CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

我が国最古の跨線橋「相生橋」 in 神戸市

2021年07月22日 06時25分59秒 | 昔こんなものがあった 明治編

上の写真は「川がないのに橋がある」とうたわれた相生橋付近のものです

出典:市民のグラフ こうべ No.112(1982年、1)の表紙

撮影日:不明であるが写真左手に「兵庫県里程元標」の石碑があることから明治43年(1910)

以降に撮られた写真で相生橋は昭和6年(1921)10月に鉄道の高架化によりなくなっているので、

また市電が写っていないので明治時代最後期に撮られたものであろうと思われます。

 

写真に写っているもの:

左手に写っている洋館は明治12年(1879)設置の神戸警察署か

人力車が数台みられる。大八車による運搬。商店街が道路の両側にあり人通りが多い

歩いている人々から大正時代の風俗が想像できます。

電柱が見られるがまだ初期のころで電線が高圧のみである。

木々が見られるのは湊川神社境内のものか

 

 

 

 

相生橋

上の写真は浮世絵師の長谷川小信によって描かれた錦絵で我が国初の跨線橋の相生橋から

蒸気機関車が走るのを見学する人々を描いたものです。

出典:神戸市立中央図書館 貴重資料デジタルアーカイブ(神戸市立博物館蔵)

跨線橋(こせんきょう)とは橋の一種で、鉄道線路を跨ぐ(またぐ)もの。道路をまたぐ

橋は跨道橋という。 鉄道駅構内で駅舎やホーム同士を連絡するために架けられるものが多い

鉄道は明治7年(1874)3月21日に神戸-大阪間に建設され試運転行われた。開業は同年5月11日

相生橋は鉄道の開設当初より存在していました。

上の写真は市電が走り出した頃の相生橋付近(現在の神戸駅東ガード付近)

出典:出典:市民のグラフ こうべ No.111(1981年、12)の表紙

 

上の写真は中右コレクションの絵葉書で神戸ステーションの東、元町通りの西口付近の

相生橋 明治43年(1910)開通した民営・市街電車が写っていないのでそれより以前の

景観であると判断できます。

出典:市制100周年記念 懐かしの神戸絵ハガキ聚(明治・大正)編集・解説 中右瑛

 

今の神戸駅の東と元町通り西口との中間地点、西国街道と東海道との交叉点に相生橋が

架設されました(明治7年)。

上の写真はまだ電燈もない明治10年(1877)頃のものである。奥が神戸駅

出典:市制100周年記念 懐かしの神戸絵ハガキ聚 編集・解説 中右瑛(平成元年)

 

兵庫県里程元標

兵庫県里程元標は上記の国鉄高架化に伴い、一旦、湊川神社正門付近に移設された後、

現在の場所(元町商店街6丁目のアーケードを出たところ)に移設されました。

上の写真は現在の兵庫県里程元標の碑  2007-10-25撮影。

 

里程元標について(現地説明板より)

旅は道づれ世は情けというが昔の旅人たちにとって唯一の道しるべは里程標でありこれによって明日への旅の希望を抱かせる心の糧ともなったのである。
兵庫県の里程元標は元相生橋の西詰に在ったが昭和6年10月国鉄高架線の完成により相生橋の撤去と共に取り除かれ保存されていたのであり往時を偲ぶよすがとしてここに移転復活したものである。    文:及川英雄
(元の所在地より西へ約150米移す)
昭和35年年5月吉日

 

関連ブログ

 初代神戸駅 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

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湊川崎台場

2021年01月05日 05時21分24秒 | 昔こんなものがあった 明治編

本日は文久3年(1863)、大阪湾防備のため着工し元治元年(1864)8月に完成した

湊川崎台場(湊川崎砲台)を取り上げます。

出典:J.R.ブラック「The Far East Vol.2 No.XV Ⅱ(1872)

