CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

2021年 カミング コウベ on 2021-10-31

2021年10月31日 17時45分34秒 | 神戸情報

2021年10月31日、恒例のカミング コウベ(ComingKobe21)の音楽イベントが

神戸空港北側のイベント会場で行われていました。

その様子を写真紹介します。

上の写真はイベント会場の遠景です。

上の2枚の写真は会場の様子です。

 

イベントの詳細は下記公式サイトにて

 COMING KOBE21 (カミングコウベ ニジュウイチ) 2021.10.31(日)神戸空港島 開催決定!!

 

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渋沢喜作の75年の生涯 もう1人の渋沢のその後

2021年10月31日 16時58分40秒 | Weblog

渋沢喜作の75年の生涯 もう1人の渋沢のその後

 

上記のYoutube 動画が偶然見つかりましたのでGooで共有させていただきました。

 

青天を衝けの第31回(10月17日に放送の渋沢喜作(高良健)の場面を紹介して筆を置きます。

栄一、最後の変身(渋沢栄一が明治政府の官僚を退職して、民間人となるところで終了)

上の写真は富岡製糸場の操糸場(製糸場)を視察する4人の近景

左から渋沢栄一(吉沢亮)、尾高惇忠(田辺誠一)、渋沢喜作(高良健吾)、

ポール・ブリューナ(マッシモ・ビオンディ)

 

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明石市立文化博物館の企画展「発掘された明石の歴史展ー明石の古道と駅・宿ー」が開催中です

2021年10月31日 04時56分09秒 | 神戸市以外の兵庫県

昨日(2021年10月30日)より明石市立文化博物館で下記企画展が開催中です。

企画展「発掘された明石の歴史展ー明石の古道と駅・宿ー

興味のある方は是非お出かけ下さい会期は12月5日まで。

企画展のリーフレットを添付しておきます。(下の2枚の写真)

上の写真は明石市立文化博物館に通ずるエレベーター横の看板 撮影:2021-10-26

上の写真は明石市立文化博物館の建物外観

 
開催要項は以下のとおりです。

名称:企画展「発掘された明石の歴史展ー明石の古道と駅・宿ー」
会期:2021年10月30日(土)〜12月5日(日) 休館日:月曜日

会場:明石市立文化博物館(兵庫県明石市上ノ丸2-13-1 TEL:078-918-5400)
開館時間:9:30~18:30(入館は18:00まで)
観覧料:大人200円、大高生150円、中学生以下無料
  ※20名以上の団体は2割引
  ※シニアいきいきパスポート提示で無料
  ※65歳以上の方、身体障害者手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳提示の方は半額

企画展の概要(リーフレットより)

明石は、いつの時代においても交通の要衝でした。旧石器~古墳時代には石材・土器などが他地域からもたらされました。古代には都と大宰府を結んだ山陽道が通過し、明石駅家や邑美(おうみ)駅家が設置されました。その後、山陽道は西国街道となり多くの旅人が西へ東へと向かいました。 今回の展示は、そのような道に関連する遺跡からの出土品や、周辺の文化遺産を取り上げます。

 

関連資料として明石市立文化博物館の常設展示より古代山陽道と駅家の地図を添付しておきます。

上の写真は全体図

 

上の写真は明石付近の拡大図

 

関連ブログ

加古川市野口町古大内の大歳神社(賀古駅家跡)訪問記 on 2021-4-2 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

須磨駅家(大田町遺跡)  - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

明石市 大蔵谷 散策記 on 2018-4-29 その9 大蔵中町遺跡(最終回) - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

「神戸市内の遺跡調査で分かった神戸の歴史」を聴講して on 2017-10-15 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

旧山陽道(西国街道)関戸宿---岩国市 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

旧山陽道(西国街道)岩国市の小瀬-関戸 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

高家寺と太寺廃寺塔跡 on 2012-10-26 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp

 

長阪寺廃寺跡(長坂寺遺跡) : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 

姫路城と龍野 散策記 その14 たつの市立 龍野歴史文化資料館と龍野城 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 

