり明確では無いが

摩耶鋼索鉄道株式会社(現在の摩耶ケーブルを最初に敷設・経営した会社)の福利厚生

施設(摩耶倶楽部)として建設されたいう説が有力である。

実際には摩耶山ホテル、摩耶山温泉ホテルなどの名称で一般向けの複合娯楽施設として

オープンしていました。

摩耶鋼索鉄道株式会社が昭和5年(1930)11月に発行した一般向けパンフレットには

写真付きで館内が紹介されています。

1階(和室)、2階(洋室)計13室のホテル。

3階は食堂、娯楽場、温泉浴場

4階は摩耶山会堂(400人収容の余興場)

昭和5年(1930)4月にはケーブル摩耶駅からホテル4階部に直接連絡する渡廊下が完成

上の写真は摩耶山食堂(上述のパンフレットより)

上の写真は摩耶山温泉浴場(上述のパンフレットより)

上の写真は摩耶山ホテルの一室

上の写真は摩耶ケーブルの前身の摩耶鋼索鉄道

摩耶ケーブルの歴史についてはブログを作成していますのでリンクしておきます。

 https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/68bbb3d79272943c6d830ebc3747a226

 

昭和18年(1943)から昭和20年(1945)にかけて軍用道路が完成し掬星台付近に高射砲

が設置されたりケーブルの線路が供出されたりでケーブルは営業休止となる。

昭和30年(1955)5月7日摩耶ケーブルが営業再開、7月12日奥摩耶ロープウェイ営業開始

昭和35年(1960)頃まで摩耶山ホテルは閉鎖 戦後引揚者らが住みついた時期もあり

上の写真は昭和36年(1961)摩耶ケーブルの親会社の阪神電鉄の意向で関西の

ホテル業者に売却、数千万円をかけて改装された。

摩耶観光ホテルの営業開始は昭和36年8月26日

 1・2階はホテル客室

 3階はロビー、カジュアルコーナーなど

 4階は大ホール、グリルなど

名物は「楠公鍋」や「摩耶鍋」

摩耶観光ホテルと摩耶鍋については下記のブログで紹介しています。

 

摩耶観光ホテル NHKBSプレミアム新日本風土記「廃墟」より

2013年 摩耶詣祭 in 天上寺&掬星台 on 2013-3-30

上の写真はかって摩耶観光ホテルで行われていたイベントの様子(大ホールにて)

 

 
昭和42年(1967)頃? 集中豪雨で土砂崩れ及び塩害被害でホテル営業停止

昭和45年(1970)頃 ホテル業者の依頼で管理人が住み込む

昭和49年(1974)学生のゼミ、サークル合宿などに限りホテル施設の一部を開放

          摩耶学生センターの営業開始

昭和50年(1975)10月1日 摩耶ケーブルが六甲ケーブルと合併(六甲摩耶鉄道株式会社)

昭和51年(1976) 天井寺の大半が焼失

平成5年(1993)頃 管理者の体調不良により摩耶学生センターの営業停止

平成7年(1995)阪神淡路大震災でケーブルカー、ロープーウェイの施設破損

平成12年(2000)3月摩耶ケーブルの施設六甲摩耶鉄道から神戸市に無償譲渡

          6月 ケーブル・ロープーウェイの復旧工事

平成13年(2001)3月7日「まやビューライン夢散歩」として運転再開

      

摩耶観光ホテルの位置

廃墟の案内人

現地の案内は上の写真の摩耶山再生の会の慈(うつみ)憲一さんと前畑洋平さん
前畑さんは産業遺産を記録・見学するNPO法人 J-heritage を主宰されています。

兵頭さん(中央)、向かって左が前畑さん、右が慈さん

上の写真は見学会の様子

廃墟の現況

 

廃墟施設としての活用

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東神戸公共フェリーふ頭(東神戸フェリーセンター)

2018年08月18日 05時24分06秒 | 昔こんなものがあった 昭和編
本日は昭和46年(1971)から平成11年(1999)まで存在していた東神戸公共フェリーふ頭
別名、東神戸フェリーセンターについて記事を書いていきます。