上の写真がかって存在していた湊川崎砲台(湊川崎台場)です。

湊川崎砲台(台場)は、既述のように元治元年(1864)幕府により建立されました。

大阪湾岸防備の為勝海舟によって兵庫県内の和田岬、西宮などと同時期の文久3年

(1863)に砲台位置が定められ、元治元年(1864)8月完成した。

 完成後はこの地域の守備を担当していた高松藩に受け渡された。

湊川崎台場は明治以降も陸軍省の所属として残されていたが、陸軍省資料によると

明治25年(1892)3月16日に原因不明の火災で内部木造部が焼失した。

その後、焼け残った木材や石材が民間に払い下げられ、まったく姿を消してしまった。

 

和田岬砲台については下記のブログを作成しています。

 勝海舟が設計の和田岬砲台跡 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 

西宮砲台については下記のブログを作成しています。

 西宮散策記 on 2019-2-24 その2 西宮砲台 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

上の写真は「川崎石堡塔」の断面図

出典:「築城史料 全」1910年発行、編著者不明 (財)日本城郭協会覆刻

湊川崎台場は、石堡塔を中心に外郭部が造られたが、和田岬砲台のような星型ではなく

西宮砲台と同じ円形であった。入り口は1か所で門と石堡塔の間に目隠しの横塘を置く。

また、砲台が完成した元治元年(1864)暮から明治5年(1872)までのわずか7年余りの

うちに屋根が架けられたことが上に示した写真より判ります。

上の写真はGoogle地図の上に湊川崎台場があった場所を赤丸で示しました

所在地の住所は神戸市中央区東川崎町2丁目(川崎重工株式会社の敷地内)

川崎重工の浮きドッグの北側にありました。

 

さらに詳しく調査したい方は下記史料を参照してください

1) 高久智広著 「史料紹介 和田岬・湊川砲台関係史料について」1~3

 神戸市立博物館研究紀要 第20号(2004)、第22号(2006)、第25号(2009)

2)文化遺産オンラインのサイト 

和田岬・湊川砲台(台場)関係資料 文化遺産オンライン (nii.ac.jp)

 

3)木村 寿夫, 山田 幸一著 和田岬石堡塔について

     日本建築学会論文集 1984 年 345 巻 p. 175-182

 

 

 

 

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神戸の旧車村、奥妙法寺村、高取山での石炭の採掘

2018年04月07日 07時35分38秒 | 昔こんなものがあった 明治編
幕末から明治初期にかけて神戸の旧車村、奥妙法寺村、高取山で石炭の採掘が行われて
いたことはあまり知られていない。

この時期兵庫港に寄港した蒸気船に供給する石炭は九州や中国地方で産出したものを
購入していた。

このブログでは下記の2つの神戸市立博物館の特別展の展示での資料を使用して話を進めます

平成28年(2016)2月6日~3月21日の会期で神戸市立博物館の特別展 須磨の歴史と文化展
―受け継がれる記憶 -


平成29年(2017)8月5日~9月24日の会期で神戸市立博物館の神戸開港150年記念特別展
「開国への潮流 開港前夜の兵庫と神戸」


1.乍恐以書附奉願上候 安政4年(1857)6月13日 個人蔵・生野書院保管





安政4年(1857)、龍野屋伊兵衛が大坂谷町代官所に提出した石炭買い上げに関する願書
高取山周辺での炭鉱開発は安政4年(1857)、播磨国神西郡森垣(現朝来市)の石川家
によって始められています。石川家は生野銀山の採掘に携わった家で、伊兵衛は石川家
4代目当主。銀山経営に関する資料を今に伝えて生野書院で保管されています。
上記の文書の冒頭に、長崎に向かう勘定奉行らが高取山周辺の炭鉱を視察し、試みに幕府が
10万斤(100斤が60Kgなので約60トン)を購入すると申し渡したことが記載されています。
また高取山周辺の石炭は1年で約150万斤(約900トン)の生産が見込めるとも記載。
この勘定奉行は水野忠徳(1810-1868)のことである。彼は浦賀奉行、長崎奉行を歴任し、
勘定奉行として幕府の対外問題の諮問機関である海防掛を兼務する外交のスペシャリストで
安政4年(1857)4月15日に長崎奉行兼務を命じられ、目付の岩瀬忠震とともに貿易に
関する取り調べのため長崎に派遣されている。
炭鉱の視察はまさにこの途次に行われたものであった。彼はこの後、長崎でオランダ、
ロシアとの通商条項も含む通商条約に調印しています。
対外政策の観点から幕府は石炭の採掘開発に強い関心を抱いていたことが判る。


