CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

ジャーデン・マセソン商会の門柱 とジャーデン・マセソン商会

2014年03月29日 07時35分05秒 | 神戸情報
表題の内容について、過去に2つのブログを書いた。(下記サイト)

ジャーデン・マセソン商会の門柱

ジャーデン・マセソン商会

今回、これらの内容に若干追記をして紹介します。


ジャーデン・マセソン商会の紹介 By Wikipedia

ジャーディン・マセソン(Jardine Matheson Holdings Limited,
怡和控股有限公司)は、香港にヘッドオフィス(登記上の本社はバミューダ諸島・
ハミルトン)を置くイギリス系企業グループの持株会社。ロスチャイルド系であり、
米誌フォーチュン誌の世界企業番付上位500社の企業ランキング
「フォーチュン・グローバル500」(2009年度版)では世界411位。
創設から170年たった今日でも、アジアを基盤に世界最大級の
国際コングロマリット(複合企業)として影響力を持っている。


日本におけるジャーデン・マセソン商会の活動 By Wikipedia

1859年(安政6年)、上海支店にいたイギリス人ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の
子)が横浜(旧山下町居留地1番館、現山下町一番地)に「ジャーディン・マセソン商会」横浜支店を
設立。日本に進出した外資第1号としても知られる。後に吉田茂の養父・吉田健三が一時期、
同社横浜支店長を勤めていた。

鹿島によって建設された横浜初の外国商館である社屋は、地元民から「英一番館」と呼ばれた。
跡地には現在シルクセンター(国際貿易観光会館)が建っている。

1863年(文久3年)、ウィリアム・ケズウィックは井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉、伊藤博文の
長州五傑のイギリス留学を支援する。彼らの英国滞在は、ジェームス・マセソンの甥にあたる
ヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会・ロンドン社長)が世話した。

一方長崎でも、1859年9月19日(安政6年8月23日)に幕末・明治期の重要人物である
トーマス・ブレーク・グラバーが「ジャーディン・マセソン商会」長崎代理店として
「グラバー商会」を設立。現在はグラバー園として公開されている。グラバーは、五代友厚(薩摩)、
坂本龍馬(海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)等を支援した。

その他、神戸・大阪・函館にも代理店を置いた。


詳細はこちら

ジャーデン・マセソン商会(英文でJardine, Matheson & Co.)は1832年7月1日に広東で
設立され現在でも存続しているスコットランド系大商社である。
 現在のJardine,Matheson&Co.グループのホームページ




上の2枚の写真は神戸市中央区北野の一番の観光地である萌黄の館付近に1978年に移設された
ジャーデン・マセソン商会の門柱です。 撮影:2014-2-20


上の写真は説明書きで説明書きをそのまま引用させていただきます。


ジャーデン・マセソン商会の門柱

この煉瓦造りの門柱は、かつて旧外国人居留地83番の英国商館に建っていたものである。
明治37-8年ごろの建造になり、明治の名残りを留める貴重な文化遺産として、ここに 移し保存する。

    昭和53年秋     神戸市
               保存協力 山下新日本汽船株式会社
                    株式会社 大林組



神戸旧居留地83番の英国商館はハンセルの設計で建造され、写真については下記サイトで
紹介されておりリンクさせていただきます。


神戸の今と昔

神戸市立博物館の田井 玲子氏の近著「外国人居留地と神戸」2013年11月
    神戸新聞総合出版センター Page215に83番の経緯についての記述があります。

その中から旧外国人居留地83番(現在KDCビル)の経緯について補充&要約して記しておきます。

明治2年(1869) (英)ラルト商会 競売にて獲得 300坪 855円 百坪当たり単価 285円

明治19年(1886) イ・バイルン E.Byrne 証書及金銀塊中買入並ニ海上測量入
           Bill and Bullion Broker and Marine Surveyor

明治30年(1897) C.P.Low&Co.

