CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

ベジキッチン 「とんこ」でのランチ on 2024-4-6

2024年04月27日 17時19分06秒 | 神戸情報
2024年4月6日、神戸市北区の神戸電鉄岡場駅前のベジキッチン 「とんこ」でランチを
いただきましたので写真紹介します。

ベジキッチン 「とんこ」の基本情報
住所:神戸市北区藤原台中町1丁目2−2 エコールリラ南館 5F  TEL:078-597-7798  
営業時間:11:00 - 16:00  定休日:不定休 
オープン日:2021年4月23日

所在地のGoogleマップを添付しておきます。




上の2枚の写真は当日いただいたサービスランチ C.豆腐蓮根入りハンバーグ950円(税込)



上の2枚の写真は当日いただいたサービスランチ950円(税込)のメニュー表です。


上の2枚の写真は人気メニューのとんこランチ1,350円(税込)の紹介


上の写真は串かつ盛り合わせ 1,500円(税込)の紹介

上の写真はお店の外観(入口)


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来迎寺(築島寺)への訪問記 on 2024-3-19

2024年04月10日 10時16分13秒 | 神戸情報
2024年3月19日、来迎寺(築島寺)久しぶりに訪問したのでブログで記載しておきます。

来迎寺(築島寺)の基本情報
住所:神戸市兵庫区島上町2丁目-1-3  TEL:078-681-0397
宗派:浄土宗西山派 本尊:阿弥陀仏 山号:経島山
福原西国三十三箇所 第29番札所
建立の由緒:二条天皇(平清盛の説もあり)が築島建設で功のあった松王丸の
        菩提を永く弔うために建立され念仏道場とした

来迎寺所在地のGoogleマップを添付しておきます。


築島寺遠景

上の写真は築島寺の遠景及び中景です。
通称名の「築島寺」は人工的に築いた島の上に建てられたことに由来しています。 

清盛七弁天 
清盛七弁天は以下のとおりで、数字の順番で巡る企画です
1.和田神社(安全弁天)
2.真光寺(音楽弁天)
3.能福寺(清盛くん)
4.来迎寺(松王丸くん)
5.済林寺(勉強弁天)
6.恵林寺(運動弁天)
7.兵庫厳島神社(お洒落弁天)
8.氷室神社(恋愛弁天)
9.花隈厳島神社(健康弁天)

松王小児入海の碑  



上の2枚の写真は松王小児入海の碑と現地説明板です。
松王小児入海の碑の説明板より要約引用させていただきます。
二条天皇の御代(1158-1184)平清盛はわが国の貿易の中心地はこの兵庫である
との確信をもって、良港を築くため海岸線を埋め立てる工事に着手した。
しかし潮流が早く非常な難工事で、完成寸前に押し流されることが二度に及んだ。
時の占い師は「これは龍神の怒りである。三十人の人柱と一切経を書写した経を
沈めると成就するであろう」と言上した。そこで清盛は生田の森に隠れ関所を構え
通行の旅人を捕らえさせたが、肉親の悲嘆は大きかった。
この時、清盛の侍童で賀川の城主田井民部氏の嫡男17歳の松王が
「人柱のことは罪深い。自分一人を身代わりにして沈めた下さい」と申し出た。
応保元年(1161)7月13日、千僧読経のうちに松王は海底に沈み築港造営は
完成した。
兵庫津の繁栄の礎となった事件であった。
」  

松王丸の命日とされる7月13日に法要が行われています

祇王と祇女の塔

上の写真は妓王と妓女(祇王と祇女)の五輪塔です。
松王小児入海(松王丸)の碑の右には祇王と祇女の五輪塔があります。
説明板より要約引用させていただきます
妓王(ぎおう)と妓女(ぎじょ)は姉妹でともに堀川の白拍子であった。
平清盛の寵愛を受けて優雅な生活を送っていました。清盛のこころが
仏御前に傾くに及び世の無常をを嘆き京都嵯峨野に庵(今の妓王寺)を結び
母とともに仏門に入った。その後平家が壇ノ浦で滅亡した為、平家ゆかりの
兵庫の八棟寺(築島寺の末寺)に住持して一門の菩提を弔った。



珪化木


稲荷社

上の写真は境内の稲荷社。祇王と祇女の塔の右手にあります。


築島寺の古写真
上の写真は大正期の築島寺=来迎寺 
出典:和田克己氏編著の「むかしの神戸」副題が絵はがきに見る明治・大正・昭和初期 
 正面が山門と本堂、右手の地蔵堂、左手に観音堂と庫裏(くり)があったが
 昭和20年の空襲で全焼した。 

摂津名所図絵で描かれた築島寺


上の写真は摂津名所図会で描かれた築島寺

摂津名所図会より松王丸に関する記述を要約引用させていただきます。
松王丸は松王小児(松王健児(こんでい)と書かれています。

埋め立てても大波が土石をゆり流してしまう。竜神の怒りをなだめるため30人の
人柱と経石を海底におさめよとの占いがでた。
平相国(清盛)は生田の森に関をすえて往還の旅人を捕らえさせたが、近隣の村民が
これを歎いて訴えるので兵庫の者はこの難を免れた。
今のことわざに『兵庫の者なり御免あれ』というのはこの由縁である。
3ヶ月かけて30人をとりこにしたが、親族が群れ来てその悲嘆は尋常ではなかった。
清盛はこれを悼んで延期すること5ヶ月に及んだ。
そこへ讃州香川城主大井(おおい)民部(みんぶ)の嫡子松王小児17歳が進み出て、
身代わりに自分ひとりを沈めるように願い出た。清盛は大いに心を動かされる。
ついに、経石と松王小児を海に沈めて島は成った。沈めた所に建てられたのが
築島寺(来迎寺)である。


日本名所風俗図会のPage302「経島山来迎寺」の説明書きより要約引用
兵庫津の島上町にあり。本尊は恵心僧都の作で長さ4尺の阿弥陀仏、
島供養本尊釈迦仏、弁財天、平清盛鏡影(54歳のときに自ら画きたまふ影像)
松王小児像(17歳の松王丸を平相国が描く)、梅実伽藍彫刻(古伽藍が刻まれていた)
観音堂、鎮守(稲荷社に隣接)、松王人柱印石(本堂の前)
応保年間(1161-1162)に松王丸の遺徳を偲び平清盛が五条大納言国綱卿に命じて
来迎寺造営の詔を出した。
造営後、来迎寺は常行念仏の道場となり不断院と号し、世には築島寺と呼ばれる。

