CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

菓子乃季あじさい祭 on 2003-6-22

2022年06月22日 03時06分37秒 | 岩国情報

最近、過去のデータファイルを処分整理しようとしている時に2003年6月22日(日)

柳井市の菓子乃季あじさい園で開催されていたあじさい祭の写真が出てきたので

紹介します。

2022年の菓子乃季あじさい祭の情報を調べてみると第21回ということなので2003年は

第3回目?位の開催になります。

当時のデジカメの性能は悪くあまり奇麗ではありません。ご容赦ください。

上の写真が菓子乃季・あじさい園のあじさい

あさひ製菓(株)本社敷地内にあるあじさい園は、約6千坪に約150種類、約20,000株のあじさいが植えられているそうです。

上の写真はあじさい園の遠景

上の写真はあじさい園に向かう人達と見終えて帰ってきた人々

上の写真は2003年のあじさい祭のイベント内容です。

次に2022年及び最近のイベントについて紹介していきます。

開催場所の基礎情報

住所:山口県柳井市柳井5275 菓子乃季(あさひ製菓株式会社) TEL: 0827-22-0757

開期:2022年6月24日~6月26日

公式サイト:第21回 あじさい祭 (kasinoki.co.jp)

所在地のGoo地図を添付しておきます。 

最近開催されたあじさい祭の様子を紹介したYoutube動画があったのでGooで共有させていただきました。

山口 あじさい祭 柳井果子乃季

 

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岩国の人材を育てた英国人教師Herbert Augustus Stevens(改訂版)

2021年04月28日 04時04分01秒 | 岩国情報

2005年1月19日に表題と同じブログ記事を書いています。

今回、新たな資料も加えて書き直すことにしました。

明治4年(1871)2月2日、岩国藩は人材育成の重要性から、藩校養老館の精神を引き継ぐ

藩立岩国学校を開設した。小学、中学に加え語学、女学、医学を備える先駆的な体制

であった。しかし、問題が一つ。岩国には外国語の教師がいなかった。そこで藩主の

吉川経健は私費の家禄から経費を捻出し、現在の価値で200万円ともいわれる月給を

払い、英国人教師(Herbert Augustus Stevens以下、スティーブンス)を雇用した。

明治4年5月27日契約、8月16日から勤務。勤務地は岩国英国語学所

その英断が、日本の電気の父と称される藤岡市助(東芝創業者)など、岩国は

もとより、国の発展をかなえる多くの人材を生むことに繋がった。

以下は以前に書いた記事を再掲

英国人教師Herbert Augustus Stevens
(1847 3/27---1878 5/3病死)
明治4年(1871)5月27日より明治6年(1873)8月23日までの
2年間Stevensは山口県出張御雇教師として英語にて物理、化学
歴史、地理を教えた。場所は現在岩国資料館となっている当時の
岩国学校である。
藤岡市助(日本のエジソン---東芝の創始者)、大屋権平(鉄道の発展に
寄与)、山県修(大阪造幣局)、江木哀&渡辺安積(中央大の創立に
参画)他多くの有名人を傑出した。
彼は2年間の契約終了後は神戸の裁判所に勤務している。
彼の墓は神戸市立外人墓地にある。
岩国ではStevensの後、仏人ミットンが外人教師となっている。

上の写真は明治4年(1871) or 明治5年(1872)に撮影された写真をもとに

上田えいこさんが描いたイラスト画 「スティーブンスと弟子」 

出典:岩国学校教育資料館が作成の絵葉書

岩国観光振興課のサイトにベースとなった写真が掲載されていましたのでリンク

させていただきました。

このサイトにはステーベンス先生の略歴、功績についても記載されています。

 たった2年の 偉大な学校 岩国英国語学所 | 岩国観光振興課-岩国 旅の架け橋 (iwakuni-city.net)

 

上の写真は明治前期の岩国小学校の全景 出典:岩国学校教育資料館が作成の絵葉書

右手上に岩国学校があった現在は岩国学校教育資料館となっています。

上の写真は「追憶」と名付けた筧良一郎さん撮影の作品 岩国学校のイメージ

出典:岩国学校教育資料館が作成の絵葉書

 

H.A.スティーブンスの生没年月日と墓所

 生まれ:1847年3月27日 英国海峡Jersey島(ジャージー島)St.Helierで生まれる

 没年 :1878年5月3日(31歳、神戸で死去)