 

 

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明石、魚の棚の「すし左衛門」でのランチ on 2021-10-28

2021年10月30日 06時11分52秒 | 神戸市以外の兵庫県

2021年10月28日、明石、魚の棚の「すし左衛門」で頂いたランチを写真紹介します。

初訪問のお店です。

すし左衛門の基本情報

住所:明石市本町1丁目5−18 TEL:078-939-5486 料理ジャンル:寿司、和食

営業時間:11:00~22:00 定休日:なし(無休) オープン日:2020年12月上旬

紹介サイト(食べログ):うお左衛門 明石魚ん棚店 - 山陽明石/魚介料理・海鮮料理 | 食べログ (tabelog.com)

 

当日は寿司ランチA 税込1,070円を注文しました。

上の写真がAランチ 1,070円(税込) 天ぷらと味噌汁がついています。お得なセットでした。

上の2枚の写真はお寿司と天婦羅のアップです。

注文はタブレットででき、敏速に処理されクイックに注文品が出てきます。

 

上の写真はAランチが掲載のメニュー表です。

上の写真は昼飲み居酒屋メニューです。

ここだと値段も安く安心して飲めそうです。当日は講演会で聴講する予定だったので

飲みたかったけど辛抱して飲みませんでした。

上の写真はお酒のメニュー表

上の写真はお店の外観です。

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明石の俳人 原田合浦の句碑と明石城本丸の巽櫓&坤櫓 on 2021-10-28

2021年10月29日 05時05分34秒 | 神戸市以外の兵庫県

2021年10月28日(木)、明石城にて明石が生んだ俳人、原田合浦の句碑の写真を

撮ってきましたので紹介します。

同時に句碑のある場所付近から撮った明石城本丸の巽櫓&坤櫓の優美な姿も紹介します。

 

上の2枚の写真が明石が生んだ俳人、原田合浦の句碑です。

句碑には次のように書かれています。

落葉降る 昔より降る 城の道 合浦」

設置場所は東の丸の南側の石垣の下にあります。

この句に因む「城の道」という煎餅も販売されているようです。関連サイトにリンク。

 城の道 | 手焼せんべい 富士の山菓舗「富士せんべい」 (senbei.fun)

この場所付近から撮った明石城本丸の巽櫓&坤櫓の優美な姿も写真添付します。

(下の4枚の写真)

原田合浦の句碑のある場所から50mほど西側んんんい行くと松平直明公遺愛お茶の水(井戸跡)

がありますのでこちらについても写真紹介します。

上の写真は石碑
 「松平若狭守直明公茶の水遺跡」と書かれています。
  昭和12年(1937)3月に建立

 

上の写真は井戸跡 草に覆われて判り難い写真となりました。

上の写真は現地説明板

松平直明公(まつだいらなおあきらこう)遺愛(いあい)お茶の水
一、八代城主、直明公在城中(一六八二〜一七〇一)日常この水を使用して
  お茶を点(た)てられた。
一、明石城内でもっともよい水の出る井戸として昔から親しまれてきた。

                     県立明石公園管理事務所
                     明石市教育委員会

より詳しい内容で下記ブログで纏めていますので参照頂ければ幸いです。

 明石城 松平直明公遺愛お茶の水 on 2019-3-23 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

明石城8代目藩主の松平直明は風流人でお茶の他に俳句をたしなみ明石市桜町8−19にある

史跡「白雲桜」について幾千枝の柳の兄や絲さくら」と詠んでいます。

白雲桜については下記ブログで書いています。

 明石市桜町 白雲の桜と白雲桜の碑 on 2019-12-8 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