境内の見どころ
1.珪化木

上の2枚の写真は築島寺の境内にある珪化木と現地説明書き

2.宝篋印塔

3.お地蔵様

上の写真は境内のお地蔵様 謂れは未調査で不明

4.石灯籠

上の2枚の写真は境内の石灯籠

5.吉分大魯の歌碑

上の写真は境内の「吉分大魯」の歌碑
花鳥のそろへば 春のくるゝかな」と書かれています。

朝日日本歴史人物事典より作者の吉分大魯について引用紹介します。
吉分大魯(よしわけ たいろ)
没年:安永7.11.13(1778.12.31)
生年:生年不詳
江戸中期の俳人。別号は馬南,蘆陰舎など。もと今田文左衛門と称する阿波(徳島)藩士であったが,致仕して京都に出て俳諧師となった。大坂勤番中に遊女と駆け落ちをして脱藩したという説もある。与謝蕪村の門人であったが,かどかどしい性格が災いして同門の人々や門人と融和してゆくことができず,そのために不幸な人生を歩んだ。「我にあまる罪や妻子を蚊の喰ふ」という句に,つらい生活を強いた妻子に対する自責の念もうかがえる。享年は49歳か。<参考文献>杉山虹泉『俳人吉分大魯』,潁原退蔵「大魯」(『潁原退蔵著作集』13巻)
(田中善信)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について


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2024年の神戸市開花宣言は4月1日 及び明石公園の桜開花状況 on 2024年4月4日

2024年04月05日 07時38分03秒 | 神戸情報
神戸地方気象台は昨日(2024年4月2日)、神戸市内で桜(ソメイヨシノ)が
開花したと開花宣言をしました。

平年より5日遅い開花宣言となりました。

神戸市灘区の王子公園内の標本木で開花の基準以上の花が咲いているのを1日午後
気象台の職員が確認しました。



上の2枚の写真は明石公園で撮った桜 撮影:2024年4月4日
明石公園の「桜堀」及び「剛の池」周辺の桜を撮りました。
満開まではまだ時間がかかりそうです。

上の写真は「剛ノ池」のカルガモ

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神戸市須磨区の現光寺の桜の開花状況 on 2024-3-28

2024年03月30日 17時02分45秒 | 神戸情報
本日(3月30日)大阪でも桜の開花宣言がありました。そこで桜に関するブログを書きます。
2024年3月28日、神戸市須磨区にある源氏物語13帖「須磨」の巻に所縁の現光寺の桜
写真を撮ってきましたので写真紹介します。
上の写真は桜のごく一部での桜開花状況です。 撮影:2024-3-28

上の写真は全体の状況で多くの蕾は開花を待っている状況です。
メジロが2~3羽、木の枝にいましたが望遠レンズの付いていないカメラでの
撮影で上手く写っていません。撮影:2024-3-28


姫路城の開花状況
年     開花   五分咲き  満開近し  満開   散り始め
令和4年  3月25日  3月30日  4月1日   4月2日
令和3年  3月19日  3月27日  3月29日   3月30日 4月3日
令和2年  3月24日  3月31日  4月4日   4月5日   4月11日
平成31年 3月29日  4月4日   4月5日   4月6日   4月15日
平成30年 3月25日  3月28日  3月29日   3月30日   4月4日

上の表は少しデータが古いですが姫路城の桜の開花状況です
平成29年   4月2日    4月6日    4月7日   4月8日   4月13日

上の写真は2022年4月7日 に撮影した姫路城の桜です。

詳しくは下記ブログで書いています。 

現光寺に関する最近のトピックスとして源氏物語絵巻の複写絵について写真紹介します。



上の2枚の写真は神戸市須磨区の現光寺本堂の襖に描かれた国宝「源氏物語絵巻」の複写絵
撮影:2024-1-12
上の写真は源氏寺碑である。(2024-3-28撮影)
源氏物語の主人公光源氏が従者数人と京より須磨に蟄居していたところと古来より伝えられ
ています。この石碑はもともと現在の場所より北西約20mはなれた場所に建てられていま
したが平成7年(1995)1月17日阪神淡路大震災後、都市計画道路千森線の整備に
あわせて新しく平成14年(2002)再建された現光寺の門前に移されました。

上の写真は現光寺の本堂です。 撮影:2024-3-28
謡曲「須磨源氏」は、日向国の社宮藤原興範が、伊勢参宮の途次、須磨の浦に立ち寄ると、
老樵夫(きこり)賀桜の木陰から現れ、光源氏一代の略歴を物語り、自分はその化身であることをほのめかす。その夜、旅まくらの興範の前に、菩薩となっている光源氏が、気高く優雅な姿で天下り、在りし日の須磨のくらしを回相しつつ青海波の舞を舞って夜明けと友に消えうせるという典雅な曲である。
須磨は観月の名所として名高く平安時代の王朝ロマンの主人公光源氏が、複雑なしがらみの中で傷ついた心を慰めるのに格好の地だと千年前に生きた紫式部も知っていたのでしょう。
以上は謡曲史跡保存会作成の説明書きより一部引用しました。

 

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神戸華僑歴史博物館特別展 「神戸を愛し神戸に生きた陳舜臣」観覧記 on 2024-2-21

2024年03月29日 04時50分23秒 | 神戸情報
2024年2月21日、神戸華僑歴史博物館特別展「神戸を愛し神戸に生きた陳舜臣
観覧しました。その時に撮った写真及び関連写真を紹介します。
この特別展は直木賞作家の陳舜臣さんの生誕100年を記念して企画されました。
特別展は終了しています。

陳舜臣さんは1924年(大正13年)2月18日神戸生まれ
2015年1月21日午前5時46分、90歳、老衰のため神戸市内の病院で死去されています。 

特別展要項  
テーマ:「神戸を愛し神戸に生きた陳舜臣」
会期:2024年1月31日~2月24日の水曜~土曜及び2月11日(日)
但し2月23日(祝)は休館
会場:神戸華僑歴史博物館(神戸市中央区海岸通3丁目1−1 神戸中華総商会ビル 2F )
神戸華僑歴史博物館のTEL:078-331-3855 
開館時間:10:00~17:00
主催:孫文記念館友の会、神戸華僑華人研究会、神戸華僑歴史博物館