 墓所 :神戸市立外国人墓地 (O 4-25)機会をつくり墓参したい

 

岩国学校(外国語学所)での報酬(2年間)

 期間:1871年(24歳)から1873年の2年間

 報酬:支度金 100ドル、初任より6か月 月100ドル 次の6か月 月150ドル

    2年目は 月200ドル  2年間無事に満了時 300ドル

 時間:日曜日と祭日を除き 毎日 6時間 (実際には朝から16時まで)指導

 

岩国学校での指導科目

  英語、仏語、数学、代数学、地理学、史学、天文学

  指導はすべて英語で教えられた

 

スティーブンスの弟子

 藤岡市助をはじめ、帝国図書館(現・国立国会図書館)初代館長となった田中稲城

 中央大学を興した法律学者・渡辺安積及び江木哀、日本の鉄道発展に貢献した

 大屋権平、大阪造幣局で技師として活躍した山県修、など優秀な人材を輩出した。

 その他弟子で名前が判っている人物は小田周太郎、栗屋雪城、笠井環、佐伯成言

 

 藤岡市助については下記ブログで纏めています。

  日本のエジソン 藤岡市助 山口県岩国市が生んだ偉人 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

  岩国市岩国美術館前に建立された日本のエジソン藤岡市助博士の銅像 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

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岩国藩御館図

2021年02月12日 16時47分05秒 | 岩国情報

資料を整理していたら吉川資料館の入場券が出てきました。

入場券の表紙に岩国藩御館図が印刷されていましたので紹介します。

岩国藩御館図は岩国城のパンフレットには「元朝登城図」と書かれています。

岩国藩主の吉川広家は山上に要害を築く前に、まず山麓に藩主の居宅「御土居(おとい)」

(のちに「御館(おたて)」と呼ばれた)を建てた。

正面に対面所と役所方のある表御殿、その西側に藩主の居所である御納戸(おなんど)、

裏手の山寄りに藩主の家族や侍女が住む裏御殿が建ち、正面の本門のほか、北の門、

白山門や3つの櫓などがあった。

吉川資料館の入場券には2005年5月22日のスタンプが押印してありました。

明治18年(1885)に居館跡に吉香神社が移ってきました。

その時に錦雲閣が建設されました。この場所には3階建ての南櫓が建っていました。

 

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吉川経家弔魂碑 in 岩国市横山

2021年02月01日 04時34分04秒 | 岩国情報

吉川経家弔魂碑 Kikkawa Tsuneie's Memorialという題で以前にブログを書いています。

 吉川経家弔魂碑 Kikkawa Tsuneie\'s Memorial - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

英文による紹介で判り難いと思われるので今回、再度記事としました。
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変の1年前くらいの出来事でもあるので
テーマとして選びました。

天下統一を目指す織田信長は、天正8年(1580)6月、羽柴秀吉に中国地方の攻略を命じた。
天正9年(1581)6月25日、秀吉は姫路城から約2万の軍勢で鳥取城攻めを開始した。
鳥取城主山名豊国は、城内の多数の意見を無視して秀吉に降伏し、城外に脱出した。
豊国の家臣達は吉川元春に城将の派遣を要請し、元春は石見国温泉津福光城主吉川経家
を鳥取城の城督として秀吉の兵を迎え撃つことになった。城兵は約3千人。
秀吉軍は鳥取城が要塞堅固であることから、兵糧攻めの策に出た。
毛利水軍が海から鳥取城に兵糧の補給を図ったが、城内に撒入しようとする輸送船は、
すべて秀吉軍に捕獲された。やがて場内では餓死者が出始める程孤立無援の窮地に陥った。

