CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

解体された舞子ホテル

2023年05月13日 05時16分22秒 | 昔こんなものがあった 平成編
我が家に舞子ホテルの古いマッチ箱があり写真を撮った。(下の写真)
そこで、解体された舞子ホテルをテーマに記事を書く事にしました。

舞子ホテルは大正8年(1919)に日下部汽船迎賓館兼日下部久太郎別邸として
明石海峡を一望できる高台に建設されました。その後増築され昭和17(1942)舞子ホテル
として開業そして戦後はGHQに接収されアメリカ軍将校用宿舎として使用されました。 
その後、山陽電鉄が所有していましたが、2019年12月に経営難を理由に休館。
 2022年3月、長谷工コーポレーションに売却されました。
また、インターネットの情報では2022年9月頃から解体工事が始まっており、2022年11月までに
 完全に取り壊され、跡地には10階建て356戸が入居するマンションが建つとのこと。 
2023年5月12日に撮った写真を添付しておきます。




マンションは令和8年(2026)12月に完成する予定(下の2枚の写真)



非常に由緒のある名建築であり残念である。

さらに、過去に撮った写真を添付しておきます。


住所:神戸市垂水区舞子台2-5-41 撮影:2014-8-25
この当時はイタリア料理のお店があり内部の写真も少しだけ撮っています。
詳細は下記リンク

近代建築Watchというサイトで旧日下部邸を綺麗な建築の写真で紹介されています
リンクさせていただきます。 


上の写真は2010年4月19日撮影の舞子ホテル

以下は2024年3月3日追記
山陽電鉄グループでは半世紀の時を歩み続けた舞子ホテルへの敬意と、愛してくださった
方々への敬意を込めてその軌跡を辿る再現コーナーを山陽電車本社ビル1階に
設置されました。


2024年2月29日、現地(山陽電車本社)を訪問し、写真を撮ってブログを作成
していますのでリンクしておきます。

コメント (4)
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沖縄宝島 琉球ワールド in 神戸市長田区

2022年07月02日 04時13分00秒 | 昔こんなものがあった 平成編

昔の資料を整理していたら沖縄宝島 琉球ワールドのリーフレットが出てきました。

沖縄宝島 琉球ワールドは2004年11月19日にオープンした商業施設で2013年2月28日閉店となりました。

リーフレットの内容を保存するという意味からブログを作成することにしました。

上の写真はリーフレットの表紙

上の写真は琉球ワールドの基本情報的な内容の部分

所在地:神戸市長田区大橋町6丁目1番1-102号

営業時間:10:00~20:00 沖縄食堂は11:00~20:00

上の4枚の写真はPRの内容

2004年11月19日にオープンした当日にはNHKテレビドラマ「ちゅらさん」に出演した女優の平良とみが一日店長を務めた。

沖縄の物産を販売するという店舗であり、同様の店舗の中では国内最大級の規模であった。阪神・淡路大震災で被災した地域の再開発プロジェクトで建てられたビルの1~2階をスペースとし、計757坪の売り場を持つという規模であった。神戸市から出店を要請し神戸市再開発課長は、この地域を震災前よりも発展させるとしていた。そしてこの地域には琉球文化圏の出身者も多く、町の中に沖縄を感じる空間、沖縄の持つ元気と風を望んでいた。この地域で定期的に行われている「琉球祭」では屋台の出店を行っていた。2013年2月28日閉店

以上はWikipediaより引用。

参考サイト

 神戸・新長田から沖縄の元気発信!「琉球ワールド沖縄宝島」 (ti-da.net)

 

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神戸ビエンナーレ2009

2021年01月19日 06時37分12秒 | 昔こんなものがあった 平成編

2009年10月3日~11月23日(52日間)の会期で神戸ビエンナーレ2009

が開催されていました。

主催:神戸ビエンナーレ組織委員会・神戸市

 

リーフレットよりピックアップした写真を添付しておきます。

上の写真はメイン会場のメリケンパーク会場の様子が判るイラスト

上の写真は4つの会場の紹介

上の写真はチケットの種類と料金

上の写真は参加作家の略歴紹介

上の写真はリーフレットの表紙

 

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神戸市須磨区 旧室谷邸と須磨離宮公園内の「泉水」のモニュメント