所在地のGoogleマップを添付しておきます。


最初に概要を掴むため、サンテレビが作成したYoutube動画にGooで共有させていただきました。
神戸華僑歴史博物館特別展 「神戸を愛し神戸に生きた陳舜臣」

展示遠景
上の写真は特別展の展示遠景
特別展は「陳舜臣さんを語る会通信」を2020年からネットで発信されている
神戸華僑歴史博物館の学芸員の橘雄三さんが主に動いて展示されました。

特別展あいさつ(館長)

上の写真は神戸華僑歴史博物館長(愛新 翼さん)が書かれた特別展の開催に寄せての挨拶文
陳舜臣さんの写真
上の写真は2003年、陳舜臣さん79歳頃の写真

特別展概要

陳舜臣さんの紹介


パネルNo.6
上の写真は神戸華僑歴史博物館の学芸員の橘雄三さんが企画展に合わせ作成された
13枚のパネルの中の一部(No.6  作品に描かれた神戸2)です。
このパネルの1番下の写真(2015年撮影)は私が撮った写真が使用されています。
陳舜臣さんが須磨寺を訪れた時に作った七言絶句2首の歌碑が現在も建っています。
私のブログで詳細に書いていますのでリンクしておきます。

その他のパネルで陳舜臣さんの神戸市内での引っ越し歴や、推理小説などの
舞台となった神戸の街並みなどが紹介されています。
神戸に生まれ、神戸で亡くなった陳舜臣さんの神戸愛を感じ取ることができる
展示となっています。

陳舜臣作品(推理小説)


陳舜臣作品(一般)



陳舜臣作品(海外版)


陳舜臣さんは生涯で約250点の作品を残しているそうです。

陳舜臣さんの生涯
参考資料:
 3) 神戸開港150年事業「神戸 みなと 時空」の展示

大正13年(1924)2月18日 台湾人貿易商の次男として神戸・元町7丁目に生まれた。
          父:通 母:蘇嬌 本籍は台湾・台北市
昭和5年(1930)6歳 神戸市立諏訪山尋常小学校に入学
昭和6年(1931)7歳 中央区北長狭4丁目に転居
昭和7年(1932)8歳 神戸尋常小学校に転校
昭和9年(1934)10歳 神戸市海岸通5丁目に転居
昭和11年(1936)12歳 4月、神戸市立第一神港商業学校
昭和12年(1937)13歳 秋に、父の店に特高警察が踏み込む事件が起きる
昭和16年(1941)17歳 4月、大阪外国語学校印度語部に入学
昭和17年(1942)18歳 この頃、台湾から日本の学校に受験する青年達が陳家に泊まった。
        彼らから刺激を受け、中国の文学作品を多く読む。
        新学期にモンゴル語科の福田定一(司馬遼太郎)が入学
        第2外国語としてペルシャ語をとる
昭和18年(1943)19歳 春から秋に大阪のガスビル斜め前の「大防空壕」堀に動員される
        9月、繰り上げ卒業し、母校の阿南亜細亜語研究所助手になる。
昭和19年(1944)20歳 陳家は貿易商仲間の蔡家が所有する北野町1丁目の洋館に間借り
        空襲警報が鳴るとここに避難した。
昭和20年(1945)21歳 3月13日、大阪外国語学校は空襲で殆ど焼け落ちた
        3月17日の神戸大空襲で海岸通の家が焼ける
        神戸市垂水区の御霊町の一軒家に引っ越す
        藤沢恒夫の勧めで「清文学」3月号に「印度現代詩抄」掲載
        日本の敗戦で日本国籍ではなくなり大阪外国語学校を退職
昭和21年(1946)22歳 学者を諦め台湾に渡ることを決意
        蔡錦墩 と婚約
        3月、台湾の叔父の家、台北県に住所を移す
        台北県立新荘初級中学の英語教師として勤務
昭和24年(1949)25歳 10月、日本に帰る 帰国直後に初めて小説を書く
        家業(ちちの経営する貿易業)に従事
昭和25年(1950)26歳 3月26日、5歳下の蔡錦墩 と結婚
                新居は神戸市生田区布引町2-3-19
        
昭和27年(1952)28歳 1月、生田区北野町1-7 外人アパートに転居
         5月14日 長男 立人誕生
昭和32年(1957)33歳 10月、生田区北野町1-31 妻の実家に転居
        この頃からぼちぼち小説を書き始める
昭和33年(1958)34歳 1月1日 長女、山果誕生
昭和34年(1959)35歳 
   長女を看病中に推理小説を読み「これくらいなら自分にも書けるかも」
   とペンを取る。これが1961年のデビュー作「枯草の根」講談社につながる
昭和35年(1960)36歳 10月 「風のなか」が第11回文学新人賞の最終審査候補作となる
昭和36年(1961)37歳 「枯草の根」で第7回江戸川乱歩賞を受賞 作家生活に入る
    この作品は500枚の長編推理小説で主人公は「陶展文」
    この頃、「コスモポリタン(国際人)」を自任
上の写真は「枯草の根」に関する解説パネル
出典:神戸開港150年事業「神戸 みなと 時空」の展示 in KIITO
  2017年1月25日~12月28日開催 陳舜臣と神戸ミステリー館の展示
  2017年1月28日観覧

昭和37年(1962)38歳 
       「三色の家」講談社  のち文庫、扶桑社文庫
 三色の家のモデル神戸市海岸通5丁目の家は昭和20年(1945)の神戸大空襲で焼失していた。
上の写真は「三色の家」に関する解説パネル
フランス国旗の家とも呼ばれていた。
出典:神戸開港150年事業「神戸 みなと 時空」の展示 in KIITO
  2017年1月25日~12月28日開催 陳舜臣と神戸ミステリー館の展示
  2017年1月28日観覧
上の写真は「三色の家」の復元模型 明石高専 水島あかね研究室
出典:神戸開港150年事業「神戸 みなと 時空」の展示 in KIITO
  2017年1月25日~12月28日開催 陳舜臣と神戸ミステリー館の展示
  2017年1月28日観覧