この頃、毛利輝元・隆景らは備中・美作に出陣して、信長陣営の宇喜多直家と対峙し、
また吉川元春は伯耆で南条元続、小鴨元清らの討滅作戦を展開中で余力はなかった。
経家は籠城軍を鼓舞して鳥取城の包囲軍に頑強に抵抗したが、餓死者の出る惨状を前に
秀吉に使者を送り、自分の自刃の条件として、城兵全員の救助を誓約し10月25日、
「天下を争う織田、毛利両家の二つの御弓矢の場で切腹する自分を名誉に思う」という
遺書をしたため、城内広間において35才の命を断った。
同時に福光小三郎、若鶴甚右衛門、坂口孫次郎が殉死した。
元春は吉川元長、吉川広家、毛利元康ら6千余の兵を率いて、やっと伯耆の国境にまで
駆けつけたが、既に事後で間に合わなかった。秀吉は元春らとの決戦を避けて撤退し、
同年(1581)11月8日、姫路に帰還した。
経家の子孫は岩国藩で江戸時代を通じて家老として仕え、藩政に貢献した。
経家の英魂を弔うため、昭和14年(1939)10月、弔魂碑が建立されました。
礎石に鳥取城の石12個が使用されている。
吉川経家弔魂碑が建つ場所は、江戸時代にその石見吉川氏の屋敷のあった所である。

吉川経家弔魂碑の裏面の碑文は学習院大学副学長であった瀬川秀雄博士、
揮毫は同大学講師の木田政喜によるものである。

During Sengoku piriod,Oda Nobunaga was busy aiming his sights
toward uniting Japan.One of his conquests was Tottori Castle.
Mori Terumoto's main fortress.Nobunaga sent Hashiba Hideyoshi
to mount an attack on Tottori Casle in June 1580.
Yamana Toyokuni,the lord of Tottori,surrendered to Hideyoshi
without general agreement.
When Toyokuni left,Kikkawa Tsuneie took his place to continue
the battle against Hideyoshi in March 1581. Once Tsunaie took
power,he realized that the situation was grave and without
resolve.Hideyoshi had established a "net" to intercept any
supply ship comming to Tottori Castle.As the days went by,the
people of Tottori were starving and suffering horrible deaths.
Seeing what was happening to the people,Tsuneie was forced to
surrender himself.Tsuneie asked to Hideyoshi to save the people
and commited ritual suicide(Harakiri)the very next day.
Tsuneie left a note saying that he felt very honered with this
Harakiri.

 

参考として石見吉川家の吉川経家と岩国藩の初代藩主の吉川広家を中心とした

系図を添付しました。(下の写真)

さらに岩国藩の初代藩主に吉川広家公の肖像画も添付(下の写真)しました。

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岩国市岩国美術館前に建立された日本のエジソン藤岡市助博士の銅像

2020年12月03日 04時11分31秒 | 岩国情報

久しぶりに岩国情報に関する記事を投稿します。

テーマは2014年3月25日に建立、除幕式が挙行された「藤岡市助博士の銅像」です。

銅像は現地で写真を撮ったものではなく、Googleのストリートビューでバーチャル

訪問したものです。

上の2枚の写真が藤岡市助博士の銅像です。 Googleストリートビュー(2018年4月)

岩国美術館の前、岩国城に登るロープウェーの横にあります。

駐車場側からが正面(上の写真)、岩国美術館側からは裏面(下の写真)

写りが悪いので2014年5月の広報いわくにに掲載の除幕式(2014年3月25日挙行)の

時の様子を紹介した写真も添付しておきます。(下の写真)

2014年3月25日の除幕式は福田良彦市長、東芝の田中久雄社長など関係者150人が出席

して盛大に行われたようです。台座には「明るい未来へ」と書かれています。

銅像は藤岡市助博士顕彰会が岩国市出身の彫刻家「小川幸造さん」に依頼し制作された。

銅像の建立費用は500万円で東芝と東芝ライテックが寄付したものである。

寄付に関する記事は下記サイトをご参照ください。

 東芝:ニュースリリース (2013-09-25):岩国市に建立される藤岡市助博士の銅像への寄付について (toshiba.co.jp)

今迄に添付した銅像の写真では顔の表情が判らないのでたくさんの銅像写真を紹介

しているサイトにリンクさせていただきました。

 藤岡市助博士像 クチコミ・アクセス・営業時間|錦帯橋周辺【フォートラベル】 (4travel.jp)

藤岡市助博士(1857-1918)は「日本のエジソン」「日本の電気の父」と称され、

岩国出身の偉人です。

以前に「日本のエジソン 藤岡市助 山口県岩国市が生んだ偉人」と題してブログ

を書いていますが再掲載し、藤岡市助の業績を紹介します。

 

上の写真が藤岡市助先生である。

まず、Wikipedia(一部加筆)より藤岡市助氏のプロフィールを紹介したいと思います。

安政4年 3月14日周防国玖珂郡岩国町大字錦見 (現在の岩国3丁目15-5)
(1857)  岩国藩士藤岡喜介と妻ウメの長男として生まれた。
  
慶応元年 藩校の養老館に入る。
(1865)