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祝 オリックス 25年ぶりの優勝

2021年10月28日 07時14分18秒 | 神戸情報

プロ野球オリックスは2021年10月27日(水)、ロッテが楽天に1対2で敗れたため25年ぶり

の優勝が決まりました。

オリックスバッファローズの優勝は1995年、1996年「がんばろう神戸」で2連覇した

以来で25年ぶりの優勝でした。

セパ両リーグで昨年、最下位だったチームが優勝した事は史上初だそうである。

上の2枚の写真は読売テレビで本日(2021-10-28)朝の番組で放送されたオリックス

優勝の瞬間の報道

胴上げされる中嶋聡監督 及び ベンチから飛び出すオリックスナイン

尚、関西大学の宮本勝浩名誉教授によるオリックス優勝の経済効果は208億円だそうです。

 

【25年ぶりの快挙!】オリックスが優勝できた最大の要因について【プロ野球ニュース】

 

 

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解放運動無名戦士の碑 in 大倉山公園 on 2021-10-27

2021年10月28日 04時22分26秒 | 神戸情報

本日は神戸大学病院への通院の帰りに寄った大倉山公園にある「解放運動無名戦士の碑」を

写真紹介します。撮影日は2021年10月27日

上の2枚の写真は「解放運動無名戦士の碑」の遠景です。

上の写真は現地説明板。説明版の文は1990年4月、第60回兵庫県統一メーデーを記念して

兵庫県統一メーデー実行委員会により書かれたものです。

この碑は、兵庫県において労働運動を中心とする社会運動に参加し、その生を終えられた

人々を称えるために1965年(昭和40年)4月30日に神戸市立図書館の敷地内に建立されました。

披露されたのは1966年(昭和41年)5月1日の第36回メーデーで。

1979年4月には現在地に移された。

1961年1月8日、兵庫県総評、金属共闘など4団体で開催した兵庫県労働組合新年統一旗

びらきの際、戦前の労働運動・解放運動に尽力された方をお招きして懇談会を開催

したところ、参加者の中 から、兵庫県におけるこの闘いの犠牲者を顕彰し、その功績を

明らかにするため「無名戦士の碑」の建設の話が出され、当時、兵庫労働金庫理事長

であった故佐野芳雄さんを中心に発議され具体化しました。

1965年、兵庫県知事が坂本勝の時期に宮崎辰雄神戸市助役の計らいで、社会・民社・共産

の3政党と総評・同盟の二大労働組合組織が共同で建てられました。

毎年10月2日には、新たな物故者が合祀し追悼行事が行われています。

下記サイト(連合兵庫)に2015年10月2日に行われた追悼行事の様子が紹介されています。

 第36回無名戦士の碑合祀祭|お知らせ・活動内容 |連合兵庫 (rengo-hyogo.jp)

また、5月1日にはメーデー参加者全員によって先人を偲び黙祷・献花されます。

兵庫県解放運動無名戦士の碑の設計者は「光安安義」氏

上の写真は「とこしえの平和を」と書かれた文。

筆跡は兵庫県出身の経済学者「大内兵衛」氏

上の写真は解放運動無名戦士の碑の設置場所を示しました。(赤字の場所)

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第93回 明石公園 菊花展覧会が開催されています

2021年10月27日 04時56分03秒 | 神奈川県情報

第93回 明石公園 菊花展覧会(平日10時から16時、土日9時~17時)が開催されています。

私は10月26日に訪問して写真を撮ってきました。

撮った写真の中から特に印象に残ったものをピックアップして紹介します。

尚、菊花展の開催期間は2021年10月23日(土)~11月14日(日)です。

第1回の明石公園菊花展覧会は大正15年(1926)の6月12日に住友会が誕生。

初代の住友会会長「木下吉左衛門」が初めて菊花展覧会を開催。

会期40日間、観覧者20万人と記述されています。

木下吉左衛門は神戸市垂水区の舞子にある木下邸の所有者であった人物です。

(昭和27年(1952)に木下吉左衛門の所有となった)

上の写真はJR明石駅構内コンコースの展示作品

上の写真は明石城の堀のフェンスに架けられた横断幕

上の3枚の写真は意匠花壇の展示と説明文

全国豊かな海づくり全国大会明石プレ大会開催にちなんで、旧波門崎灯籠堂(明石港旧灯台)