明治38年(1905)Jardine, Matheson & Co.
          H.V.Henson,A.E.Cooper,A.J.Pumfrett,J.Henderson,J.P.Leite

大正8年(1919) Jardine, Matheson & Co.LTD.
          Agents for Indo-China Stream
          Navigation.LTD.;&c.
          C.Chicken.Agent.


















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オリエンタルホテル ステーキハウス ミディアムレアでのランチ on 2014-3-25

2014年03月28日 06時26分16秒 | 神戸情報
オリエンタルホテル17階のステーキハウス ミディアムレア Steak house Medium Rare でランチをいただきましたので写真紹介します。

撮影:2014-3-25

オリエンタルホテルの基本情報
住所:神戸市中央区京町25番地  
TEL:078-326-1500(代表) 078-326-1577(レストラン直通)
ジャンル:洋食


注文したのは一番安いハンバーグランチ 2,500円です。他にサービス料(10%)がかかります。
ステーキハウス ミディアムレア は19階にあり神戸の海側の景色が楽しめます。

前段にオリエンタルホテルについて引用解説しておきます。(神戸学検定公式テキスト)
オリエンタルホテルは現在は旧居留地26番にありますが昔は違う位置で幾度か
移転しており経営者も替わっています。明治3年(1870)ごろ居留地79番で
オランダ人のブリスが開業していた。その後フランス人ルイ・ビゴーが明治21年(1888)
ごろに京町筋の居留地80番で開業した。ビゴーが帰国後、閉鎖を惜しんだ
A・H・グルームら在神外国人が経営を受け継ぎ明治40年(1907)海岸通に移転した。
4階建ての堂々たる佇まいと伝統を受け継ぐ料理で関西一の洋食ホテルとして海外にも
知られていた。第2次世界大戦で消失したが再建の際、現在地に移動した。
昭和天皇、マリリンモンローらが利用するなど神戸を代表するホテルだったが、平成7年
の阪神淡路大震災で壊滅した。跡地には商業施設を併設した施設が建設され
「Oriental Hotel」として平成22年(2010)3月に開業した。




まず前菜が出てきます。


次にサラダが出てきます。


メインのハンバーグ。


ガーリックライスと赤みそ汁とお新香。
白いご飯にも出来ます。




デザートと飲み物。




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JR高円寺駅南の寺社めぐり その3 如法山 長善寺(赤門寺)

2014年03月27日 14時04分44秒 | 東京情報
2014年3月16日(日)、JR高円寺駅の南側にある寺社を散策しました。

今回はその第3回で如法山 長善寺(赤門寺)を写真紹介します。


第1回 宿鳳山 高円寺

第2回 高円寺氷川神社(気象神社) 


長善寺の基本情報

住所:東京都杉並区高円寺南2-40-50 TEL:03-3311-2922 FAX:03-3317-5688
宗派:日蓮宗 山号:如法山  開基:天正18年(1590)、圓立院日義上人

公式HP:http://www.tokyo-saibu.com/list/chozenji/index.html



上の写真が如法山 長善寺の全景です。

本堂の手前右側には日蓮聖人650遠忌の際に建立された日蓮聖人の銅像があります。

杉並区教育委員会による説明書きがありましたのでそのまま引用させていただきます。

当寺は如法山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は十界諸尊と日蓮聖人坐像です。
寺伝によれば天正十八 年(1590)円立院日義によって江戸府内の谷中(現台東区谷中)
に開創され、はじめは実蔵坊と
称していましたが、二世長善院日行の時に現在の寺号になったと伝えられています。
 その後五世日成の時代に谷中本村(現荒川区日暮里)の地に移転しています。
しかし、近代に入り国鉄路線拡張のために再び移転をよぎなくされ、大正十五年に高円寺の寺町の
一角を占める現在の地に移りました。昭和二十年末、火災で堂宇を焼失し現在の本堂は昭和34年に
再建されたものです。
 本堂左手前の三十番神堂は「新編武蔵風土記稿」に谷中本村の鎮守と記載されているもので、
天保四 年(1833)再建の古い建物です。堂内には法華経を守護するという三十体の番神が
祀られていますが、当寺のように三十番神像が全部揃っているのは都内でも珍しいといわれます。
 文化財としては江戸時代から既に知られて十羅利女像・毘沙門天像が安置されているほか、
鬼子母神像も所蔵されています。
 なお、墓地には徳川幕府の鍛金打物師として名高かった家城源七(文化十三年・1816没)の
   墓があります。

