CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

2011年10月21日 原子力安全委が原発事故防災対策区域見直し案公表

2011年10月23日 17時22分44秒 | Weblog


2011年10月21日に 原子力安全委は原発事故防災対策区域見直し案を
公表しました。

上記の写真は神戸新聞2011年10月22日(土)の朝刊です。上記の
原発事故防災対策区域見直しで、半径50Km圏内を放射性ヨウ素対策
区域に設定した場合、兵庫県の豊岡市、丹波市、篠山市の一部が
関西電力高浜原発(福井県)から50Kmの圏内に入るため屋内退避や
安定ヨウ素剤服用などの対策を準備する必要がでてきた。

防災対策を重点的に充実すべき地域=EPZ(Emergency Planning Zone)
の範囲を原子力発電所から半径約8-10Kmとしていた現行指針から
範囲を大幅に拡大しただけでなく、時間的な要素を加味した
3段階に分けた考え方を取り入れているのが特徴となっている。

まず、事故が発生した際、放射性物質が放出される前に直ちに
避難を実施するなどの計画を策定しておく
1)予防的防護措置を準備する区域=PAZ(Precautionary Action Zone)を設定、区域の範囲の目安を原子力発電所から3~5Kmで5Kmを推奨
とした。さらに、予測的手法ではなく事故発生後の計測可能な
判断基準である運用上の介入レベル(OIL)に基づいて避難、
屋内退避などを準備する区域を設ける。
2)緊急時防護措置を準備する区域=UPZ(Urgent Protective Zone)
設けている。この区域では、防護措置の計画を予め策定するほか、
OILに基づく判断を行うため、放出された放射性物質の環境への
影響を把握するための環境モニタリング体制を整備する。
この区域の範囲は概ね30Kmとしている。
IAEAの国際基準では5~30Kmとなっている。

この2つの区域に加え、今回新たな考え方に基づく
3)プルーム通過時のヨウ素による甲状腺被ばくを避けるための屋内退避、
ヨウ素剤服用等の対策を準備する区域=PPZ(Plume Protection Planning

が盛り込まれた。
この区域では放射性ヨウ素による甲状腺被ばくを防ぐための屋内退避や、
安定ヨウ素剤の服用などの防護措置を実施するための計画を
あらかじめ策定しておくとされている。

新しい国際原子力機関(IAEA)の安全基準によると、安定ヨウ素剤を
服用する基準は予想される被ばく線量が100mSvから50mSvに
引き下げられた。
この基準と福島第一原発事故後の甲状腺被ばく量の推定値を参考に、
この区域の範囲として概ね50Kmという参考値が示されている。
屋内退避や安定ヨウ素剤の配布など防護措置計画については
今後検討が必要であるとなっている。
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デジブック 『無動寺』

2011年10月13日 18時03分21秒 | Weblog
デジブック 『無動寺』


無動寺の紹介をしています。
無動寺の基本情報
詠み方:無動寺(むどうじ) 山号:若王山(にゃくおうざん)
神戸13仏 第12番霊場
宗派:真言宗 高野山派  公式HP住所:神戸市北区山田町福地字新池100    
TEL:078-581-0250

本堂の内陣に木造釈迦如来坐像、木造阿弥陀如来坐像の三尊が最後列に鎮座
されています。撮影禁止なので神戸市立博物館の第3回特別展 「神戸の文化財」
昭和58年4月12日-5月29日の冊子から撮らせていただきました。
彩色の彫刻作品ですので、無動寺のHPの方が現物の雰囲気が出ていると思います。

今回の訪問で上記の三尊のほか、同じく国の重要文化財の木造不動明王坐像、
木造十一面観音立像さらに県の重要文化財の阿弥陀如来坐像と
文化財には指定されていませんが地蔵菩薩像も見ごたえのあるものでした。

特に木造大日如来坐像は約2.7mの像で心の洗濯にはすごくいいと思います。
これらの像を観れたことが今回訪問の最大の収穫であった。
如来は真理に目覚めた者(覚者)の意味で大日如来には一般的な智拳印の印相
を備えています。
すべての現象は宇宙の森羅万像をその内に包み込む大日如来の本質の現われである
と考えるのが密教です。
従って、密教では釈迦如来をはじめとする如来、菩薩、明王はすべて大日如来の
化身であるとされています。
智拳印の印相から  無動寺の大日如来は叡知をつかさどる金剛界大日如来で
あることが判ります。
慈悲の面をつかさどる胎蔵界大日如来の場合は、法界定印を結んでいます。

こちらの小生のBlogでも紹介しています。
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デジブック 『ハンター邸』