神戸市立中央図書館のランダム・ウォーク・イン・コウベ 44  平成15年(2003)6月20日
で「神戸の石炭」について解説されています。関連箇所を引用紹介します。
『兵庫県史料』には、安政4年(1857)、播磨国神西郡森垣(現朝来郡生野町)の
石川八左衛門が、車村、奥妙法寺村(現須磨区)で採掘したとの記録があります。
この情報を得た勝海舟が八左衛門に開発を命じ、先の構想を実現しようと試みますが、
神戸海軍操練所の閉鎖に伴い中止となります。その後、運搬用の道路修復が大坂谷町
代官斎藤六蔵により行なわれ、慶応2年(1866)8月26日に再稼働の許可が下り、
さらに同年11月に実地検査し石川八左衛門が採掘を再開しています。
この頃イギリス海軍は兵庫に蒸気船用の貯炭場所の提供を幕府に申請、許可を得ています。
蒸気船の燃料に石炭が使用され、その需要も増えていたものと考えられます。
幕府の京都奉行が兵庫の石炭操業について実地調査をした上で、1. 品質は良い
2. 価格は肥前唐津産と同じ 3. 需要があるので石炭会所を兵庫新在家町に設置したい
4年間約三百万斤(百斤は六〇キログラム)が見込まれる、と老中に上申、開発許可を
得ました。
その後奥妙法寺村に新坑が発見され、一日百五十人が働き、三万斤が算出されました。
神戸開港時の兵庫奉行であった柴田日向守も強い関心を寄せ、イギリスからの最新鋭の
採掘機の導入も計画していたほどです。品質について鑑定を依頼されたクーレー(仏人)は
上等の海軍用の「トヰル」質ではないが、中等の「サニット」質であると報告しています。


神戸市文書館 神戸歴史年表によれば下記記述があります
慶応3年(1867)3月 (現・須磨区)車村・奥妙法寺村の炭鉱で石炭の採掘が始まる

2.摂津国矢部郡車村妙法寺村石炭礦之図 慶応2年(1866)9月 神戸市立博物館蔵


上の写真は摂津国矢部郡車村妙法寺村石炭礦之図の全体図

上の絵図は石炭採掘が再開された直後の様子が描かれています。


上の写真は全体図の部分拡大図で車村の字道谷に「石炭筋」=石炭の鉱脈が長く描かれており
この付近の埋蔵量が多いと推定されるが「石炭坑」は見当たらないので当時は
この頃(1866年時点)、まだ掘削されていなかったのか?


上の写真は同じく全体図の部分拡大図で奥妙法寺村の字竹向付近の絵図です。
「石炭坑」及び「石炭筋」が見られ実際に採掘されていたと思われます。

3.鷹取山字道谷石炭山絵図 江戸時代末期 個人蔵・生野書院保管


上の写真は摂津国矢部郡車村妙法寺村石炭礦之図の絵図で最も大きな石炭の鉱脈があった
車村道谷の石炭坑内を描いたものである。

4.石炭堀立勘定仕出帳 慶応3年(1867)10月 個人蔵・生野書院保管


上の写真は石炭堀立勘定仕出帳の一部です。
慶応3年(1867)1月~9月の石炭産出量とその代金及び代官所への上納金に関する
勘定書。この間の産炭量は256万200斤(約1,536トン)月産は約170トン、代金は
1万斤当たり25両で取引されており、大坂代官所から支払われている。
上納金は代金の5%が石炭会所に納められていたと記載されています。

5.石炭 (妙法寺駅北側高速道路工事現場採取) 平成4年(1992)神戸市立博物館


上の写真は平成4年(1992)、妙法寺駅北側高速道路工事現場で採取された石炭で
上述の神戸市立博物館の特別展で出展されたものです。

幕府の崩壊で官立による石炭は中断してしまったとおもわれるが民間ベースで石炭の
採掘がおこなわれていた記録があるようです。
明治20年(1887)6月期から明治21年(1888)6月期までの13か月181日の
操業で約158トンが車村で産出されており、その99%が流通していたとのこと。