   平成16年3月  杉並区教育委員会
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JR高円寺駅南の寺社めぐり その2 高円寺氷川神社(気象神社) 

2014年03月26日 05時22分27秒 | 東京情報
2014年3月16日(日)、JR高円寺駅の南側にある寺社を散策しました。

今回はその第2回で高円寺 氷川神社(境内社の気象神社も含む)を写真紹介します。

高円寺 氷川神社の基本情報

住所:東京都杉並区高円寺南4-44-19
御祭神:素盞鳴命
公式HP:http://www.hikawajinjya.jp/detail.html

Google地図



上の写真は高円寺 氷川神社の遠景です。

鳥居の手前右手に杉並区教育委員会が作成された説明書きがありそのまま引用させていただきます。

高円寺 氷川神社

この神社は、旧高円寺村小名原の鎮守で、祭神は素盞嗚尊です。
創建については口碑によれば、天文年間(1532-1554)、村内曹洞宗高円寺の創建と同じ
頃といわれます。また社伝によれば源頼朝が奥州征伐の際、この地に着き、安達藤九郎盛長に
命じて社殿を建立させたとも、家臣の村田兵部某が高円寺村にとどまり農民となった時、大宮の
氷川神社を勧請して社殿を建立したのが起源ともいわれています。
しかし、詳細なことは詳かではありません。
当社は、「新編武蔵風土記稿」多摩郡高円寺村氷川社の条に「除地四段三畝十歩、
外に供免一段五畝、小名原にあり、是も鎮守なり、本社三尺四方南向、上屋二間に三間、
木の鳥居をたつ、村内高円寺の持」と記されており江戸時代には、原の鎮守様として農民の信仰を
集め、高円寺が別当職を務めていたといわれます。明治七年、村社となりました。
境内には、三社の末社が祀られていますがなかでも気象神社
(祭神八心思比顕命・やごころおもいかねのみこと)は、全国でも数少なく、非常に珍しい神社です。
この社は、戦時中、旧馬橋四丁目にあった陸軍気象部内にあったものですが、
戦後、関係者の要請で当神社の境内に遷されました。

例祭日は、八月二十八日です。

昭和59年3月
 杉並区教育委員会









上の3枚写真は高円寺 氷川神社の拝殿と本殿です。






上の2枚の写真は全国でも唯一の気象神社です。
Wikipediaより気象神社の解説を引用させていただきます。

気象神社
気象神社の祭神は八意思兼命。

元は、馬橋4丁目(現在の高円寺北4丁目)にあった大日本帝国陸軍の陸軍気象部の構内に、
1944年(昭和19年)4月10日に造営されたものである。
この神社前で勤務前に気象観測員が気象予報の的中を祈願したという。
戦後の神道指令で撤去されるはずであったが、連合軍宗教調査局の調査漏れで残存した。
そこで当局に申請して払い下げを受け、1948年(昭和23年)、当時は9月18日だった例大祭の
際に現在の氷川神社に遷座した。

現在の社殿は旧社殿が老朽化したために、2003年(平成15年)に建て替えたもの。
例大祭は6月1日の気象記念日に行われる。

一般の知名度はさほど高くないが、日本で唯一の気象(天気)の神様として気象予報士を目指す
受験生などに存在が知られ[2]、合格祈願や快晴祈願などで参拝されている[3]。