2020年07月28日 05時25分13秒 | 昔こんなものがあった 平成編

本日は昭和10年(1935)に木材商の室谷藤七(むろたに とうしち)氏の自邸

として建築され、平成19年(2007)2月に解体され現在はマンションが建って

いる旧室谷邸を取り上げます。

 

旧室谷邸の基本情報

住所:神戸市須磨区離宮宮前町2丁目 所有者:室谷藤七

設計:W.M.ヴォーリズ 施工:竹中工務店

着工:昭和9年(1934) 竣工:昭和10年(1935)

 

これから紹介する写真は特記しない限り須磨離宮公園内に2010年4月に完成した

馬の水のみ場「泉の水」モニュメントの解説板からのものです。

撮影は2020年7月25日(土)

 

旧室谷邸の写真

 

上の写真は南側外観(大震災後1996)*3

 

上の写真は室谷邸の邸宅と庭園 

出典:須磨の近代史 明治・大正・昭和史話 2版 (2007) Page72

チューダーゴシックと呼ばれるイギリス中世期の様式 木造2階建(一部3階)

壁面に部材が露出させるハーフティンバーや急こう配の切妻屋根に特徴がある。

昭和12年(1937)に茶匠是足庵の設計され、数寄屋棟梁の平田雅哉によって、

母屋の西側にあった茶室(松風庵と命名)は現在、神戸女学院内、北東に移築。

昭和20年(1945)の神戸空襲による損害がなかったので終戦後、昭和21年(1946)

から昭和26年(1951)進駐軍に接収された。

平成7年(1995)の阪神淡路大震災では損壊があった。

平成19年(2007)2月に解体され現在はマンションが建っています。

 

上の写真は旧室谷邸 入り口付近

出典:須磨の近代史 明治・大正・昭和史話 2版 (2007) Page72

 

上の2枚の写真は泉水を中心に撮ったもの 2007年 *5

上の写真は東側外観(2005年)*1

上の写真は門屋内部(門側・1996年)*3

上の写真は門屋内/主や玄関(創建時1935年)*1

 

上の写真は 居間内部(創建時 1935年)*1

上の写真は食堂(隣室は居間) 創建時・1935年 *1

上の写真は南庭園(創建時・1935年)*1

上の写真は1階の平面図 *1

上の写真は2階平面図 *1

上の写真は現地解説板の全体遠景

室谷邸は昭和8(1933)年ヴォーリズ建築事務所(建築家W.M.VORIES/ウイリアム・

メレル・ヴォーリズ)の設計により翌年建てられた英国の伝統的様式のチューダー・

スタイルによる主屋(建築面積85坪・約280㎡)を中心とする邸宅であった。主屋は

鉄筋コンクリート造の地階をもつ木造であるが、外観の1階部は煉瓦造、2階部は

ハーフティンバー、急勾配のスレート屋根、化粧煉瓦積みの煙突を立ち上げていた。

外部の意匠では煉瓦塀に取り付く門屋の屋根が伸び主屋に接続し、渡り廊下風の

玄関ポーチの構成が目を惹いた。内部では楢材の木目を生かした繊細な表現が凝ら

された印象をうける意匠だった。ヴォーリズ建築事務所の設計になる同様式の住宅

に昭和7(1932)年の旧下村邸(現大丸ヴィラ・京都市に現存)が良く知られる。*2

 

写真の原出典:

 *1 ヴォーリズ建築事務所作品集・1908-1936 城南書院発行

 *2 兵庫県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書 2006年刊

 *3 山形政昭氏より写真提供

 *4 中尾嘉孝氏より写真提供

 *5 橋本健治氏より写真提供

 

室谷邸が存在していた時代に撮られた写真が掲載されたサイトにリンク

 http://michiyo0520.blog20.fc2.com/blog-entry-552.html?sp

 http://sano567.my.coocan.jp/muroyatei/index.htm

 https://fkaidofudo.exblog.jp/7368421/

 https://blog.goo.ne.jp/hirohiro009/e/248ef1a8edde0639d919e4e1d2aec7dc

 https://trystero.exblog.jp/8878811/

 https://gipsymania.exblog.jp/4426825/

 