       「弓の部屋」東都書房  のち講談社文庫
       「割れる 陶展文の推理」早川書房  のち角川文庫、徳間文庫
以上の3つの作品では神戸在住の華僑で中華料理店「桃源亭」の経営者陶展文が活躍
       「怒りの菩薩」桃源社  のち集英社文庫
       「方壷園 推理小説集」中央公論社   のち文庫
昭和38年(1963)39歳
    「天の上の天」講談社  のち徳間文庫(『宝石』1963年9月-)
昭和39年(1964)40歳
  「白い泥」学習研究社(ガッケン・ブックス) のち徳間文庫
  「まだ終らない」角川小説新書  のち徳間文庫
  「月をのせた海」東都書房  のち徳間文庫
  「黒いヒマラヤ」中央公論社  のち文庫
昭和40年(1965)41歳
  9月「神戸というまち」を書き下ろし至誠堂新書として発行
昭和41年(1966)42歳
  3月 生田区山本通4-72-16に転居
  辛亥革命にかかわる推理小説「炎に絵を」をオール読物5月号から8月号で連載
  12月 長編推理小説「影は崩れた」を読売新聞社より刊行
     灘区篠原伯母野山3-1-14に家を新築 転居
昭和42年(1967)43歳
  朝日、毎日、東京、サンケイ、「現代」、「旅」などに多くの新聞や雑誌にエッセイ寄稿
  10月、11月 中国歴史小説(約3千枚)「阿片戦争」(全3巻)講談社
昭和43年(1968)44歳
  「孔雀の道」を神戸新聞5月12日から12月31日まで連載
   長編小説「濁った航跡」を読売新聞社から書き下ろし出版
  9月 歴史推理小説「青玉獅子香炉」を「別冊・文藝春秋」に掲載
  神戸市民主催の「半どんの会」賞を受賞
昭和44年(1969)45歳
  1月 第60回直木賞(1968年下半期)「青玉獅子香炉」で受賞
   「玉嶺よふたたび」徳間書店
   「幻の百花双瞳」講談社   のち角川文庫、徳間文庫
   「孔雀の道」講談社 のち文庫、双葉文庫、広済堂文庫
  7月、中国現代史に村をとった推理小説「凍った波紋」をサンデー毎日7月27日号から
    1970年5月24日号まで連載
   「銘のない墓標」講談社  のち徳間文庫、中公文庫
   「他人の鍵」文藝春秋
昭和45年(1970)46歳
  3月 「玉嶺よふたたび」、「孔雀の道」で昭和45年度日本推理作家協会賞
  5月 アメリカとカナダを旅する

昭和46年(1971)47歳
  5月18日 父、通が死去(76歳)
  書き下ろし長編エッセイ「日本人と中国人」祥伝社 ベストセラーに
  「実録アヘン戦争」で第25回 毎日出版文化賞を受賞
  「残糸の曲』朝日新聞社  のち角川文庫、徳間文庫、朝日文庫
  「異郷の檻のなか」中央公論社
  「六甲山心中」中央公論社
  「北京悠々館」講談社  のち徳間文庫、集英社文庫
  「崑崙の河」三笠書房 のち角川文庫、徳間文庫、中公文庫、広済堂文庫
  「なにも見えない」講談社 1971年 「望洋の碑」徳間文庫
  「夜の歯車」実業之日本社(ホリデー新書)  のち徳間文庫
昭和47年(1972)48歳
  7月 はじめて夫人と一緒に沖縄を訪れる
  10月 初めて中国に行く 身分は日本の旅券
    日中国交回復から中国各地、シルクロードなどを旅
  「南十字星を埋めろ」実業之日本社(ホリデー新書) のち徳間文庫
昭和48年(1973)49歳
  中華人民共和国の国籍を取得。以降、台湾に入れなくなった
  海洋ロマンとも言うべき「風よ雲よ」中央公論社  のち講談社文庫、中公文庫
  「中国任侠伝」(正続) 文藝春秋  のち文庫、徳間文庫
  「長安日記 賀望東事件録」毎日新聞社 中公文庫
  「柊の館」講談社
  「虹の舞台」光文社カッパ・ノベルス  のち角川文庫、徳間文庫
  「失われた背景」サンケイ新聞社  のち中公文庫
昭和49年(1974)50歳
  「秘本三国志」(全6巻)文藝春秋 1974年-1977年のち中公文庫
  「青雲の軸」旺文社文庫  のち集英社文庫
昭和50年(1975)51歳
  8月から9月 敦煌を旅する
  10月 神戸市民文化賞を受賞
  「青春の烙印 神田希望館」講談社  のち徳間文庫
  「新西遊記」読売新聞社 のち講談社文庫
  
昭和51年(1976)52歳
  3月12日 母、蘇嬌が死去
  9月「敦煌の旅」で第3回大佛次郎賞
  「桃花流水」朝日新聞社  のち中公文庫、朝日文庫
昭和52年(1977)53歳
  7月 中国シルクロードを旅する
 「旋風に告げよ」講談社 
 「鄭成功」中公文庫
 「小説十八史略(全6巻)毎日新聞社 1977年-1983年 のち講談社文庫
 「闇の金魚』講談社  のち徳間文庫(書き下ろし)
 「蘭におもう」六興出版 のち徳間文庫
昭和53年(1978)54歳
 「漢古印縁起」講談社  のち中公文庫
 「燃える水柱」徳間書店 のち広済堂文庫