また気象神社の参道の脇に氷川神社氏子青年会一同掲示による高円寺氷川神社の由緒書きがあり
引用させていただきます。


氷川神社について
江戸名所図絵によれば、その昔、源頼朝奥州征伐の時武蔵国杉並の地に至り給わり際隨兵の中に
当高円寺村にとどまり、終に農民となる者ありと記されている。
一説によれば村田兵部某云々ともいわれ(因みに村田性は高円寺の旧家なり)その時武蔵野国
大宮高鼻の本社よりの御神意の使者が同氏に伝え、
この高円寺村の位置高く採松杉稠茂し遠く水田をを望みて風致絶佳とされる当地に社殿を
建立したのが起源といわれている。
御祭神は素盞鳴命で国土開発、災難除けの信仰がある。氷川神社の御分社は約一千社あり関東地方が
大部分を占めている。
当社の創建時期は不明であるが口伝によれば曹洞宗高円寺と同時に剏祀されたと伝わる。
末社には気象神社、御嶽神社、日枝神社が祀られている。
昭和36年10月10日、社殿、社務所、神楽殿、神輿庫、手洗舎が新しく造営され今日に至る
例大祭は毎年8月27日、28日に行われる。






境内社の稲荷社及び御嶽神社、日枝神社

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JR高円寺駅南の寺社めぐり その1 宿鳳山 高円寺

2014年03月25日 06時31分51秒 | 東京情報
2014年3月16日(日)、JR高円寺駅の南側にある寺社を散策しました。

今回はその第1回で高円寺の名前の由来となった宿鳳山 高円寺を写真紹介します。

宿鳳山 高円寺の基本情報

住所:東京都杉並区高円寺南4-18-11 TEL:03-3311-2395
宗派:曹洞宗 山号:宿鳳山(しゅくほうざん)
御本尊:観音菩薩
創建:弘治元年(1555)By中野成願寺三世建室宗正

Google地図はこちら

<iframe width="425" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="https://maps.google.com/maps?f=q&amp;source=s_q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%9D%89%E4%B8%A6%E5%8C%BA%E9%AB%98%E5%86%86%E5%AF%BA%E5%8D%974-18-11&amp;aq=&amp;sll=34.6943,135.1907&amp;sspn=0.240503,0.496788&amp;ie=UTF8&amp;hq=&amp;hnear=%E6%97%A5%E6%9C%AC,+%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%9D%89%E4%B8%A6%E5%8C%BA%E9%AB%98%E5%86%86%E5%AF%BA%E5%8D%97%EF%BC%94%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%91%EF%BC%98%E2%88%92%EF%BC%91%EF%BC%91&amp;t=m&amp;z=14&amp;ll=35.703412,139.652906&amp;output=embed"></iframe>大きな地図で見る


上の写真は宿鳳山 高円寺の山門です。

境内に高円寺の由緒書きがありましたのでそのまま引用させていただきます。

高円寺

宿鳳山 高円寺は、弘治元年(1555)中野成願寺三世建室宗正によって開山された曹洞宗の寺です。
本尊は観音菩薩で、室町期の作と伝えられる阿弥陀如来坐像も安置安置されています。
かってこの地は、周辺に桃の木が多くあったことから桃園と称され、本尊は桃園観音、寺は桃堂の
名前で呼ばれていました。
当寺が広く名を知られるようになったのは、第五世耕岳益道の時、三代将軍徳川家光の知遇を得た
ことによります。現本堂裏の高台が「御殿跡」と呼ばれるのは、家光が遊猟のおり当寺に立ち寄り
休息した茶室跡に由来するといわれ、付近には「御殿前」のの名称もありました。
境内にある茶園の名残も家光の寄進と伝えられます。また、それまで小沢村と呼ばれた村名を、
寺名をとって高円寺村と改めさせたのも家光といわれています。
当寺は今日まで寛保2年(1742)、弘化4年(1847)、明治33年(1900)、昭和20年(1945)
と4度も罹災し、堂舎と共に古記録類の多くを焼失しました。現在の本堂は昭和28年(1953)
に建立したものです。

