CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

プレカリアート  Precariat

2009年07月27日 07時25分23秒 | Weblog
以下プレカリアートについてWikipediaより要約引用させていただきます。

「プレカリアート(英precariat、仏précariat、伊precariato)とは、
「不安定な」(英precarious)と「労働者階級」(独Proletariat)を
組み合わせた語で、
1990年代以後に急増した不安定な雇用・労働状況における非正規雇用者および
失業者を総称する語。
国籍・年齢・婚姻関係に制限されることなくパートタイマー、アルバイト、
フリーター、派遣労働者、契約社員、委託労働者、移住労働者、失業者、
ニート等を包括する。
広義では、貧困を強いられる零細自営業者や農業従事者等を含めることもある。」

さらに母子手当て不受給のシングルファーザー、無年金者なども含む社会的に
保障されていない不安定な労働者を総称する言葉である。

類似語としてワーキング プアー Working poor(NHKの特集報道で急にみんなが
知る言葉となった)がある。

プロレタリア文学の代表作として知られる小林多喜二の80年前の作品「蟹工船」
も注目を集めている。

言葉の説明だけに終わりますが、今後、若者が将来に希望をもって生きれる社会を
つくる為の政策と財源確保の為の施策を政治及び官僚に対し期待したい。
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インカ帝国とミイラ

2009年07月18日 21時08分23秒 | Weblog
インカ帝国とミイラを主題として記事を書きます。

2007年7月1日(日)午後9時~9時59分NHK総合テレビの再放送が
NHK BSハイビジョンで2009-7-16の午前中にあり視聴した。

標題は失われた文明 インカ・マヤ 第1集 アンデス ミイラと生きる

インカ帝国の前身となるクスコ王国は13世紀に成立し初代の皇帝は
マンコ・カパックである。
クスコ王国はケチュア族が母体で、自分たちの国をタワンティンスウユ
(Tawantin Suyu )と呼んだ。
その意味は「4つの部分が集まったもの」であり、事実、最終的には
インカの国土は4つの州または4つの部分から成り立っていた。

征服の歴史は以下のとおりである。
大インカ帝国の王国建設のための征服活動は、第8代のビラコチャのときに
始まったとされている。
1438年ごろ、クスコが巨大なチャンカ国に侵略されたとき、ビラコチャは
皇太子のウルコン王子を連れてクスコを離れた。
インカ・ユパンキ王子はクスコに留まって防戦し、チャンカを追い払った。
この王子が1438年に第9代王として即位したパチャクティである。
このパチャクティの政権は1471年まで続く。
第10代はトゥパク・インカ・ユパンキ で1471年から 1493年まで続き
この時代の1476年ごろこのインカ帝国の体制が完成したとされている。
さらに征服戦争は第11代ワイナ・カパック(在位:1493年 - 1527年)まで続き、
1533年にスペイン人のコンキスタドールに滅ぼされるまで続いた。
最盛期には、インカ帝国は80の民族と1,600万人の人口をかかえた。


上記のインカ帝国が栄えたアンデス各地で、いまミイラの発見が相次いでいる。
特にクスコの南西の海岸沿いの砂漠地帯イロ(ilo)周辺から出土したミイラを日本の科学者
国立科学博物館の篠田謙一氏他はDNA分析などで分析し、さらに年代分析の結果
ミイラは今から500年前から2,700年前のものであることが判明した。
現地でのミイラの研究者はソニア・ギエンである。

太陽神を信仰した住民たちは、皇帝を神の子として崇拝しインカ帝国の繁栄につくした。
すまわちインカ皇帝も死後ミイラとなり、生きた存在として自分の領土を保有し続けた。
相続を受けられない次の皇帝は、新たな領地を求めて、各地に遠征を続けた。
そのためインカ帝国は、皇帝が変わる度に領土を増やし、急速に拡大した。
年に一度の太陽の祭りでは皇帝のミイラを輿に乗せ、他の皇帝ミイラを尋ねる儀式もあった。

 
アンデスのミイラは、家の一角に置かれ、服を着せ食事を与えるなど、
「生きている存在」として扱われていた。人々はミイラと共に暮らしていた。
その伝統は今も残る。自分の子供を幼いときに失った両親は子供が死後も
困らないようにたくさんの食料や日強品を副葬品としてミラと一緒に埋めた。
インカ帝国にはカパコチャという、子供をいけにえにし神に捧げる習慣もあった。
今でもリャマの心臓を生贄に捧げる儀式が残っている。