モニュメント 「泉水」について

 設置場所:須磨離宮公園東入り口付近

 設置:神戸市教育委員会事務局  竣工:平成22年(2010)3月

 モニュメント作成:遊空間工房(設計協力:意匠人設計房)

 協力:離宮前赤れんが不滅会/伊藤ハウジング・藤井工務店・絞郎美術工房

    四国工業・シンプロ/須磨ライオンズクラブ

 

上の写真はモニュメント「泉水」 撮影:2020-7-25

以下現地説明板の解説より引用。

室谷邸が存在したことの証しを保存継承するものとして保管されている一部の

解体撤去材の中から、表門の横にあって親しまれていた「泉水」の吐水部の石彫

「男の子の顔」を再活用してモニュメントとした。

室谷邸のイメージをよく伝える赤い化粧煉瓦(レンガ)は、残存していた車庫の

内壁部分から採取し転用しています。

 

上の2枚の写真は室谷邸モニュメント整備記念 植樹「セイヨウニンジンボク」

 離宮公園赤れんがの会 平成22年(2010)10月30日実施

室谷邸モニュメント「泉水」について整備された時期に書かれたサイトにリンク

 https://ameblo.jp/suma-hajime/entry-10518752141.html

旧室谷邸の現況

 

上の写真は旧室谷邸の跡地に建ったマンション(中央)の遠景

撮影:2020-7-11

 

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須磨ベルトコンベヤ

2019年07月21日 06時58分37秒 | 昔こんなものがあった 平成編

山・海へ行く

昭和30年代に入ってからの大都市圏への急激な人口の流入、産業の集中に伴い、臨海部の

産業用地の造成が緊急の課題となり、神戸港の東西への発展拡張を求め、東西臨界工業地帯の

造成が進められた。

東部地区では鶴甲山からはベルトコンベヤ方式で、渦ケ森からは住吉川河中のダンプ道路により

埋め立て用土砂が運搬されました。

一方、西部の臨海工業地帯の造成とポートアイランド、六甲アイランドの造成さらに神戸空港の

造成の為に高倉、横尾、名谷、西神流通業務団地、総合運動公園、研究学園都市から土砂の

採取が行われました。

土砂の運搬にはベルコンベヤ方式が採用され須磨海岸の一の谷川の河口まで運搬し6,000㎥の

ホッパーをもった船積み施設から海上輸送(日本で初めてのプッシャーパージ方式)で土砂

が運搬されました。

ベルトコンベア及び付属設備は昭和38年(1963)から1年がかりで設置(費用約10億円)され

昭和39年(1964)1月16日に運転が開始された。ベルトコンベヤは平成17年(2005)まで稼働。

須磨海岸から神戸複合産業団地(西区見津が丘6付近)までのベルトコンベヤの総延長は約14.5Km。

Youtube動画を観ていたら須磨ベルトコンベアの貴重な動画がアップされていたのでGooで共有。

ARSGW-0403F【山陽本線】須磨ベルトコンベヤ【神戸市】 有栖川のミニィさん

ベルコンベヤ稼働時の写真など

須磨ベルトコンベヤの遠景 出典:1)の表紙

上の2枚の写真は一の谷川河口の須磨の桟橋   出典:2)

 

上の写真はベルトコンベヤの路線図 全体 出典:2)

 

上の写真は須磨ベルトコンベヤ(須磨海岸~高倉山)路線図

出典:1) Page25&77

標高291mの高倉山を約140mほど削り取る計画

完全に平地にする計画であったが住民の反対運動でおらが山だけが残されました。

おらが山は昭和46年(1971)に緑化(公園整備)され現在も存続しています。

地域の住民の憩いの場となっています。おらが山の現在の標高は206m。

関連ブログとしておらが山茶屋への訪問記(2008-6-7)にリンクしておきます。

おらが山(高倉山)のおらが茶屋でモーニング

上の写真は須磨ベルトコンベヤ(須磨海岸~横尾)路線図

出典:1) Page104

 

採用されたベルトコンベヤの幅は2.1m(日本では最大) 毎時2,100㎥(4,600トン)の能力

上の写真は高倉山の土砂採掘現場 出典:2)

上の写真はストックパイル 出典:2)

上の写真はプッシャーパージ 出典:2)

プッシャーパージによる土砂の運搬は世界で初めての試みであったといわれる。

プッシャーパージは押し船(プッシャー)が駆動装置を持たない艀(バージ)の後部から押す輸送方式。

 