以上で筆をおきます。

同じテーマで妙法寺の地元の方が詳しくまとめられていますのでリンクさせて頂きます
 http://www.infokkkna.com/ironroad/2016htm/iron12/1604kobesekitanweb.pdf


上記の中で神戸新聞2016年3月12日夕刊の記事の紹介あり。

また、古地図で見る神戸(大国正美)のPage271~274にも詳しく記述されています。

その他の資料
 国土交通省 近畿地方整備局 六甲砂防事務所編「妙法寺物語」
  https://www.kkr.mlit.go.jp/rokko/rokko/study/myouhouji.php


 『歴史と神戸』1990年10月号「新聞記事に拾う 高取山に石炭はあった」
1990年3月号 桑田優著「近世における神戸市域の鉱業 」
『新修神戸市史 歴史編3』P781ー788
『新修神戸市史 産業経済編1』P141ー145
『神戸市史 本編各説』P533ー534



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山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その15 河合義一

2018年02月23日 04時36分51秒 | 昔こんなものがあった 明治編
2017年11月12日と2018年1月21日に山陽電車の高砂駅に下車し
高砂駅の南の地区を散策してきました。初訪問です。

本日はその第15回目で「河合義一」の写真を紹介します。



過去の散策記

第1回 山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その1 高砂神社

第2回 山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その2 十輪寺

第3回 山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その3 キャンドルカフェ記念チェアー しあわせの席「たかさご」

第4回 山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その4 堀川の風景

第5回 山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その5 北堀川界隈

第6回 山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その6 藍屋町の川地蔵

第7回 山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その7 申義堂(しんぎどう)

第8回 山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その8 国鉄高砂駅跡

第9回 山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その9 高砂公民館の美濃部達吉・亮吉親子文庫

第10回 山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その10 善立寺と天竺徳兵衛の墓

第11回 山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その11 旧国鉄高砂線の分岐点

第12回 山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その12 旧高砂銀行本店(高砂商工会議所会館)

第13回 山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その13 旧高砂通運本社屋

第14回 山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その14 寺町
  




上の2枚の写真は高砂地域コミュニティセンター前に設置の河合義一の銅像です。


上の写真は高砂地域コミュニティセンターの遠景です。

Wikipediaより河合義一(1882-1974)について引用紹介します(一部加筆)
河合 義一(明治15年(1882)3月11日 - 昭和49年(1974)7月25日)は、
兵庫県高砂市出身の農民運動家、政治家。衆議院議員、参議院議員。

河合義一は兵庫県加古郡、のちの高砂町(現高砂市)藍屋町で、河合儀一郎と母せつ
の間に長男として生まれた。河合家は元は加古川上流の河合村(現・小野市)出身で
高砂に移り住んでからは加古川の水運を利用し米、塩、干し鰯を商う豪商で蔵元
であった。明治21年(1888)高砂尋常小学校に入学、明治25年(1892)卒業。
加古川の鶴林寺内に設置の加古高等小学校に進み明治29年(1896)に卒業。
半年ほど神戸の医師井上覚太郎宅に書生として住み込み、その年に同志社中学校
(5年制)で学び、明治33年(1900)卒業、高砂に帰郷。
明治34年(1901)5月、高砂教会で洗礼を受けた。
明治34年9月11日東京外国語学校仏語科に入学、1904年に卒業した。
明治37年(1904)11月、日本銀行に入行。日本銀行では調査局、国庫局を歴任
健康保険の制度をつくった。日銀時代の明治39年(1906)11月より本郷教会
に入り吉野作造らから影響を受けた。明治42年(1909)頃肺結核となり、小豆島の
豊島で療養。病気は治癒したが、明治44年(1911)、日銀を退職して帰郷した。
高砂では向島で牧場を開き農耕に従事しつつ心身を療養した。
大正3年(1914)明石教会で原千代と結婚。仲人は高砂小学校校長の広田虎之助。
大正8年(1919)、丸八青果問屋を設立、高砂町会議員に就任。賀川豊彦の活動に
共鳴し農民組合運動に参加。日本農民組合東播連合会長、同兵庫県連合会長を務め、
大正14年(1925)1月、加古川小学校敷地耕作事件(赤鉢巻き事件)で小作争議指導
をしたとして投獄されたこともあった。また、日本労農党などを経て社会大衆党に所属し、
1937年4月、第20回衆議院議員総選挙に兵庫県第三区から出馬して初当選した。
戦後、日本社会党に入党。1947年4月、第23回衆議院議員総選挙に兵庫県第三区から
出馬して当選し、衆議院議員を通算二期務めた。また、1953年4月、第3回参議院議員
通常選挙に兵庫県地方区から社会党左派所属で出馬して当選し、参議院議員に一期在任し、
参議院懲罰委員長を務めた。