が意匠花壇のメイン展示として存在感を示しています。

旧波門崎(はとさき)燈籠堂は通称「明石港旧灯台」。明暦3年(1657)5代藩主の

松平忠国が建てたとされ、現存する石造りの旧灯台としては日本最古で平成26年(2014)

4月25日に国の登録有形文化財(その他工作物)に指定されています。

旧波門崎灯籠堂は明石の水運と商工業の発展に貢献した。

さらに詳細は下記ブログで書いています。

 明石港の旧波門崎(はとさき)燈籠堂 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

上の2枚の写真は福助花壇と解説文

上の写真は菊花展覧会のメイン会場の遠景

上の写真はドーム菊花壇の展示

上の写真は大菊鉢組の展示

上の写真は立懸崖鉢個別(左)と小懸崖鉢個別(右)

上の写真は小品盆栽

上の写真は記念撮影用のスポット

上の2枚の写真は学校園花壇

上の写真は時のわらし意匠花壇

上の写真は入口の立て看板

上の写真は当日、入手したリーフレット表紙

最後にリーフレットより会場案内図を添付して筆を置きます。(下の写真)

 

過去の訪問記

 第91回 明石公園菊花展覧会 on 2019-10-26 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

 第87回 明石公園 菊花展覧会 on 2015-10-29 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

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第6回 MOA美術館 神戸たるみ児童作品展 in レバンテ垂水2番館1階ホール(終了)

2021年10月26日 04時35分45秒 | 神奈川県情報

第6回 MOA美術館 神戸たるみ児童作品展が2021年10月21日(木)から10月25日(月)

にレバンテ垂水2番館1階ホールにて開催され、私は10月25日に観覧しました。

この展示会は子供達の豊かな心を育てようとMOA美術館(公益財団法人岡田茂吉美術文化財団)

とMOA美術館神戸たるみ児童作品展実行委員会が主催し神戸市垂水区の小学校20校から

375点の応募の中から選考され81点の入賞作品が展示されました。

児童の作品は日常に体験し印象に残ったこと、将来への希望など夫々の思いを素直に表現

されたものが多く児童の心をはぐくむ教育として良いものと感じました。

過去の参加校の数と応募作品数が掲示されていましたので転記しておきます。

 第1回(2016年) 参加校19校  作品応募数307点

 第2回(2017年) 参加校18校  作品応募数257点

 第3回(2018年) 参加校20校  作品応募数378点

 第4回(2019年) 参加校21校  作品応募数363点

 第5回(2020年) コロナウイルス感染拡大防止のため中止

 第6回(2021年) 参加校20校  作品応募数375点

 

上の6枚の写真は入賞作品群の遠景です。

神戸市長賞など特別賞を受賞した作品には審査委員会の評が記されていました。

 

MOA美術館について

 当日配布されていたリーフレットよりMOA美術館を紹介します。

 箱根の美術館には行ったことがあります。

 

関連サイト

 児童作品展ページ | MOA美術館 | MOA MUSEUM OF ART (moaart.or.jp)

 

 

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歌舞伎の誕生物語と出雲阿国 NHK 知恵泉「出雲阿国 新たな文化を創り出せ!」より

2021年10月25日 06時49分10秒 | Weblog

2021年10月12日放送先人たちの底力 知恵泉「出雲阿国 新たな文化を創り出せ!」

で歌舞伎の誕生物語と出雲阿国が紹介されていました。

本ブログではこの番組で紹介された写真を利用して表題のテーマに迫っていきます。

画像提供:京都国立博物館

 

歌舞伎はいつ誕生したのか

 出雲阿国が慶長8年(1603)5月6日、禁裏女院御所でかぶき踊りを披露したと

 慶長目件録に記載されています。

 上記根拠により1603年5月6日に歌舞伎が誕生したとされています。

 

 

 

上の写真は京都市の南座近くの四条大橋の東詰め北側にある出雲阿国の銅像

かぶき踊りの前身、ややこ踊り

上の写真は歌舞伎図屏風で描かれた「ややこ踊り」

少女(アイドル)による踊りが特徴

 