          平成14年6月  杉並区教育委員会




上の2枚の写真は本堂です。昭和28年(1953)に宮大工・中村青雲により再建された。



上の写真は開運子育地蔵堂です。


龍が巻き付いた鳥居。このような鳥居は初めて見ました。


上の写真は徳川家の御紋が入った山門の扉。
本堂の瓦にも徳川家の御紋(三つ葉葵の紋)が見えます。








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グリル一平新開地本店でのランチ on 2014-3-22

2014年03月24日 05時28分14秒 | 神戸情報

2014年3月22日に神戸市兵庫区新開地にあるグリル一平でランチをいただきました。
写真紹介します。


グリル一平新開地本店の基本情報

住所:神戸市兵庫区新開地2-5-5 リオ神戸 2F  TEL:078-575-2073
営業時間:11:30~20:30(L.O)
定休日:木曜、第1・3水曜
創業:昭和27年(1952)

所在地の地図は下記のサイトに添付しています。

第10回神戸新開地音楽祭とグリル一平でのランチ on 2010-5-9




上の写真が当日いただいたグリル一平の看板メニュー「オムライス」780円です。

卵を半個使用し薄く巻かれたものでデミグラスソースが美味しい。これを目当てに遠方から来店されるお客様も多いようです。


上の写真はグリル一平のメニュー表です。(リーフレットより)



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黒田官兵衛は有馬のどこで湯治したのか

2014年03月23日 06時19分45秒 | 神戸情報
表題の疑問を求めて有馬観光協会などに問い合わせてみたが不明であったが、2014年3月21日兵庫県立図書館で初めてのレファレンスサービスを受けて判明したので憶えのためメモとして残しておきます。


結論としては「有馬湯山の池坊に投宿、池坊の宿主の池の坊左橘右衛門から手厚い看護を受けた」

出典:黒田家譜 巻之二 貝原益軒 編著 昭和55年発行 (株)歴史図書社 Page56-57


黒田家譜は筑前黒田家の公式の記録です。寛文11年(1671)に貝原益軒が黒田家譜の編纂を始め元禄元年(1688年)に完成させた。
以降、続家譜・新続家譜が作られ、各々数度の改訂を受けています。


上記出典の記載部分を添付しておきます。





有馬の池坊と言えば昭和43年(1968)11月2日午前2時40分頃 池坊満月城ホテル火災があった
ところです。収容人員800名以上の有馬温泉では歴史のある旅館で出火当時は「仁王殿」「中の丸」「本丸」「西の丸」に
隣接した「北の丸」を建築中であった。 地下ボイラー室から出火し、6棟6,630m2を焼失し、 新婚旅行客や団体客等、
246人の宿泊客中、死者30人、負傷者44人を出す大惨事となった。


黒田官兵衛が有岡城で幽閉され牢屋から救出されるまで約1年であるが関連年表を箇条書きにしておきます。


天正6年(1578) 7月 上月城落城し尼子勝久自害し山中鹿之助は護送中に殺害される

        7月  三木城攻めに参戦中の摂津有岡城主の荒木村重が織田信長に謀反

        9月 毛利方の宇喜多直家に降伏を勧め織田信長に帰順させる

       10月 黒田官兵衛が有岡城で幽閉される

       10月 織田信長が黒田官兵衛の長男、松寿丸の殺害を命ずるが竹中半兵衛が密に美濃の居城に匿う

       11月 織田信長大坂木津川河口で毛利水軍を破り本願寺と毛利方を遮断する

       
天正7年(1579)3月7日 織田信長が織田信忠と古池田に出向いた(有岡城攻めの視察)

       6月13日  竹中半兵衛三木城攻めの三木平井の陣中で病死する(36才)

       9月2日  荒木村重が密かに尼崎城に逃亡(留守居役は池田久左衛門)