明治5年 岩国県語学所で英語の読書や会話、習字、算術などを学ぶ
(1872) 特にイギリス人の英語教師 スティーブンス先生の指導によるところが
       大きかった。

       スティーブンス先生については小生のBlogにて紹介
    スティーブンス先生(Herbert Augustus Stevens氏)は岩国のあと
    神戸の裁判所に勤務されています。墓は神戸の外人墓地にあります。

明治8年 旧藩主吉川経健から奨学金を得て工部寮電信科入学。合格者は6名であった。
(1875) 在学中にウィリアム・エドワード・エアトン教授に学び、学生として1878年3月25日
      の銀座木挽町での日本初のアーク灯点灯実験に参加している。
       この日は電気記念日となっている。

   ウィリアム E エアトン教授の紹介は小生のBlogにて記載
明治13年 電信技術の教科書「電信初歩」を書く。(23歳)
(1880)

明治14年 名称が変わった工部大学校を首席で卒業。(24歳)
(1881)   卒業論文は「測定器ガルバメーターに就いて」。工部大学校の助手に就任する。
        この頃、東芝創業者となる田中久重に会う。

明治15年  銀座大倉前で2000個のアーク灯を点灯する。
(1882)

明治16年  アーク灯用の発電機を設計製作。
(1883)

明治17年  工部大学校教授に就任。物理学、電信学を教える。(27歳)
(1884)   フィラデルフィア万国電気博覧会を視察し、ニューヨークに立ち寄り
        トーマス・エジソンに会う。

明治19年  帝国大学工科助教授に就任。同年に辞職し、山尾庸三
(1886)   尽力で東京電燈を設立する。
        東京電燈の設立には矢島作郎、三野村利助、大倉喜八郎、原六郎、
        柏村信、蜂須賀茂韶が参加し、設立されようとしていた「日本電灯」も合流している。
        合流には渋沢栄一が関わっている。
        発電機の交流直流論争において、岩垂邦彦が親交の深かったエジソンに
        逆らってもニコラ・テスラの交流に賛意を示したのに比べ、東京電燈の
        技師長であった藤岡がエジソンの直流側についたのも有名である
        (但し、藤岡の説得で財界シンジケートが組まれて資本投下をされていた為、
         後戻りできなかった事情も窺える)。

明治23年  三吉正一と電球製造の白熱舎(後に東京電気から東芝へと発展)創設。
(1890)   電車を発表、浅草凌雲閣にエレベーターを作る。
        日本電気協会会長、東京電気社長、岩国電気軌道社長などを歴任。

同郷の先輩に江木千之氏がおり電球製造の後援者となる。

上の写真は藤岡市助先生の4回の欧米視察についてまとめたパネルの写真です。
(岩国学校資料館に展示)

第1回 明治17年(1884)8月~12月 フィラデルフィア万国電気博覧会とアメリカの
                          電気業界視察。

第2回 明治19年(1886)12月~翌年6月
       東京電灯会社の技師長として矢嶋社長と欧米各国を視察
       イギリスのスワン会社の電球製造機を購入

第3回 明治31年(1898)2月~12月
       東京電灯会社と帝国大学工科大学を辞職した市助は、自らの研究を自由に
       進めていくための視察を行った。
       電気鉄道や電球、水力発電については特に観察と調査研究を重ねた。

第4回 明治39年(1906)3月~翌年9月
       吉川男爵など5人の同郷の人達や途中合流した長男の圭助と共に欧米諸国
       を巡り、高速電気鉄道や電球製作、大型水力発電所等を視察し各国の
       先進技術に触発された。


上の写真は岩国学校資料館での展示で、藤岡市助先生が愛用していた机と椅子。

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岩国行波の神舞

2019年02月15日 03時51分29秒 | 岩国情報
2019年2月9日(土)朝のNHKテレビの番組小さな旅「童の笑顔~シリーズ 三つの物語~」
で山口県岩国市で神楽を舞う中学生で岩国行波(ゆかば)の神舞が紹介されていました。
山口県岩国市行波では、過疎の集落に住む人々を結びつける「神楽」を大切に守る中学生
として紹介。旅人は山本哲也氏