上の写真は現在も伝承されている新潟県柏崎市の「綾子舞」ややこ踊りの流れを汲んで

いるそうです。綾子舞は国指定重要無形民俗文化財となっています。毎年9月第二日曜日に公開

綾子舞現地公開 小歌踊 田舎下り踊(下野)

綾子舞現地公開 小歌踊 因幡踊(高原田)

令和3年度の綾子舞はコロナの関係で現地公開は中止されYoutube で配信されました。

上の写真は公家の近衛家の屋敷で女芸能者が踊りを演じたと記した時慶卿記

上の写真は御所でややこ踊りが行われたと記した御湯殿上日記

出雲の巫女が舞を踊ったとも記されています。

ややこ踊りは若くなければ踊ることはできず出雲阿国は今後どうするか悩みます。

出雲阿国の知恵① 新しい組み合わせ

異性装

真ん中の刀を持っている人物が男装をした出雲阿国

番組の解説では見得をきっているところと解説

上の写真は男装に関する記述(当代記)

上の写真は現在の歌舞伎公演で見得をきっている場面

ここで観客が「いいぞ」と声を掛けることを「大向こう」と言うそうです。

出雲阿国はややこ踊りを離れて3年後の慶長8年(1603)5月6日、禁裏女院御所でかぶき踊り

を披露したとの記録(慶長日件録)を残すことになります。前述のとおり。

上の写真は別の演目で出雲阿国が男装して出演 男の役者は女装しています。

異性装については過去にもその例があり、女性が男装した白拍子や織田信長の女装姿

(上の2枚の写真)

 

笑い

 

演出

上の写真は重要美術品 阿国歌舞伎草紙(踊り念仏)よりで能で必ず出てくる

亡霊を登場させています。下の写真の右下の明るいした人物が亡霊

 

上述の3つ工夫

 ①異性装

 ②笑い

 ③演出(亡霊の登場など)

により出雲阿国らが演じる阿国歌舞伎は京の都で民衆に受け入れられ人気を博した

京都で名声を得た阿国歌舞伎であるが、この演劇を真似をした芸能が出てくる

その代表格が遊女歌舞伎である。(下の写真)

そこで、出雲の阿国は民衆の「内なる思い」を表現するため京を離れ地方公演の旅に出ます

出雲阿国の知恵② 民衆の「内なる思い」を表現

出雲阿国はかぶき者に注目して誇張して表現していきます。

また、念仏踊りの手法も取り入れていきます。

当時の女性たちにも阿国歌舞伎は広く受け入れられ阿国歌舞伎は全国規模でさらに

広く民衆の心を掴むようになります。

宣教師のルイス・フロイスは当時の女性(妻)たちの様子を上の写真の様に評しています。

 

女歌舞伎の禁止と野郎歌舞伎

上述したように、出雲阿国が広めた阿国歌舞伎はあまりにも隆盛となり、幕府にとって

不都合となり寛永6年(1629)幕府により女歌舞伎が禁止されます。

そこから生まれてきたのが現在も継続している野郎歌舞伎となります。

上の写真は野郎歌舞伎図絵巻で描かれた野郎歌舞伎

元禄時代(1688-1704)の有名な歌舞伎役者を挙げておきます。

坂田藤十郎(1645~1709)は、元禄期に上方で近松門左衛門の脚本を多数上演。色男の優美な所作を演出する恋愛劇(和事)の芸を創始した。

芳沢あやめ(1673~1729)は、女らしさの表現に優れた女形で知られる。元禄期に上方で活躍、傾城(けいせい)(高級な遊女)役を得意とした。

初代市川団十郎(1660~1704)は、江戸歌舞伎を代表する役者で、上方の坂田藤十郎と並び称せられる名優。豪快な立ち回りの演技(荒事)を創始した。初代の父が成田山新勝寺(千葉県成田市)近くの出身で、同寺との縁が深く、ゆえに屋号は「成田屋」。