       11月15日 有岡城留守居役池田久左衛門は尼崎城の村重に会いに行く

       11月   滝川一益有岡城を攻め落城させる

       11月   黒田官兵衛、栗山善介四朗左衛門らにより牢から1年ぶりに救出され有馬温泉で静養する


上記のように天正7年(1579)11月に黒田官兵衛は有岡城から救出されボロボロになった身体を癒す
ために神戸市北区の有馬温泉で湯治をすることになります。
さらに、晩年にも有馬温泉で湯治をしています。昨年(2013年)、黒田如水の書状が見つかり
話題になっていましたのでその関連の内容も記載しておきます。


黒田如水=黒田官兵衛(1546-1604)が亡くなる(注1)4か月前に、福岡藩初代藩主の長男・長政
(1568-1623)に自らの病状を語った書状が見つかり2013年5月21日、福岡市博物館(同市早良区)で初公開された。
湯治をしていた有馬温泉(神戸市)から福岡に送ったもの。如水の最晩年の状況が具体的にわかる貴重な史料で、
家臣らを気遣う人となりもうかがえる内容という。
如水軒(号)、円清(法名)の後に、自筆の花押があり、宛先は「黒田筑前守」(長政)。
11月18日付で、内容からら慶長8年(1603)のものとみられる。
2013年7月7日まで公開された。


(注1) 慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。 59歳。 

原文及び読み下し文の全文は下記のサイトで見れます。

http://museum.city.fukuoka.jp/blog/news/1680/

黒田官兵衛が有馬温泉を温泉の効用を信じこよなく愛していたのだなということが判る文章でもあります。

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明石大蔵海岸の2つのモニュメント(いれぶんはーと、愛しい娘) on 2014-3-21

2014年03月22日 06時59分18秒 | 神戸市以外の兵庫県
昨日(2014-3-21)、兵庫県立図書館に行く途中に表題の2つのモニュメントの写真を撮りましたので紹介します。


上の写真は愛しい娘(こ) 海岸の安全を誓う碑です。


上のようなモニュメントの前に説明書きがあります。

説明書きをそのまま引用させていただきます。

2001 年 12 月 30 日に起きた大蔵海岸で遊んでいた金月美帆ちゃん(当時4歳)が、砂浜の陥没に
巻き込まれ、意識不明の重体となりました。ご両親・ご親族の懸命な看護の甲斐なく意識は回復せず
5歳の短い生涯を閉じました。
この少女の像は、全国から寄せられた心温まる多くの募金によって造られ、大蔵海岸で無邪気に
遊ぶ子供たちを笑顔で見守っています。
この事故を教訓として、海岸・人工浜の安全管理とその責任が見直されました。
私たちは、二度とこのような事故を起こさないこと、海岸に携わる者が利用者の安全確保に
万全を期すこと、そして人々が安全で安心して親しめる海岸となることを願い、ここに
海岸の安全を誓う碑を設置するものです。

    2005年7月17日  海岸を想う有志一同






上の2枚の写真が「いれぶんはーと」のモニュメントです。

現地の説明書きをそのまま引用させていただきます。

  <いれぶんはーと>
平成13年(2001)7月21日に開催された明石市民夏まつり花火大会の当日、朝霧歩道橋において11名の
尊い命を奪い247名の負傷者を出す雑踏事故が発生した。
私たちは、この悲しくて痛ましい事故を決して忘れることなく後世に永く語り伝え、二度とこのような事故を
起こさないことを誓うため、ここに記念碑<いれぶんはーと>を設置する。
   平成17年(2005年)
    明石市民夏まつり事故の碑 募金会 会長 明石市長 北口 寛人



「海岸の安全を誓う碑(いしぶみ)」と「愛しい娘(こ)」の2つのモニュメントは平成17年(2005)に設置され、
成17年7月17日に、2つの碑の除幕式が行われたそうです。


2つのモニュメントの前には遊具も備えられ春休みの祝日とあってたくさんの幼児が遊びに興じていました。
明石海峡の景色も勿論素晴らしいです。


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花百咲(はなひさき)でのランチ on 2014-3-19