昭和54年(1979)55歳
  5月、NHK特別番組「シルクロード」制作にあたり中国西安へ行く
  12月 インドの仏蹟をまわり、タイから帰国
昭和55年(1980)56歳
  4月 特別番組「シルクロード」第1部「中国編」が始まる
昭和56年(1981)57歳
  4月 松陰女子大学の教授となり文学概論の講座をもつ(1998年3月まで)
昭和57年(1982)58歳
  9月から10月にかけてNHK「シルクロード」の取材でイランに行き、
  トルコ、ローマ、北京を経て帰国
  10月 韓国を訪ねる
昭和58年(1983)59歳
  1月から2月にかけタイ、シンガポール、アメリカを訪ねる
  10月 第20回日本翻訳文化賞「叛旗 小説・李自成」(弟の陳謙臣と共訳)
  「中国五千年」平凡社  のち講談社文庫
昭和59年(1984)60歳
  6月 ローマ、パリ、ロンドンを訪れる
昭和60年(1985)61歳
  2月 NHK「シルクロード」関連番組への出演などにより第36回放送文化賞
昭和61年(1986)62歳
  4月 アメリカからイギリスへ旅する
  8月 イスタンブール、ジュネーブ、パリ、ロンドンを訪ねる
  10から11月にかけて上海・浙江を取材訪問
昭和62年(1987)63歳
  4月「茶事遍路」の取材に中国訪問(黄帝陵を参拝。成都、昆明、西双版納傣(シーサンパンナタイ)族自治州・ 景洪県へ )
  8月 妹・妙齢らと中国を旅する(北京、承徳、旅順、大連、天津など )
  12月 中国を旅する(上海、福州、泉州、安渓、廈門など )
昭和63年(1988)64歳
  1月、蒋経国総統死去。副総統李登輝が総統に 
  9月、峨眉山へ 
昭和64年、平成元年(1989)65歳
  2月 「茶事遍路」で第14回読売文学賞の随筆・紀行賞
  6月4日 天安門事件
平成2年(1990)66歳
  3月 李登輝、総統選挙で選出される 
  10月 日本国籍を取得
  11月 41年振りに訪台
平成3年(1991)67歳
  3月に中央公論社から出版の「諸葛孔明」(上・下)がベストセラー
  5月から6月「世界の都市の物語」の取材でウィーンに滞在後トルコ・カッパドキアなど訪問
  6月から7月 読売新聞の企画でチンギス・ハーンの墓を探すプロジェクトでモンゴルを訪問
  10月 韓国を訪問
  11月 台湾へ旅する。台北、高雄、花蓮、台東など を歩く
平成4年(1992)68歳
  1993年度NHK大河ドラマ「琉球の風」取材で沖縄各地を度々訪問
  3月 ロンドンに大英博物館を訪問
  「諸葛孔明」で第26回吉川英治文学賞
  9月22・23日「日中文化・経済シンポ」(大連)で基調講演を行う
   北京に引き返し取材や中国人作家を訪問
  9月28日 北京人民大会堂で「中日国交正常化20周年記念宴」に出席
   愛親覚羅溥傑に会う
平成5年(1993)69歳
  元旦 司馬遼太郎の「街道をゆく」の取材同行で台北へ
  1月27日 第63回朝日賞受賞
  NHKで大河ドラマ「琉球の風」が始まる
  5月「那律楚村」の追加取材で中国へ行く
  6月「紙の道」の追加取材でロシア、カザフスタン、ウズベキスタン、モスクワなどを歩く
  9月 台北市に「陳舜臣と書室」がオープンし開館式が行われた
平成6年(1994)70歳
  5月 「那律楚村」がベストセラーになる
  5-6月 フランス、シリア、トルコ、イスラエル、ヨルダン、エジプト、イタリアへ
  7月 台湾に行く
  8月10日 宝塚歌劇80周年記念行事の講演中に脳内出血で倒れ入院
平成7年(1995)71歳
  1月13日 5か月間の闘病を終え退院
  その4日後、阪神淡路大震災、不自由な身体でもあるので2日後ホテルに入り
  1週間ほど滞在した後、元々リハビリで行く予定にしていた沖縄へ
  3月 第51回 日本芸術院賞を受賞
  10月 台湾へ行く
  11月 井上靖文化賞を受賞
平成8年(1996)72歳  
  4-5月 中国に遊び、敦煌を訪れる
  9月  台湾を訪ねる
  10月 神戸市東灘区西岡本2-7-2に転居
  10月 大阪芸術賞受賞
平成9年(1997) 73歳 

  2月 次の毎日新聞連載小説「天球は翔ける」の取材を兼ねてハワイへ旅行
  3月下旬 香港返還の意味を見つめ直すテレビ朝日の番組で紫禁城で収録
  6月 ニューヨークに行く
  7月 ハワイへ行き、リハビリ
  10月ー11月 台北から香港へ旅する 
平成10年(1998) 74歳
  1月―2月 ハワイへ 脳内出血以降、寒い時期に暖かい場所へ行くようになる
       ハワイ天理文庫に陳舜臣文庫開設
  5月 上海、台北に遊ぶ
  6月 ハワイのワイキキの浜でリハビリ
  8月 アメリカを取材、イギリスに渡り帰国
  11月 勲三等瑞宝章を受章
  「曹操残夢 魏の曹一族」がベストセラーに
平成11年(1999) 75歳
  「陳舜臣ライブラリー」が早稲田大学総合学術情報センターに設置
  7月 「小説すばる」連載予定の「桃源郷」取材のため中国雲南省へ行く
平成12年(2000) 76歳
  台北で結婚50年を祝う会
  8月 「桃源郷」の追加取材でスペイン、ポルトガルへ行く
平成13年(2001) 77歳
  2月 ハワイ、ラスベガスに遊ぶ
平成14年(2002)78歳
  5月 「毎日新聞インターナショナル」のオープニンキグセレモニーにパネリストとして
     ロスアンゼルスへ行き、キューバも取材する
平成18年(2006) 82歳 
  講談社「群像」にて「天空の詩人」を連載(遺稿になる)
平成20年(2008) 84歳
  1月5日 2度目の脳内出血で倒れる 
平成21年(2009) 85歳
  神戸新聞「わが自叙伝」を口述筆記で連載
平成22年(2010) 86歳 
  7月 台湾の一滴水記念文庫開設される
     水上露子氏と窪島誠一氏と台湾で対談
平成23年(2011) 87歳
  妻未知(蔡錦墩) 5月15日に逝去
平成26年(2014) 90歳
  5月6日 陳舜臣アジア文芸館プレオープン。開館直前に車椅子で訪館
平成27年(2015) 91歳
  1月21日 老衰で逝去。この日を桃源忌とする。                                                                                             


陳年舜臣さんの家族の写真

上の写真は陳舜臣さんの両親 出典:神戸ものがたり(2017)Page208
上の写真は祖父の陳恭和さん 出典:神戸ものがたり(2017)Page211
上の写真は陳舜臣さんと妻・未知、長女・由果 出典:神戸ものがたり(2017)Page252

陳舜臣さんの国籍
 陳さんは1972年の日中国交正常化後に中華人民共和国籍を取得し、何度も中国を旅行した。1989年の天安門事件を経て再び日本国籍を得ると、今度は台湾訪問を重ねた。

陳舜臣さんと司馬遼太郎さん
作家、陳舜臣さんと司馬遼太郎さんの関係は陳さんが1941年に大阪外国語学校
(現大阪大学外国語学部)に、司馬さんは翌42年に入学の同窓生です。
卒業後それぞれ違う道を歩み始めたように見えたが、同じ歴史を舞台にした小説家へ
神戸華僑歴史博物館で開催中の特別展では、東京への転居を考える陳さんに、
司馬さんが「神戸、関西から離れるのは賛成できないなぁー」と語ったと
紹介されています。2人の命日は桃源忌、菜の花忌と呼ばれる。
色鮮やかな桃に黄色がまばゆい菜の花。春が似合う二人である。