岩国情報を主テーマの一つに掲げている本ブログで最近は岩国情報に関する記事を書いて
いないので今回このテーマを選びました。


岩国行波の神舞(いわくにゆかばのかんまい)は国の重要無形民俗文化財として
昭和54年(1979)2月3日に指定されています。

岩国行波の神舞の解説を文化庁の国指定文化財などのデータベースより引用紹介します。
解説文:
 周防に伝承される神楽の一つで、七年に一度執行される年期神楽である。
毎年十月十四日に小神楽として荒玉社境内でその一部が上演されるが、七年目の大きい神楽
の時には、錦川の川原に赤松の柱九本で約八メートル四方の神殿を建て、屋根を藁のこもで
葺いて中央に天蓋を飾る。さらに神殿より約二十五メートル川上に、非常に高い赤松を
一本立て、八関の舞の時に、この松柱に登る曲芸的な舞を演じる。曲目には、
荘厳【かんごん】(神殿【かんでん】入り)、六色幸文祭【ろくじんこうぶんさい】、
諸神勧請【しよしんかんじよう】、注連灑水【ちゆうれんしやすい】、
荒霊豊鎮【こうれいぶちん】、真榊対応内外【まさかきたいおうないがい】、
日本記、天津岩座【あまついわと】、弓箭【ゆみや】将軍、三宝鬼人、五竜地鎮、
愛宕八幡【あたごはちまん】、八関【はつせき】の舞【まい】、湯立【ゆたて】、火納が
あるが、このうち八関の舞以下は、七年目の神楽の時だけに演じられる。
周防地方に伝承される神楽の中でもきわめて優れた内容を持ち、地方的特色の濃い神楽として
重要である。



最近の7年に一度の第37回年期神楽は2013年4月8日~9日に実施されたようです。

紹介サイトへリンク:
 https://kintaikyo.iwakuni.info/archives/3265

Wikipediaによれば
毎年10月中旬、行波の荒玉社の例祭においても神楽が奉納される。秋の例祭で奉納される
演目は以下の12座である。  

荘厳
六色幸文祭
諸神勧請
注連灑水(ちゅうれんしゃすい)
荒霊豊鎮
真榊対応内外(まさかきたいおうないぎ)
日本紀
天津岩座
弓箭将軍
三宝鬼人
五龍地鎮
愛宕八幡


岩国行波の神舞の歴史をWikipediaより引用紹介します。
起源:以下の2つの説がある。

  室町時代以降に京都地方で始まり、岩国地方に伝えられたとする説。
  荒神神楽として、豊後の国(現在の大分県)から大島郡を経て伝えられたとする説。
1791年:記録に残る最古の神舞。以降、7年毎の願舞は、途切れることなく奉納されている。
     (当時の神舞は神主が主体で執り行なう社人神楽であった)
明治維新の頃:世襲制の廃止に伴い、神舞が神主から里人(地元住民)へと伝授され、
       奉納の主体も地元住民に移る。
  古式がよく守られ、その形態を変えることなく伝承している神楽として、
  以下のような指定、選択を受ける。
1971年(昭和46年):岩国市指定無形民俗文化財に指定される。
1973年(昭和48年)3月30日:山口県指定無形民俗文化財に指定される。
1976年(昭和51年)12月:「記録作成等の措置を講ずるべき無形民俗文化財」に選択される。
1979年(昭和54年)2月3日:国の重要無形民俗文化財に指定される。
2007年(平成19年)4月8日:直近の願舞の行なわれた日(前日は前夜祭)。
2013年4月8日:直近の願舞の行なわれた日(前日は前夜祭)。
2020年4月?:次回の願舞の年(予定)。



前置きが長くなりましたが上記番組の写真を添付していきます。



上の2枚の写真は岩国行波の神舞




上の2枚の写真は練習の様子


上の写真は練習の会場「岩国行波の神舞伝承館」
錦川鉄道の行波駅を降りたすぐの所にあるようです。


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嶋谷汽船本社跡---岩国市由宇町(2018-9-21改訂版)

2018年09月21日 06時23分11秒 | 岩国情報
2005年4月26日付けで下記のブログ記事をアップしています。
由宇町は玖珂郡であったが2006年3月20日に岩国市に編入され岩国市由宇町となっています。
このようなこともあり同じ題目で新たな項目や写真を追記してブログを書くことにしました。