出雲阿国の生誕地

 出雲で生まれた説の他に京都洛北の出雲路河原で生まれた説もあります。

 

関連ブログ

 過去に出雲阿国について書いたブログにリンクしておきます。

 出雲の阿国の所縁の阿国寺と阿国の墓 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

最後にWikipediaより出雲の阿国の略歴を引用紹介し筆を置きます。

概要 

出雲 阿国(いずもの おくに、元亀3年(1572年) - 没年不明)は、安土桃山時代の
女性芸能者。ややこ踊りを基にしてかぶき踊りを創始したことで知られており、
このかぶき踊りが様々な変遷を得て、現在の歌舞伎が出来上がったとされる。 
一般的には、彼女による「阿国歌舞伎」の誕生には名古屋山三郎が関係しているとされ、
「山三郎の亡霊の役を演じる男性とともに踊った」といった解説がなされることが多い。
 お国が演じていたものは茶屋遊びを描いたエロティックなものであり、
お国自身が遊女的な側面を持っていたという可能性も否定できない。 
なお、現在では「出雲の阿国」「出雲のお国」と表記されることが一般的であるが、
彼女の生存時の歴史資料にはこのような表記は発見されておらず、
これらの表記は、口伝を筆記したもの、あるいは、17世紀後半以降、
彼女が伝説化してから広まったものと考えられる。

没年については、慶長18年(1613)、正保元年(1644)、万治元年(1658)

など諸説ある。1658年だとすれば享年は86歳で当時としては長寿を全うした 


生涯

出雲国杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘であり、出雲大社の巫女となり、
文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったとされている。 
慶長5年(1600年)に「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録
(時慶卿記)があり、この「クニ」が3年後の慶長8年(1603年)に
「かぶき踊」を始めたと考えられている。 
『当代記』によれば京で人気を得て伏見城に参上して度々踊ることがあったという。 
当初は四条河原の仮設小屋で興業を行っていたが、やがて北野天満宮に定舞台を張るに至った。 
慶長8年(1603年)5月6日に女院御所で踊ったという記録があり、
文献によって踊ったものの名称が「ヤヤコ跳」「ややこおとり」「かふきおとり」と異なっている。
この事と記述の内容から考えて、慶長8年5月からあまり遡らない時期に
かぶき踊(かぶき者)というあらたな名称が定着したと考えられている。
内容面でもかわいらしい少女の小歌踊と考えるややこ踊から、
傾き者(かぶきもの)が茶屋の女と戯れる場面を含むようなものに質的に変化したと考えられている。 
お国のかぶき踊りは、名古屋山三郎役の男装したお国と、
茶屋の娘役として女装したお国の夫・三十朗が濃密に戯れるものであった。
一座の他の踊り手も全て異性装を特徴としており、観客はその倒錯感に高揚し、
最後には風流踊や念仏踊りと同様に出演者と観客が入り乱れ熱狂的に踊って大団円となった。 
このように、お国がかぶき踊りを創始するに際して念仏踊りを取り入れたとする
記述が一般向けの解説書や高校生向けの資料集により一般的であるが(山川出版
『詳細日本史図説』、『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』)、この従来説に対して、
ややこ踊の一座やお国が念仏踊りを踊った可能性は低いと主張する者もいる。 
阿国は慶長12年(1607年)、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息が途絶えた。
慶長17年4月(1612年5月)に御所でかぶきが演じられたことがあり、阿国の一座によるものとする説もある。 
没年は、慶長18年(1613年)、正保元年(1644年)、万治元年(1658年)など
諸説あり、はっきりしない(二代目阿国がいたのではないかという説もある)。
出雲に戻り尼になったという伝承もあり、出雲大社近くに阿国のものといわれる墓がある。
また、京都大徳寺の高桐院にも同様に阿国のものといわれる墓がある。
なお、旧暦4月15日(現在では新暦4月15日とも)が「阿国忌」といわれている。

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