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兵庫津の教育を担った「明親館と明親小学校」について

2024年03月27日 05時21分30秒 | 神戸情報
現在、神戸市立図書館から借りている本、高田静夫 著「兵庫津風土記」(1994)の

Page122に「兵庫津の教育・明親館」という記述があります。

そこでこの資料をベースに書いていきます。
江戸時代末期に藩校明親館が柳原天神社付近を中心に発祥し神戸最古の小学校である
明親小学校につながっていきます。

明親館(めいしんかん)は明治元年(1868)6月13日に生徒30-40人集めて開校
した 郷学の学校で
開校時は兵庫学校*1と称していたがのちに明親館と伊藤博文により命名された。
明治5年(1872)の学制発布で、兵庫第6小学校として明治5年10月13日に
スタートを切りましたその後、明治6年(1873)8月明親小学校と改称されました。 
*1 慶応3年(1867)6月13日、切戸町の函館物産会所の建物を校舎として、
    「兵庫学校」と言う名前で開校。明治6年(1873)には経営不振、
    新学制公布(1872年)があったことなどにより閉校。
 明親小学校は神戸で1番古い小学校として知られています。
明親小学校は神戸市兵庫区須佐野通4丁目1-19に現在も存在しています。

以下、前述の記述と重なる部分もありますが話を続けます。
 
兵庫出在家の豪商神田(岩間家)兵右衛門が主導して安田総兵衛、北風惣右衛門の
連名で兵庫津の住民子弟に教育をしたいと裁判所(県庁)に願いが出された。
すぐ許可されて、切戸町の旧幕府・函館物産会所の建物を使い、姫路藩の秀才儒者の
菅野狷介(けんすけ)*2を教頭に招致し明治元年(1868)6月13日に生徒30-40人集めて開校。
*2 菅野狷介は、文政3年(1820)2月6日菅野真斎の3男として高砂の生まれ。    父真斎は、通称を武助といい、幼少より学問に秀で安芸国福山に赴き菅茶山に学び、頼春水(頼山陽の父)と交友を持ちます。さらに京都に出て医学を学んでから高砂に帰り、申義堂の教授となりました。文政10年(1827)には、姫路藩家老河合寸翁に招かれ仁寿山校の教授に就任します。頼山陽が仁寿山を訪ねるきっかけは、真斎との交友があったからです。後に姫路藩尊攘派のリーダーとなる河合惣兵衛は、この頃仁寿山校で真斎に学んだ志士です。狷介は、父に従い仁寿山校の傍らに住み学を究め、京都・摂津に師を求め医学を学びますが、次兄が早逝したため菅野家の分家の祖となりました。 
菅野狷介(白華)については下記サイトが詳しい。

高砂市十輪寺の墓地には菅野白華と菅野家の墓碑があり、下記ブログで紹介しています。
上記ブログで菅野白華について次のように紹介しています。
菅野白華は文政3年(1820)2月6日、菅野松塢(武助)の三男として高砂町今津町で生れた。
文政10年(1827)姫路仁寿山黌に学び、仁寿山黌の人々は彼を「字引」と称したという。
姫路藩は、白華が21歳の時にを江戸昌平坂学問所(昌平黌)に入らせた。
31歳で姫路藩の江戸藩邸の教官を務めます。
朱子学者であったが海防問題などにも関心を持ち有志の若者が集まったとのこと。
37歳で奥羽・蝦夷地を巡覧しのちに「北遊乗」を著しています。
安政の大獄(1858-1859)で投獄されたが、出獄後姫路藩の好古堂の副督学をつとめ
明治維新後は兵庫県の明親館の教頭を勤めた後、兵庫で病死しました。
帰郷した時に申義堂で教壇に立った可能性があります。

同年9月、裁判所(県庁)が坂本村の新庁舎に移ったのでその跡地へ移転して
「明親館」と名付けられた。
明治5年(1872)3月、兵庫町会所(岡方惣会所)に移転
同年10月、県立神戸洋学校(神戸洋学伝習所)を併合。
和・洋・漢の学問が学べる学校となった。
しかし、明治6年(1873)6月24日には経営不振、新学制公布(1872年)等により閉校。
明親館の教育内容は3クラスに分けて下等は素読、輪読、書法、中等以上では
詩文、暗記、外人も雇って英語の教育も取り入られていた。
月1回は、講日として官吏や一般聴講を許し道徳教育も行われた。
先生には上述の教頭・菅野狷介の他に北仲町の儒学者「広瀬旭荘」や一般医師が登用された。
神田兵右衛門は明親館の運営に大きく関わり資金、資材の提供をしています。
小学校が設立される前の兵庫における教育に果たした役割は一定のものがあったとされる。
神戸市兵庫区に明親小学校、また町名「明親」として名を残している。
兵庫岡方文書の中に、有栖川宮熾仁親王書「明親館」扁額が残っている。
ここで学んだ者に卜部兵吉等がいる。
明治6年(1873)10月、明親館に因んだ名の明親小学校が開校された。


以下、明親小学校の歴史について記載しました。
1871年(明治4年)11月20日に兵庫県令(現在の兵庫県知事)に就任し、
1876年(明治9年)9月3日まで兵庫県令を務めた神田孝平も小学校の創設に
積極的に関与し功績が大であった。
その他、明親小学校の設立に尽力した人物として神田兵右衛門と北風正造らがいる。
明治8年に和田小学校と広明小学校を合併、明治20年には弁天兵庫小学校の
明親分教場と改称。
明治33年9月 明親小学校として独立
明治37年4月 明親尋常高等小学校に改称
明治37年7月 道場尋常小学校開校
明治42年4月 明親尋常小学校に改称
大正10年4月 須佐尋常高等小学校開校
大正12年4月 再び明親尋常高等小学校に改称
昭和16年4月 明親国民学校(高等科)と改称 昭和22年3月31日廃校

昭和16年4月 上記の道場尋常小学校(後に国民学校)と須佐尋常高等小学校が
        合併して道場須佐小学校として発足
昭和23年4月 明親小学校と改称

明親小学校の沿革については明親小学校のHPに詳しく記載されています。
下記リンク:神戸市立明親小学校-沿革 (kobe-c.ed.jp)