最後に河合義一を中心とした河合家の家系図を添付しておきます。
出典:吉田登著 「高砂ゆかりの人物伝」(2015) 

Page115

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開港間もない頃の神戸旧居留地

2017年09月10日 05時24分49秒 | 昔こんなものがあった 明治編
ジャパンクロニクル紙が大正7年(1918)に編集発行した「ジュビリーナンバー 1868-1918」
に掲載されている開港間もない頃の神戸旧居留地の写真を中心に紹介していきます。



上の写真は1968年3月28日号のイラストレイテッド ロンドン ニュースが
開港後、間もない神戸のイラストを掲載しているものです。
出典:描かれた幕末明治 イラストレイテッド・ロンドン・ニュース1853-1902
    金井 圓 翻訳 昭和48(1973)Page168-169

この頃はまだ神戸旧居留地が形成されておらず植林が進んでいない六甲山系をバックに
のどかな神戸の街であったことが判ります。生田の森が確認できる。


上の写真は1871年(明治4年)初期の神戸旧居留地の海岸通りの様子である。
写真は東側から西側に向いて撮られたもので左から4番目の建物が現在(1918年時点)
英国領事館(以前にはドイツの商館があった)右端の建物はヒョーゴホテル
(1918年時点では米国領事館N.Y.K現在の郵船ビルの場所にあった)との注釈。


上の写真は1870年代の神戸旧居留地京町筋

注釈でアメリカ合衆国のウォルシュ商会(Walsh, Hall and Company)の製紙工場
(現在の三菱製紙高砂工場の前身)の高い煙突が山の手に見えていることや
布引の滝への入口の目安である高い木々が写っていると述べられています。

ウォルシュ商会は、日本で初めて成功したアメリカ企業のひとつ。経営はウォルシュ兄弟。
兄はトーマス・ウォルシュ(Thomas Walsh、1827年 - 1900年[1])、
弟はジョン・ウォルシュ(John Glia Walsh、1829年7月27日 - 1897年8月16日)。
弟のジョンはアメリカ合衆国初代長崎駐在領事も兼務した。



上の写真は大正7年(1918)の京町筋

ここから下に添付した3枚の写真別の資料(下記)で紹介された神戸旧居留地
 出典:神戸市政120周年記念 「神戸 あのまち、あの時代」(2009)






下の2枚の写真は田井玲子氏著の外国人居留地と神戸のPage33で示された
明治5年(1872)の神戸の地図と説明書き





神戸旧居留地関連ブログ:

   神戸外国人居留地跡の碑と旧居留地47番

   神戸旧居留地15番館

   イギリス領事館の設置場所の推移

   神戸旧居留地108番地の碑 on 2014-4-11

   神戸税関発祥の地

   大正期の日本郵船神戸支店と旧居留地1番~6番

   明治4年(1871)と明治24年(1891)神戸居留地を襲った台風による被害

   神戸の外国人クラブの誕生と変遷 クラブ・コンコルディアを中心として

   神戸市中央区花隈周辺と旧居留地周辺の散策記 on 2016-6-6

   オリエンタルホテルでのランチ on 2014-4-11

   神戸旧居留地103番館の表示石

   神戸旧居留地124番館の標柱

   神戸旧居留地68番館の門柱

ジャーデン・マセソン商会の門柱 とジャーデン・マセソン商会

   神戸旧居留地 15番と16番の境界を示す標柱 on 2016-3-6
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