2011年10月06日 17時51分01秒 | Weblog
デジブック 『ハンター邸』


旧ハンター邸の基本情報
住所:神戸市灘区青谷町1-1-4(王子動物園内)
建築主:エドワード・ハズレット・ハンター
設計:A.N.ハンセル (Alexander Nelson Hansel)の説あり
昭和41年(1966)6月11日に国指定の重要文化財(建造物)に指定

エドワード・ハズレット・ハンターEdward Hazlett Hunter
1843年2月3日生まれ - 1917年6月2日没について Wikipediaより引用
イギリス人実業家で範多財閥・日立造船の創業者。造船業を中心に産業育成を
通じて日本の近代化に尽力した。
慶応3年(1867) - 横浜に来日。
明治6年(1873) - 神戸にハンター商会 (E.H. Hunter & Co.) を設立。
明治14年(1881) - 大阪安治川岸に大阪鐵工所 (Osaka Iron Works) を創立。
              後に日立造船、現在はユニバーサル造船に発展
20歳の頃、アジアを目指して帆船に便乗して、オーストラリア、香港、上海を経て
慶応3年(1867年)横浜で貿易事業に携わった。
大阪に移住した頃から、外国人居留地に出入りしていた、大阪川口居留地の近くに
住む薬種問屋・平野常助の娘平野愛子と結婚し、長男は生後間もなく死亡したため、
明治4年に誕生した男児リチャードを嫡男として、戸籍では母親の姓をとり
平野龍太郎(後に範多龍太郎と改名)と名づけた。続いて長女ふじ子が誕生。
明治17年2月29日にハンスこと範三郎(範多範三郎と改名)、その下に
エドワードこと英徳が生まれたが、いずれも当初は日本国籍。
ハンス範三郎は後に実業家として地歩を固めた。
国産第一号のトロール船を明治41年に完成させ、後に日本の大半のトロール船を
製造するまでになる。
このトロール漁法の実用化のために、長崎五島列島沖で奮闘したのが、グラバーの
息子・倉場富三郎である。、鉄工と造船業の他にも、煉瓦や肥料、煙草、精米、
損害保険など様々な事業を起こし範多財閥を形成した。また造船場で働く工員の
ために日本で初めて障害保険を導入した。

明治15年に、範多商会を開業。この会社の輸出する精米は年間一万トンにのぼり、
ロンドンの穀物市場の標準米になったともいわれる。
E・Hハンターは数多くの基幹産業を経営すると同時に、神戸市発展のため
公共事業にも貢献。幕末に結ばれた不平等条約の改正も英国本国に働きかけるなど、
力を尽くした。日本の近代化に長年尽くした功績により、
明治42年(1909年)勲五等双光旭日章を贈られている。
当時の外国人としては破格の栄誉だった。

ハンターは文化面でも貢献している再度山の大龍寺の上の方に善助茶屋があり
早朝登山を楽しんだ旧居留地の外国人などが休憩所として利用していた。
また、善助茶屋の親父が気をきかしてサインブックを置き登山のたびにサイン
して帰る習慣が生まれた。神戸における毎日登山のおこりである。
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ハンター邸

2011年10月06日 07時34分30秒 | Weblog
2011年10月3日(月)、昭和38年(1163)に王子動物園へ移築された旧ハンター邸の
写真を撮ってきましたので紹介します。

(創建)明治22年(1889)頃ドイツ人のA.グレッピー氏が英国人の技師に依頼して建造
    場所は神戸市中央区北野町 元トーア・ホテル跡
(移築・改造)明治40年(1907)に神戸市中央区北野町3丁目130番地に移築
  棟札に「上棟式範多氏」「40年5月吉日 棟梁芝嶋吉 建」と墨書きされているそうです

  常徳山のふもとのこの土地は藤田清左衛門から譲り受けたもので敷地は3千坪あった。

平成23年(2011)3月に外壁の塗装修理が実施されたそうです。

旧ハンター邸の基本情報
住所:神戸市灘区青谷町1-1-4(王子動物園内)
建築主:エドワード・ハズレット・ハンター
設計:A.N.ハンセル (Alexander Nelson Hansel)の説あり
昭和41年(1966)6月11日に国指定の重要文化財(建造物)に指定

ハンター邸のデジブックによる写真集をお楽しみください

写真を1枚載せておきます(下の写真)
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2代目 南極観測船 しらせの一般公開 in神戸 on 2011-9-25