2014年03月21日 09時42分00秒 | 神戸情報
2014年3月19日(水)に食べた花百咲(はなひさき)でのランチを
写真紹介します。

花百咲(はなひさき)の基本情報
料理ジャンンルは和食
住所:神戸市垂水区神田町4-31    TEL:078-708-0911
定休日:日曜、祝祭日
地図情報は下記のリンク先に記載しています。


花百咲(はなひさき)での昼食 on 2010-6-12



上の写真は私が選択した春巻きをメインとしたランチ 800円です。


上の写真は奥様が選択した魚料理です。800円。


関連サイト(過去の訪問記)

花百咲(はなひさき)での昼食 on 2012-4-17

花百咲(はなひさき)での昼食 on 2010-10-16

花百咲の昼食と垂水廉売市場

花百咲
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ジョセフ・ヒコが通訳として来日したアメリカ領事館跡(本覺寺)訪問記 on 2014-3-14

2014年03月20日 06時36分32秒 | 神奈川県情報

新聞の父、ジョセフ・ヒコの足跡を辿ってかってアメリカ領事館があった横浜市神奈川区の本覺寺を
訪問しました。
訪問日:2014年3月14日

まず、ジョセフ・ヒコがアメリカを出発してからアメリカ領事館の通訳になるまでの経過を簡単に
述べる。

安政5年(1858)6月30日にジョセフ・ヒコは日本人として初めてアメリカの市民権を得て
アメリカに帰化しました。
同年(1858)日本への帰国を目指し7月3日ボルチモアを出発、
7月29日にサンフランシスコ着、
9月26日クーパー号でサンフランシスコを出発 
10月3日初めて太平洋の測量を行いました。
翌年(1859)3月ホノルルでクーパー号を下船。
同年(1859)4月6日香港に着きました。親友のヴァン・リードと一緒の船出でした。
同年(1859)5月2日駐日英国総領事館オールコックに遭い英国領事館での通訳の仕事を打診したが
断られた。
1859年5月29日上海でハリス(Townsend Harris)に会い神奈川米国領事館通訳に決まる。
1859年6月18日長崎に到着。神奈川には6月30日に入港。
アメリカ領事館は7月4日に神奈川宿の本覺寺を接収し開かれた。

ジョセフ・ヒコの日誌(アメリカ彦蔵自伝 東洋文庫)に下記のように綴られている。

「1859年7月4日。この日は、いよいよ上陸して、わが公館を収め、正式に貿易港を開くと
決められた日である。夜は快晴に明けそめた。早朝、湾内に林立するすべてのマストに、
にぎにぎしく旗が掲げられていた。十時ごろ、われわれは神奈川側に上陸し、本覺寺まで歩いていった。
寺の墓地に大木があったので、そのてっぺんに枝に棒を結び付けて旗竿にした。正午少し前にアメリカ
公使ハリス、領事ドール、ミシシッピー号艦長ならびに士官、ヴァン・リードと私は、どっとこの墓地
に乗り込んだ。12時ちょうど、この旗竿にアメリカの国旗を高く掲げた。
そしてシャンペンを抜き「合衆国国歌を合唱して「われわれの繁栄のために、星条旗よ永遠なれ」と
乾杯した。この地に外国の国旗がひるがえったのは、史上はじめてのことであった。」


さて、本題のアメリカ領事館跡(本覺寺)の写真紹介に移りたいと思います。

本覺寺の基本情報

住所:横浜市神奈川区高島台1-2  TEL:045-322-0191
宗派:曹洞宗 山号:青木山  開創:嘉禄2年(1226)臨済宗
天文元年(1532)曹洞宗に改宗(雲松院第三世陽廣元吉禅師の時代)


最寄り駅:京浜急行(京急)神奈川駅 徒歩2分
本覺寺の歴史を解説したサイト
  http://www5f.biglobe.ne.jp/~hongakuji/jisi%20frame.htm


上の写真は山門前の「史跡アメリカ領事館跡」と書かれた石碑 横浜市長 平沼亮三氏の書


上の写真は山門。



上の写真はアメリカ領事館時代に白いペンキで塗られた跡が残る山門の唐獅子と蟇股(かえるまた)