住所としては神戸市東灘区青木1丁目付近で現在はサンシャインワーフ神戸、ヤマダ電機、
スポーツDepo、オートバックススーパーなどのショッピング街となっています。




上の写真は昭和46年(1971)に撮影の東神戸公共フェリーふ頭(東神戸フェリーセンター)
出典:市民のグラフ こうべ 1971年10月 No.6 Page4-5

ここで、Wikipediaより建設経緯と縮小廃止の経緯について引用紹介します。

東神戸フェリーターミナルは神戸港のフェリー発着拠点の集約により、運航会社の負担
軽減と利用者の利便性向上を図るため、神戸市が建設したフェリー専用の公共埠頭である。
神戸市の埋立地である東部第三埋立工区および東部第四埋立工区の約7.7ヘクタールの敷地に、
運輸省から半額の補助を受け約23億円をかけて整備された。建設工事は1970年から開始され、
1970年夏に第四バースが完成、第三バース、第二バースも順次供用され、1971年7月の
第一バース完成により、計画されていた4バースが全面供用
となった。管理運営のため、
株式会社神戸フェリーセンターが設立され、旅客サービス、ターミナルの運営、
港湾業務などを一手に引き受けた。
1971年10月時点では、10社(1日合計32便)が就航、1974年4月までに合計17社の就航が
見込まれていたため、東部第四埋立工区の東側に第五バースを新設、東京、鹿児島など
長距離航路専用バースとする計画が、1972年春に着工、年度内に完成のスケジュールで
進められた。工費約10億円は、神戸フェリーセンターが負担した。
阪神・淡路大震災で被災した後、復旧して運用を再開したが、対岸の六甲アイランドで
1988年から運用が開始された六甲アイランドフェリーターミナルや中央区の
新港フェリーターミナル(新港第三突堤)に航路が移転することになった上、
明石海峡大橋の開通により、ここを発着とする航路自体も減少したために
1999年3月閉鎖となった。
跡地はショッピングセンター「サンシャインワーフ神戸」となっているが、かつてフェリーが
発着していたバースの可動橋や、東西2つ存在した旅客ターミナルのうち西側のものは、
現在も残っている。
阪神電気鉄道青木駅が最寄り駅であった




上の写真はGoogleの地図より東神戸公共フェリーふ頭跡の位置を示したものです。


上の写真の手前は西の旅客ターミナルに使用されていた建物で現在は株式会社
神戸フェリーセンターの出資会社であるポート産業株式会社の建物になっています。
写真はGoogleストリートビューによります。

Googleの地図では東神戸フェリーセンター、加藤汽船、神紀フェリー乗り場などの表示が
ありますが、現地未確認につき現状どのようになっているか不明です。


昭和46年(1971)の供用開始当時に東神戸公共フェリーふ頭を利用していた運航会社と
航路は次のとおりです。 出典:市民のグラフ こうべ 1971年10月 No.6 Page5

関西汽船・加藤汽船(神戸~高松間)
日本通運・四国フェリー(神戸~高松間)
四国中央(神戸~川之江間)
ダイヤモンドフェリー(神戸~松山~大分間)
セントラルフェリー(神戸~東京間)
宮崎カーフェリー(神戸~宮崎間)
阪神バイパスフェリー(神戸~泉大津間)
共同汽船(神戸~徳島間)※共同汽船・共生汽船・関西汽船の共同運行





上の2枚の写真は現況。写真はGoogleストリートビューによります。



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神戸市長田区 駒ヶ林の左義長祭り

2018年06月24日 04時21分29秒 | 昔こんなものがあった 昭和編
以前、下記のブログの中で駒ヶ林の左義長祭りについて写真を添えて記事を書いた。
2018年6月の神戸市広報誌「KOBE」の長田区版「ながたを歩こう」の特集で
「思い出、さんぽ ”左義長祭り”」-駒ヶ林界隈-で昭和34年(1959)に行われた
「左義長祭り」の写真を中心に紹介されたこともあり、この記事を書くに至った。

神戸市長田区駒ヶ林町の散策記 on 2017-2-19 その1 駒林神社の復興された大鳥居といかなごくぎ煮発祥の地の碑

神戸市長田区駒ヶ林町の散策記 on 2017-2-19 その2 駒林神社


駒ヶ林の左義長は永延2年(988)年1月15日に始められ、1,000年以上もの
長い歴史を持つお祭りで、漁場を巡って毎年1月15日に左義長を行って地引網の
網入れ優先権を争ったそうです。この漁場争いは弘化2年(1845)以降、東と西の
夫々の派閥が左義長祭りで作ったお山を駒ヶ林港の砂浜の上でぶつけて倒しあうようになった

駒ヶ林の東西に分かれ、10mにも及ぶ高さの「お山」を100人ほどの漁師
たちが担いで浜辺で倒し合いを行うこのお祭りは、その年の漁獲が懸かっている
だけに壮絶を極め、流血の事態が起こることもしばしばであったために
「駒ヶ林のけんか祭り」とも言われていたそうです。

埋め立ての影響で天然の砂浜がなくなり昭和34年(1959)を最後にこのお祭り
は途絶えてしまいました。その後、平成5年(1993)に行われたアーバン・
リゾートフェアの中で久々に復活されたりしていますが、本格的な祭りの
復活までには至っていません。