由宇船主の中で頭角を現した嶋谷徳右衛門(嶋谷汽船創始者)は
若くして船主兼米問屋の中尾家に奉公して廻船業務と米の売買を習得
その才知と能力はすばらしく、その為主家に認められ明治10年(1877)
徳右衛門40歳の時に中尾本家の持船2隻・昌栄丸(900石)と昌宝丸
(700石)を譲り受け更に生家の父親所有船若宮丸を継承して
所有船3隻の船主となって独立した。
しかし明治22年 6 月28日享年52歳にして逝去となり嗣子嶋谷徳三郎が
弱冠22歳で二代目として家業を継承し家督を相続した。
徳三郎は慶応 3 年 (1867) 11月 7 日の生まれで若年より
父に鍛えられ20歳前既に米穀の取り引きや米相場船舶の配船業務などに
精通する優秀な人であった。
由宇の和船を 使った海運業者(北前船廻船業者)が鉄道の開通や電信電話
の発達で廃業に追い込まれる状況下でも嶋谷汽船(当時は嶋屋)
明治29年(1896)イギリス製の浦門丸(528t)を購入し踏みとどまった。
その後明治34年(1901)から40年(1907)にかけて大和型帆船や木造汽船
を処分し堅実第一主義の経営に徹底したと言われている。
日露戦争後の明治43年(1910) 5 月に至り 2 隻の海外船を買船 翌44年
更に 2 隻計 4 隻の千トン級鋼製汽船を購入して従来の九州航路と
北前船航路の運航を継続し充実した海運業を謳歌した。
大正元年(1912)の保有船は大成丸など5隻4350tonであった。
大正3年(1915)7月28日勃発した第一次世界大戦の影響で海運界は
未曾有の好況を迎え大正6年(1918)嶋谷汽船株式会社と改組した。
大正12年(1923)には営業の拠点を神戸明石町に移転した。


上記ブログのサイトへのリンク
 https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/ed519bca24daeaaa40ba53a536e5587a

上記の内容とダブル部分もあるが嶋谷汽船の歴史について概略記載します。


上の写真は嶋谷汽船本社跡---岩国市由宇町
出典:Googleストリートビュー 2013年5月

江戸時代末期から明治初期にかけて盛んであった由宇の廻船業は鉄道の開通や電信電話の
発達で北前船が採用していた買い積み形式の営業が不利となり明治30年代(1897-1906)
には転廃業を余儀なくされた。
嶋谷汽船は元々「嶋屋」という屋号で廻船業を営んでいました。
その持ち船は昌平丸(900石)、昌栄丸(700石)でした。

ここで岩国市由宇歴史民俗資料館のリーフレットより当時の北前船の絵馬や嶋屋の船旗
仕切証を添付しておきます。(下の3枚の写真)



上の写真は嶋谷家屋号 「やまじょう」のマークです。


嶋屋は上述のように北前船の船主でしたが明治29年(1896)イギリス製の鋼鉄船の
浦門丸(528t)を購入し、なんとか海運業に踏みとどまった。
次第に持ち船を増やして大正元年(1912)の保有船は大成丸など5隻、合計4,350トン
嶋谷徳三郎が明治28年(1895)より経営した個人営業の嶋谷汽船の組織は大正6年
(1917)5月、資本金50万円で株式会社化に改組し新たな創業となった。
順調に発展し、大正7年(1918)2月に資本金を倍額に増資。同年8月には200万円に
大正15年(1926)6月には300万円、大正12年(1923)には営業の拠点を由宇村から
神戸市明石町に移転した。
さらに昭和8年(1933)7月には500万円に増資。
昭和9年(1934)嶋谷商船株式会社(本社・小樽市)を合併し資本金600万円となって
います。昭和11年の所有汽船は18隻 49,452トンになっています。
主な汽船は太平丸(10,000トン)、昌平丸(10,000トン)、海平丸3,500トンなど

上の写真は太平丸。

主な定期航路:   朝鮮・北海道・大連航路 4回/月
(昭和11年当時)  北海道・北朝鮮航路   2回/月
          小樽・稚内航路     6回/月
          伏木・根室航路     4回/月       


昭和18年(1943)国策により三井船舶と合併。戦争によって壊滅的な被害を受けたが
戦後も存続したが昭和46年(1971)頃から経営が悪化、昭和53年(1978)に自主廃業。