因みに神戸で2番目に古い学校は現在の雲中小学校です。
雲中小学校は明治6年(1873)4月の創立です。

明親館に関する写真があるといいのですが適当なものが見つかりません。
そこで、神戸市須磨区にある綱敷天満宮の境内の明親尋常小学校にあった忠孝碑の写真
を紹介することにしました。 撮影:2023-2-28
横に忠孝碑に就てという説明書きがありましたので引用させていただきます。
この石碑は元神戸市立明親尋常小学校校庭に建設された
  建設年月日 大正13年(1924)1月
  文字揮毫者 文学博士 高田忠間 氏
  当時学校長 中安儀太郎 氏
  碑石寄贈者 川瀬ウメ刀自
 昭和20年(1945)3月戦災のため同校罹災し校舎移転終戦等
 事情一変のため当社(綱敷神社)に於て保存建設することとなった
   昭和45年(1970)10月30日  宮司 久野木 理
  (教育勅語発布80周年記念の日)

また、Googleストリートビューで最近の明神小学校の写真を添付して筆を置きます。




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世界パラ陸上で使用されるメダルがお披露目 on 2024-3-22

2024年03月26日 05時24分30秒 | 神戸情報
2024年3月22日、「神戸2024世界パラ陸上競技選手権大会組織委員会」の総会が
神戸市役所で開催され、大会で使用される金メダル、銀メダル、銅メダルと
メダルを獲得した選手に贈る記念品「フォトフレーム」がお披露目されました。組織委員会の増田明美会長がデザインなどについて説明しました。
第10回世界パラ陸上・神戸大会が2024年5月17日~5月25日に神戸総合運動公園の
ユニバー記念競技場で開催されます。

私は3月22日、18時からのNHK総合テレビ番組「ほっと関西」で知りました。
上記番組より写真紹介します。






神戸経済ニュースが作成したYoutube動画をGooで共有させていただきました。
世界パラ陸上競技選手権大会のメダル・記念品をお披露目(神戸経済ニュース)
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回転寿司 力丸 神戸垂水店でのランチ on 2024-3-14&2-15

2024年03月23日 04時31分00秒 | 神戸情報
2024年3月14日及び2月15日に回転寿司 力丸 神戸垂水店で頂いたランチを写真紹介します。

回転寿司 力丸 神戸垂水店の基本情報
住所:神戸市垂水区名谷町2569-6 TEL:078-752-7767
営業時間:11:00~21:30
本部:株式会社関西フーズ  開店:2018年7月20日


所在地のGoogleマップを添付しておきます。


3月14日

上の写真は当日、私が注文したまる得限定ランチ 1,320円(税込) 


上の写真は奥様が注文したお手頃握りと茶碗蒸しのセット1,089円(税込)
2人の合計金額は2,409円(税込)でした。

上の写真はランチのメニュー表 


上の2枚の写真はその他のメニュー表
上の写真は「力丸」垂水店の店頭に掲示の「力丸のこだわり」
上の写真はお店の外観です。

2月15日



上の2枚の写真は奥様が注文したお手頃握りと茶碗蒸しのセット1,089円(税込)
茶碗蒸しはアップ写真を添付しました。
いつも奥様からshareしていただいています。お気に入りの一品です。
上の写真は当日、私がいただいた日替わり鮮魚のおすすめランチ1,089円(税込)
2人の合計金額は2,069円(税込)でした。
上の写真は「力丸」垂水店の玄関です。

過去の訪問記

上記ブログにはさらに過去の訪問記にリンクしています。 

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JR鷹取駅(神戸市)近くの通称「モクレン通り」の白木蓮 on 2024-3-21

2024年03月22日 03時53分22秒 | 神戸情報
2024年3月21日、JR鷹取駅(神戸市)近くの通称「モクレン通り」 の白木蓮の
写真を撮りましたので紹介します。

上の写真が「モクレン通り」の白木蓮の並木です。
セブンイレブン大池町店付近からJR線方面に向けて撮っています。
やはり、複数の木蓮が並ぶと美しい景観となります。
住所表示で言うと神戸市須磨区大池町5丁目と須磨区千歳町4丁目の間の道路
参考としてセブンイレブン大池町店の住居表示は神戸市大池町5丁目8-22

セブンイレブン大池町店のGoogleマップを添付しておきます。

また、神戸市須磨区役所が発行した地図上にもモクレンの並木道の位置を示しました。

上の写真が地図上に示した並木道。神戸市水道局西部センターの前の通りでもあります。
上の写真はJR線側からセブンイレブン方面の通りを撮ったものです。

上の写真は白木蓮の拡大写真
Wikipediaでは白木蓮を次のように解説されています。
ハクモクレンは、モクレン科モクレン属に属する落葉高木の1種である。
早春の葉が展開する前に、白色の大きな花が上向きに咲く。
花被片は9枚で萼片と花弁は分化していない。中国南部原産であるが、
日本など世界各地で庭木や街路樹として植栽されている。 

参考としてふたば学舎(神戸市長田区)の敷地内のハクモクレンの写真を添付しておきます。

上の写真はふたば学舎のハクモクレン 撮影:2024-3-19

白い花を咲かせるハクモクレン(白木蓮)とコブシ(辛夷)は見分けがつかないほど似ています
コブシの写真を三宮(神戸市中央区)で撮っていますので紹介します。
 


上の3枚の写真は旧神戸花時計前のモクレン科のコブシです。 撮影:2019-3-16(土) 

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新たに設置された兵庫津・北前船水揚げ地跡標柱(神戸市兵庫区) on 2024-3-19

2024年03月20日 05時12分33秒 | 神戸情報

2024年1月24日、古代大輪田泊の石椋のモニュメンントの隣に新たに設置された
兵庫津・北前船水揚げ地跡標柱の写真を3月19日に撮ってきましたので紹介します。
訪問のキッカケは下に添付(Gooで共有)したYoutube動画を観た事です。

「兵庫津・北前船水揚げ地跡標柱」完成記念式典開催  

自治会の願いが実現!兵庫津日本遺産の会 十河副会長  

上の写真は2024年1月24日に新たに設置された「北前船水揚げ地跡」の標柱
兵庫津日本遺産の会が提唱され再整備されました 撮影:2024-3-19

上の写真は「北前船水揚げ地跡」の標柱付近の遠景です。
撮影:2024-3-19

上の写真は再整備された古代大輪田泊「石椋」モニュメンント整備の碑
碑は平成17年(2005)3月 神戸市教育委員会と兵庫区役所が整備したものです。
撮影:2024-3-19