1532年、現在のペルー北部の港にフランシスコ・ピサロが上陸し、
168人のスペイン人を率いて、アンデス山中の町カハマルカへ向かった。
インカ帝国はその頃、王位継承を巡って激しい内乱状態にあった。
12代皇帝ワスカル(在位:1527年 - 1532年 )は南北に伸びた領土の
各地の先帝のミイラを一つにまとめようとした。
スペイン軍は、この混乱に乗じて、カハマルカで鉄砲と馬を使った奇襲攻撃を展開。
皇帝を護衛していた4,000人の半数があっけなく討ち死にした。
ついに最後の皇帝(第13代)となったアタワルパ(在位:1532年 - 1533年)
も捕らわれ、監禁された。
ピサロは身代金として部屋いっぱいの黄金とその2倍の銀を要求。
これに応え、皇帝は国中から集めた金銀を差し出した。
だが、宝を手に入れたピサロは非情にもアタワルパを処刑。ここにインカ帝国は滅亡した。
インカ帝国を滅ぼしたスペイン侵略軍を率いたF・ピサロも暗殺された後ミイラ化された。
現在リマ市のカテドラル(中央大寺院)の中にある礼拝堂のガラスケースの中に
全裸のミイラ姿で収められている。
なぜスペイン人であるピサロがミイラにされたのか----謎が残る。

マチュピチュはアンデス山中で発見され、「空中都市」とも呼ばれるインカ帝国最後の砦である。
今後、機会があれば是非行ってみたい場所である。

インカ帝国関連の旅行記にリンクさせていただきます
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縄文時代の生活

2009年07月15日 05時32分30秒 | Weblog
縄文時代は今から1万3000年前から2300年前の時代を
総称しており約1万1000年続いた。
縄文時代の生活について神戸市文化財センターの展示より
写真紹介します。


上の写真は縄文時代の生活を示す絵で海辺での貝(ハマグリ、ハイガイなど)
の採集やカツオ、マグロ、イルカ、クジラ、その他の小魚の漁撈(ぎょろう)
ハシバミ、クリ、ドングリ、クルミ、シイ、トチの実の採集
シカ、イノシシ、アナグマの狩猟や土器づくりなどが描かれています。



上の写真は季節別の縄文人の食べ物を例示したものです。



上の写真は縄文人の主食を示したもので、貝類、ドングリ、クリ、イノシシの肉
が主な食事の内容だったようです。縄文人
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太閤堤 宇治川右岸で発見 REV1

2009年07月14日 06時37分34秒 | 宇治情報

2007年9月8日の土曜日に標題の説明会があり行って来ました。
当日配布資料より簡略して太閤堤について説明いたします。
1.発掘調査のきっかけ
今回の発掘調査は京阪宇治駅西側一帯に計画された
土地区画整理事業に伴うもので弥生時代から
古墳時代にかけての集落遺跡を中心とする乙方遺跡
保護のため文化財保護法に基づき実施されました
この中で宇治川寄りの調査区で今まで存在の
判らなかった宇治川旧護岸遺跡(太閤堤の一部)が
見つかった。
2.発掘された護岸遺跡の内容
幅5.5m、高さ2.2mの堤が南北に75mの
宇治川右岸護岸施設で江戸時代後期の洪水で
埋没して陸化していたため今まで存在が判らなかった。
護岸の構造は傾斜30度の法面の下端に径20cm
の松杭を打ち、割り石を数段積み上げて水流に備え、
上半分から天端(馬踏:ばふみ)にかけて割石を
きれいに貼り付け化粧しています。
石出は基部の幅9m、長さ8.5mの平面台形形状の
石垣積みです。
この護岸工事に使用された石は粘板岩で3kmほど
上流の天ヶ瀬ダム付近の川岸から切り出され船で
運搬されたものと考えられます。
昭和54年に見つかった填島堤遺跡でも同様の石が
使用されています。
3.太閤堤について
「太閤堤」とは、豊臣秀吉が伏見築城に伴い、
宇治川の川筋付け替えに関係して築いた堤防
のことで宇治から向島までの「填島堤」、
宇治から小倉までの「薗場堤」、小倉から向島までの
「小倉堤」の計12Kmの総称として一般に用いられています。
太閤堤の築堤開始は「村井重頼覚書」などによれば
文禄3年(1594)のことで、宇治川を
小椋池から切り離し、向島まで延長する填島堤から
工事が始まったとされています。
今回見つかった右岸の護岸に関する記録は
今のところ見つかっていません。

京洛主義へのリンク詳細記事あり

現地説明会公式サイト
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神の峰城跡

2009年07月06日 07時15分01秒 | Weblog
昭和52年(1977)3月9日から3月10日にかけて天竜峡附近を
旅行したときに知久氏の山城に寄りましたので
写真紹介します。(看板の写真のみ

住所:長野県飯田市上久堅8166-3
以下当時の案内板より要約引用させていただきます。

「神の峰床山城は信州諏訪氏の1派である知久氏信貞が正嘉元年(1251)
に築城したと伝えられている。
知久氏の所領は室町時代には下伊那の竜東一円さらに竜西の一部に
およんでいたが神の峰が本拠地であった。
天文23年(1554)武田信玄の伊那方面侵略で最後まで抵抗したが
落城した。本丸は現在NHKのテレビ塔のある附近である。
出丸は久堅神社SBCテレビ塔のあるところで眺望が良く標高771m
のところである。以下略」

神の峰城に関するWebサイト1

神の峰城に関するWebサイト2
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