昭和26年(1951)に三井船舶会社から独立して再興した嶋谷汽船であったが27年間の
活動で廃業することになりました。

なお、嶋谷汽船の社主は代々、郷里の由宇を大事にされる方で由宇小学校に多額の
寄付をされています。

参照サイト:
https://www.zensenkyo.com/_bk/kaiho/94kaiho/nihonshousen/nihonshousen48.htm

http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~shkky/wakumon/no-28/01matsuura.pdf

http://jpnships.g.dgdg.jp/company/prof_shimatanikisen.htm


最後に岩国市由宇歴史民俗資料館のしゃしんを添付して筆を置きます
出典:Googleストリートビュー 2013年5月




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獺祭の晩酌

2017年10月21日 07時29分10秒 | 岩国情報
獺祭(だっさい)は山口県岩国市周東町にある旭酒造が醸造している日本酒です。

最近は獺祭の良さが認められ国内では高級料理店で人気を誇っています。
また海外でも人気で輸出も多いと聞きます。

桜井博志会長(現在の社長は長男の桜井一宏氏)はテレビにも出演され後継者になった後、
獺祭を生み出すまでの苦労話を語られたいたのを観た記憶があります。

もらいものを獺祭を今年の夏、晩酌に飲んでほぼ空になりましたので記憶に留める為
写真を撮りました。(下の2枚の写真)





磨き2割3分の1番高級な吟醸酒です。
獺祭は醸造過程で、精米して雑味となる、たんぱく質をとる「磨き」という作業を
極限まで行うのが特徴の純米醸造酒です。

旭酒造の基本情報
住所:岩国市周東町獺越2167-4 TEL:0827-86-0120
公式サイト:https://www.asahishuzo.ne.jp/index.php

あと1回で終了となる見込みなので味わって飲もうと思っています。

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江戸時代の古地図を見ながら往時の城下町や宿場町を散策するガイドウオーク

2017年08月25日 05時43分40秒 | 岩国情報
<ガイドウオーク>来月スタート 古地図片手にまちを歩こう 下関、萩、岩国など28コース /山口


興味のある企画内容なのでリンクさせていただきました。


関連サイト:山口県の旅行

古地図ということで萩市浜崎地区の江戸時代の地図と現在の地図を添付しておきます。
(下に添付の2枚の写真)









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岩国空襲と岩国爆弾中心地の碑---JR岩国駅前

2017年08月16日 06時58分09秒 | 岩国情報
2017年8月12日の21時より、NHKテレビ スペシャル「本土空襲 全記録」という
番組を視聴したこの中に岩国空襲についても触れられていましたので写真紹介します。




上の2枚の写真は上記のNHK番組で報道されたものです。

昭和20年(1945)8月14日の25分間の空襲で爆弾2,839発が投下され
517人の犠牲者がでました。

岩国大空襲、 この空襲の帰りに光にも空襲があった。その写真も添付しておきます。



上記の番組では日本全国で2,000の空襲があり45万9,564人が犠牲になったと報道
日本への初期の空襲ではB-29のみにより軍需産業関係を中心としたピンポイントの空襲が
中心であったが、ゼロ戦によりB-29 が105機も落とされ800人余の死者が出たこと
空襲の命中率が約7%と低いレベルであった為、
第21 爆撃機集団のカーチス ルメイ司令官が任命後は無差別空襲に切り替わった。


同時に過去に書いた下記ブログをそのまま引用紹介します。
  岩国爆弾中心地の碑---JR岩国駅前


写真は岩国爆弾投下の中心地の碑である。
(2006-4-5撮影)
平成7年(1995)8月14日に建立されたものである。
平和の「和」の文字が刻まれている。
碑の説明文には以下のように記されている。
「昭和20年8月14日第2次世界大戦において
岩国駅前地区空襲に依って受難された方々の
ご冥福を祈るとともに戦争の恐ろしさと平和の
尊さを祈念してここに碑を建立する。」
第2次世界大戦において何百万かの尊い命が失われ
遺族の思いは計り知れないものだと思います。


岩国空襲は上述した8月14日が最も大きな被害を受けましたが、他にも
3月19日、4月2日、4月16日、5月4日、5月10日、7月24日、7月28日、8月9日
にも空襲がありました。
これらについて、記載したサイトにリンクさせていただきました。
 https://iwakuni-genbaku-sensouten.jimdo.com/
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