上の写真は現地説明板。今迄のものと内容が変わっています。撮影:2024-3-19
解り辛いのでかくだいしたものを添付しておきます。


説明文は以下の通りです。
古代大輪田泊の石椋
"Iwakura"the stone used for the bank/found from the ancient "Owada-no-tomari"port site

この花崗岩の巨石は、昭和27年の新川橋西方の新川運河浚渫工事の際に、
重量4トンの巨石20数個と一定間隔で打込まれた松杭とともに発見された一石です。
当時は平清盛が築いた経ヶ島の遺材ではないかと考えられていました。
この石材が発見された場所から北西約250mの芦原通1丁目で、
平成15年度に確認調査が行われ、古代の港湾施設と考えられる奈良時代後半から
平安時代の中頃の大溝と建物の一部と考えられる遺構が発見されました。
このことより石材が発見された場所は、当時海中であったと考えられ、出土した石材は、古代大輪田の泊の石椋の石材であったと推定されます。
石椋とは、石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などの港湾施設であったと
考えられます。
その構造は出土状況から、港の入口にこのような巨石を3~4段程度積上げ、
松杭で補強し、堤を構築していたものと推定されされました。
最近では、江戸時代に描かれた絵図と照らし合わせると入江の護岸施設で使用された
石椋(いわくら)であった可能性も考え「られます。石椋ちは石を積み上げた防波堤
(波消し)や突堤の基礎などであったと考えられます。
残念ながら発掘調査によって発見された石材ではないので、築造された時代は不明です。
発見時の状況からその構造は巨石を3~4段程度積上げ、松杭で補強し、堤を構築
していたものと推測されます。
古代から近世に至るまで、兵庫津周辺は複雑に入り組んだ入江が多く存在していたことが、
これまでの発掘調査や江戸時代に描かれた絵図で判明してまいりました。
この巨石もそういった入江などの護岸施設や、港湾施設の一部であった可能性があります。


左手の方には上の写真の「初代兵庫県庁舎ナビ」の説明板が設置されています

比較の為に昔に撮った古代大輪田泊の石椋 と現地説明版を添付しておきます。
撮影:2011-2-21
上の写真(2011-2-21撮影)は古代大輪田泊(石椋)モニュメント整備と書かれた
花崗岩で平清盛の大輪田泊の整備に使用された花崗岩です。 

上の写真は説明版の解説で石椋が積まれてどのように堤としたのかを解説した図です。
撮影:2011-2-21
 
上の写真は同じく上記の説明版の解説で石椋の発見場所や大輪田泊のあった場所
の推定位置です。撮影:2011-2-21

大輪田泊は行基の築造と伝えられ、平清盛が1180年に修築して日宋貿易後に
日明貿易の要港となった。
平氏滅亡後は、東大寺大勧進の重源(ちようげん)がその事業を引き継いで、
修築を行った。(1196年)
さらに兵庫津となって発展していった。

下記の文は上述の現地説明板に書かれていた説明文です。
整備後の文章と比較すると後半部分が大幅に変わっています。
この花崗岩の巨石は、昭和27年の新川橋西方の新川運河浚渫工事の際に、
重量4トンの巨石20数個と一定間隔で打込まれた松杭とともに発見された一石です。
当時は平清盛が築いた経ヶ島の遺材ではないかと考えられていました。
その後、この石材が発見された場所から北西約250mの芦原通1丁目で、
平成15年確認調査が行われ、古代の港湾施設と考えられる奈良時代から
平安時代の中頃の大溝と建物の一部が発見されました。このことより石材が
発見された場所は、当時海中であったと考えられ、出土した石材は、古代大輪田の泊
の石椋の石材であったと推定されます。
石椋とは、石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などの港湾施設であったと
考えられます。
その構造は出土状況から、港の入口にこのような巨石を3~4段程度積上げ、
松杭で補強し、堤を構築していたものと推定されます。
大輪田の泊は、平安時代のはじめに律令国家の菅理のもとに造営された泊(港)です。
当時、物資輸送や外交航路として重要視されていた瀬戸内海の航路と泊の整備が
進められていました。
当時の史料には泊の運営管理を行う官舎や石椋等の港湾設備が整備され、
中央政府から派遣された造大輪田船瀬(ぞうおおわだふなせ)(泊)使が泊の
造営や修築にあたり、修築後は国司(こくし)が運営管理を行っていた様子が
記されています。
また、承和3年(831)には、当時の中国や東アジアの最新の文化や情報を
取り入れるための遣唐使船が暴風雨を避けるために寄港していることから、
このころには大型外洋船の寄港地としても整備されていたことが窺えます。

参考として大輪田泊と石椋について兵庫津ミュージアムの展示から写真紹介します。
以下の写真の撮影日は2024年3月19日

上の写真は兵庫津・北前船水揚げ地跡標柱の位置を青山大介さんが描いた兵庫津の鳥瞰図
の上に黄色の字で示しました。
上の写真は兵庫津ミュージアムの大輪田泊の石椋に関する展示
大輪田泊の名前がはじめて記録にあらわれるのは奈良時代です。それより前は
万葉集にも出てくる神戸市灘区の敏馬浦(みぬめのうら)が主要な港でしたが港としてより優れた大輪田泊がとってかわり、国が維持管理する港となります。
上の写真は大輪田泊の修築に関する兵庫津ミュージアムの展示
行基(668~749)は聖武天皇の天平17年(745)には大僧正にまでなり
 奈良東大寺の大仏建立にも寄与した。行基は多くの弟子と民衆を率いて参加した。
 公共事業にも力を入れ、摂播五泊(室生-韓泊(福泊)- 魚住泊 - 大輪田泊 - 河尻泊)を開いた。

上の2枚の写真は魚住泊の石椋工法に関する兵庫津ミュージアムの展示

兵庫津ミュージアムの展示1に関する関連年表
展示1 8~12世紀頃 清盛の夢
 741年(天平13年)  行基が大輪田泊を修復
 812年(弘仁3年)   大輪田泊を修復
 914年(延喜14年)  三善清行大輪田泊の修築を提言
 947年(天暦元年)  大輪田泊を修築するために「造輪田使」を任命
 1173年(承安3年)  平清盛が大輪田泊に兵庫島(経ケ島)を築き日宋貿易を行う
 1196年(建久7年)  僧重源が兵庫島(経ケ島)を修復



上の2枚の写真は北前船に関する兵庫津ミュージアムの展示

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