2011年10月02日 06時54分29秒 | Weblog
2代目 南極観測船 しらせの一般公開 in神戸 on 2011-9-25


南極観測船の性能比較表の写真を掲載しています。
宗谷の時代に南極の氷に阻まれて動かれなくなりソ連の砕氷船に救出されたことが
記憶に残っています。
尚、歴代の南極観測船は下記の場所で見れます。
「宗谷」→東京・お台場の船の科学館前に係留。一般公開中。
「ふじ」→名古屋港に係留。一般公開中。
「しらせ(初代)」→2005年の高松寄港時に見学。現在は船橋港に係留。
「SHIRASE」と改名して一般公開中。

搭載ヘリコプター(航空機) CH-101型ヘリコプターの写真も掲載しています。
参考としてUSAの大型輸送ヘリコプターCH-53E Sea Dragonについて
小生のBlogにリンクしておきます。


Shirase (2008 icebreaker)の解説 ByWikipedia

しらせの映像 By You Tube
kumao0526 さんが 2009/06/04 にアップロード
   南極観測艦・砕氷艦2代目「しらせ」の一般公開の模様です。

関連Blog

2011-9-24の訪問記 By  shin-nagata.infoさん

ペスカトーレ黄の7号軍曹さんのBlog

長崎港 出島岸壁(水辺の森公園)での一般公開 2011年9/17&9/18

2代目しらせの解説 By Wikipedia
日本においては、文部科学省・国立極地研究所などが中心となり、
1956年(昭和31年)より南極観測を行っている。1982年(昭和57年)からは
三代目南極観測船「しらせ」を用いて、南極への南極地域観測隊・物資の
輸送や観測を行ってきた。

先代しらせは20年以上運用され、その老朽化に伴い後継艦が必要とされる
ようになった。2002年(平成14年)に文部科学省が予算請求を行ったが、
折衝により計上されず、2003年(平成15年)にも再度予算請求したが、
財務省原案に盛り込まれなかった。その後、復活折衝によって
艦体設計予算(5億円)、搭載ヘリコプター製造費初年度分(26億円)の
予算計上が認められ、2007年(平成19年)にユニバーサル造船舞鶴事業所で
起工、2008年(平成20年)4月16日に進水式が挙行された。

排水量は当初「20,000t」を予定していたが、予算問題の関係から、
「しらせ(初代)」の「11,500t」より一回り大きな「12,500t」となった。
これにより、輸送可能物資が約100t増加し、1,000tから1,100tになる。
また、搭乗可能人数も増える。

砕氷能力を向上させた独特の曲面形状の艦首や、砕氷補助設備として
船首散水装置など改良された砕氷設備を持つ。南極観測船の搭載ヘリは
「タロとジロの悲劇」以来、出来るだけ高性能なものを配備してきたが、
今回は大型機であるCH-101を2機および小型機のAS355を1機の
計3機搭載する。このため、艦の後部にはヘリコプター甲板を有する。

推進方式は先代しらせ同様ディーゼル・エレクトリック方式を採用、
出力30,000馬力も先代と同じだが、パワーエレクトロニクスの進化を受けて、
電動機はPWMインバータで交流電動機を駆動する方式となった
(艤装を勤めた初代航海長によると「統合電気推進と言える」)。
最新の観測船であるので、貨物積降時間の短縮を図ったコンテナ方式の
荷役システム、砕氷力の向上と船体塗装剥離による海洋汚染の防止を
目的とした喫水付近のステンレス外装、新型ヒーリング(横揺れ防止)装置
といった新機能を持ち、艦内設備も、南極の環境保全のために
廃棄物処理用の設備が充実されており、南極観測基地からの廃棄物
持ち帰りにも期待が持たれている。

なお、予算問題により建造が遅れたため、しらせの退役と本艦の就役まで
の間に1年の間隔が空いている。そのため、2008年(平成20年)の
50次観測隊は、文部科学省がオーストラリアから民間砕氷船
「オーロラ・オーストラリス」をチャーターし、南極に送り込んだ[1]。
奇しくもこの砕氷船は、先代「しらせ」によって、ビセット時に救助されている[2]。

新船しらせは、進水後、最終艤装・試運転等を経て、2009年(平成21年)
5月20日に、ユニバーサル造船舞鶴事業所において、竣工式・艦旗授与式
が挙行され、その後、母港となる横須賀港に向けて出港到着。
2009年11月10日に東京晴海埠頭より出港した、第51次南極観測隊
活動支援から運用されている。

2011年3月11日に発生した東日本大震災の支援に、南極観測から
帰還途上の本艦の輸送力の使用を検討され、シドニーでの積み卸しを
2日に短縮するなどで、当初予定より約1週間早い4月5日に横須賀に
帰港したが、本艦の喫水の深さや東北主要港湾の水中障害物撤去が
未了などから、輸送への投入は見送られている。
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