上の写真は神奈川(横浜)開港を提唱した岩瀬肥後守忠震(ただなり)の顕彰碑です。
岩瀬肥後守忠震は文政元年(1818)、幕府旗本の家に生まれ、同じく旗本の岩瀬家の養子となりました。
幕末期に海防掛目付に任じられた忠震(ただなり)は開国論の中心人物として活躍しました。

Wikipediaより解説を引用させていただきます。

岩瀬 忠震(いわせ ただなり)は、江戸時代後期の幕臣、外交官である。列強との折衝に尽力し、
水野忠徳、小栗忠順と共に「幕末三俊」と顕彰された[1]。維新後に正五位を贈られた。
島崎藤村の「夜明け前」にも登場する。
旗本・設楽貞丈の三男で、男系で伊達政宗の子孫にあたる。母は林述斎(林家の大学頭)の娘で、
おじに鳥居耀蔵、林復斎、従兄弟に堀利煕がいる。岩瀬忠正の養子となり、岩瀬家の家督を継いだ。

嘉永7年(1854年)、老中首座・阿部正弘にその才能を見出されて目付に任じられ、
講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所の開設や軍艦、品川の砲台の築造に尽力した。
その後も外国奉行にまで出世し、安政2年(1855年)に来航したロシアのプチャーチンと
全権として交渉し日露和親条約締結に臨んだ。

安政5年(1858年)にはアメリカの総領事タウンゼント・ハリスと交渉して条約締結に臨み、
日米修好通商条約に井上清直と共に署名するなど、開国に積極的な外交官であった。
ハリスは、「井上、岩瀬の諸全権は綿密に逐条の是非を論究して余を閉口せしめることありき。
・・・懸かる全権を得たりしは日本の幸福なりき。彼の全権等は日本の為に偉功ある人々なりき」
と、後に当時の交渉のことを書き残している。

幕府は条約で決められた神奈川に代わり、対岸の横浜村[2]に開港場を設けることとしたが、
忠震は条約の文言を重視して神奈川開港を主張した[3]。

同年、13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題で徳川慶喜(一橋徳川家当主)を支持する一橋派に属し、
大老となった井伊直弼が反対派や一橋派の排斥を行う安政の大獄で作事奉行に左遷され、
安政6年(1859年)には蟄居を命じられ、江戸向島の岐雲園で書画の生活に専念した。
文久元年(1861年)、44歳で失意のうちに病死した。

墓所は東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園。横浜市と新城市に顕彰碑がある。

後年[いつ?]、イギリス側で日英修好通商条約の交渉に当たった際の岩瀬の写真が発見された。
この写真は、平成20年(2008年)に横浜開港資料館が借り受け、条約の資料とともに公開された[4]。





上の写真は本堂の遠景と近景です。

1859年7月4日より本堂がアメリカ領事館として利用された。
領事館の期間は約3年程で、後に横浜へ移動となるその間、
寺僧は退去させられ、御本尊さまは板囲いで覆われ、一般人の立ち入りは禁止されていたとのこと。

ジョセフ・ヒコは1860年2月にアメリカ領事館の仕事を辞職し横浜で
貿易商館を開き輸出入の値段、港の出船・入船、上海への荷物運賃、両替表などを記した
「プライス・カレント」を発刊しています。これらの素養もジョセフ彦の本邦初の印刷された
新聞「海外新聞」の発刊(1864)に繋がっていくのである。


上の写真は地蔵堂です。山門から入って右手にある建物。


上の写真は鐘楼。


上の写真は仏舎利塔(十三重塔)。


上の写真の中央は10世梁国和尚が建てた地蔵尊。台石に黒薬の由来が書いてあります。
享保20年(1785)作。

神奈川祝の名物「黒薬」の解説
  http://www5f.biglobe.ne.jp/~hongakuji/kurogusuri.htm









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