左義長祭りとは

Wikipediaより左義長祭りについてピックアップし纏めてみました。

左義長(さぎちょう、三毬杖)とは、小正月に行われる火祭りの行事。
地方により「とんど(歳徳)焼き」、「どんと焼き」、「塞(さい)の神まつり」
などとも呼ばれる。
小正月(1月15日)に宮中、清涼殿の東庭で青竹を束ねて立て毬杖(ぎっちょう)3本を結び、
その上に扇子や短冊などを添え、陰陽師が謡いはやしながらこれを焼いたという行事は
三毬杖(さぎちょう)と呼ばれこの行事が民間に広がったのが起源と言われる。


駒ヶ林公園には左義長祭りに関する説明版が掲示されておりそれを中心に写真紹介
していきます。駒ヶ林公園は神戸市長田区南駒栄町1番の住所で神戸市の西部下水処理場の
施設に離接する大きな公園です。公民館の「駒ヶ林会館」にも隣接しています。
夏の人気イベント「駒ヶ林ふれあいまつり」の会場でステージが利用されています。

昭和34年の左義長祭り


上の写真は昭和34年の左義長祭り(駒ヶ林公園の説明板)






上の3枚の写真は昭和34年の左義長祭り(2018年6月神戸市広報誌KOBE 長田区版


平成5年(1993)復活の左義長祭り

上の写真は平成5年(1993)に行われたアーバン・リゾートフェアの中で
久々に復活された左義長祭り(駒ヶ林公園の説明板)

明治43年以前の左義長

上の写真は明治43年以前の野田村左義長(駒ヶ林公園の説明板)
お山は幸吉兆と呼ばれるもので幸を呼ぶ神を表現しています。

左義長の制作絵図

上の写真は左義長の制作絵図で高さは13間半(約25m)(駒ヶ林公園の説明板)

駒ヶ林神社の左義長掛け軸

上の写真は駒ヶ林神社の左義長掛け軸(駒ヶ林公園の説明板)

駒ヶ林神社の「木版左義長神札」

上の写真は駒ヶ林神社の「木版左義長神札」(駒ヶ林公園の説明板)

学校での左義長祭り



上の2枚の写真は学校での左義長祭り(駒ヶ林公園の説明板)

左義長祭の絵画

上の写真は左義長祭の絵画(駒ヶ林公園の説明板)

駒ヶ林公園と西部下水処理場

上の写真は駒ヶ林公園の遠景


上の写真は神戸市の西部下水処理場を中心とした航空写真
工事中の北系水処理施設は完成後の姿。下の方に駒ヶ林公園も写っています。



上の写真は駒ヶ林公園に掲示の駒ヶ林の左義長の歴史と題した説明板の全体


最後に他の地域のとんど焼きの例として明日香村稲渕地区の幸吉兆のお山の
写真を添付しておきます。 撮影:2017-1-9

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開業時の元町駅

2017年09月09日 05時20分18秒 | 昔こんなものがあった 昭和編
大坂-神戸間の鉄道が開通し仮の営業を開始したのは明治7年(1874)5月のことだが
当初、神戸停車場があるので三宮停車場の設置は必要なしというのが当局の考えであったが
局長の井上勝氏に対して居留地周辺の将来性を考え神戸市街地のもう1か所停車場を建設
すべきと関戸由義が進言したことにより三宮停車場(現在の元町駅の場所にあった)は
開業当初より開設された。

時を経て踏切の閉鎖による交通の停滞を解消するために高架線が検討された。
大正10年(1921)12月13日鉄道省から都市計画神戸地方委員会に届いた諮問では、
貨物線新設、高架式工事と共に三宮停車場を加納町踏切付近に移転すると明記されていた。
このため旧三宮停車場(現在の元町駅)が閉鎖これに伴い停車場周辺地は衰退した。

旧三ノ宮駅復活に立ち上がったのは駅の南側に医院を開き神戸財産区の区長を務めていた
出水仁吾である。彼は昭和6年(1931)11月17日に駅の再開を求め神戸中央振興同盟会
を結成し鉄道本省に陳情活動をした結果、昭和8年(1933)6月5日大坂鉄道局から通知
がきて、新駅設置資金5万2千4百円のうち3万4千2百円の寄付があれば設置を承認
するという内容であった。

出水仁吾らは寄付活動に奔走し3か月後の9月5日には寄付金を納入できたのである。
新駅の工事が進められ元町駅は昭和9年(1934)7月20日に開業に漕ぎ着けた。




上の2枚の写真は開業当時の元町駅
出典:神戸元町商店街連合会「神戸の良さが元町に」(2014)Page74&79


上の写真は元町駅開設謝意広告 昭和9年7月21日付又新日報
出典:神戸元町商店街連合会「神戸の良さが元町に」(2014)Page78
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