上の写真は アンローダー 船から土砂を積み出す設備 出典:2)

上の写真はポートアイランドの造成工事と完成したポートアイランド 出典:2)

上の写真は神戸市東西臨海工業地帯の地図

上の2枚の写真は東部埋立地(全景) 出典:2)

上の2枚の写真は西部埋立地 出典:2)

 

ポートアイランドの造成は昭和56年(1981)、六甲アイランドは昭和63年(1988)、

神戸空港は平成18年(2006)に竣工

 

須磨ニュータウンからの埋立用土砂量と埋立地

上の写真は須磨ニュータウンからの埋立用土砂量と埋立地  出典:2)

全体の埋立用土取り量は約3億2千万㎥(約5億8千万トン)である。

須磨ニュータウンについて基本情報を纏めておきます。

団地名           概略人口(2010)                面積
        入居年                施工者
北須磨    昭42(1967)   0.6万人    兵庫県労働者          80ha
(友が丘)                    住宅生活協同組合
白川台    昭45(1970)   1.0万人    白川土地区画整理組合      70ha

高倉台    昭48(1973)   0.8万人    神戸市開発局          120ha

名谷     昭50(1975)    2.1万人    神戸市開発局         280ha

落合     昭53(1978)    2.6万人    住宅都市整備公団       240ha

横尾     昭54(1979)    0.9万人    神戸市開発局         240ha

 

須磨ニュータウンは一番新しい横尾団地でも約40年の歴史があり、人口の
高齢化率=65歳以上の人の割合は 6団地全体では約26%で西神ニュータウンの
15%と比較すると高い友が丘などではすでに42%でありかなり高齢化の街
であると言えます。団地の中にはエレベーターの無い建物も多数あり高齢者の
住み替え支援や若い世代に住んでもらうための施策などが必要である。

上の写真は須磨ニュータウンの構成団地の位置図

須磨ベルトコンベヤ跡の現況

上の2枚の写真は須磨ベルトコンベヤ跡地の説明板  撮影:2019-7-4

ベルトコンベヤの土台であったコンクリート土台が残されています。

高倉山へはほぼ一の谷川沿いにベルトコンベヤが走っていました。

上の写真は須磨一の谷グリーンハイツの管理事務書付近に掲示の案内板の中に書かれている

須磨ベルトコンベヤのルート図 撮影:2019-7-4

上の写真は上記案内板A地点の須磨ベルトコンベヤ跡

上の写真は上記案内板B地点の須磨ベルトコンベヤ跡

 

神戸新聞が伊川谷前開付近の地下トンネル内に残るベルトコンベヤ等を動画で紹介

されていますのでリンクさせていただきました。

まるで地下の神殿 神戸開発支えた須磨ベルトコンベヤ跡地

 

おわりに

今回は須磨海岸から横尾の須磨ベルトコンベヤに関する記事とします。

名谷付近以降については後日、纏めてみたいと思っています。

 

 

 

参照資料

 1)山、海へ行く -須磨ベルトコンベヤの記録- 神戸市開発局編 (1981)

 2)2013年須磨ニュータウン展 展示パネル 2013-2-13に訪問

 3)神戸新聞 2019年6月27日朝刊 29面(ベルコン物語 上)

 4)神戸新聞 2019年6月28日朝刊 29面(ベルコン物語 下)

 

関連ブログ

 須磨ベルトコンベアと高倉山 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

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東日本大震災直後の被災地をイメージした巨大水彩画 By 加川広重 on  2013-3-22

2019年06月21日 04時33分09秒 | 昔こんなものがあった 平成編

2013年3月22日、神戸市中央区小野浜町のデザイン・クリエーティブセンター神戸
(KIITO)で東日本大震災直後の被災地をイメージした巨大水彩画が公開されており
観覧してきました。作者は仙台の水彩画家の加川広重さん。
その時撮った写真を紹介します。

会期は平成25年(2013)3月20日~3月31日


展示作品は13作目の「雪に包まれる被災地」5m40cm×16m50cm/2011年




上の2枚の写真は作品の近景と遠景



上の写真は会期中のイベント案内



上の写真は加川広重さんのプロフィール




上の2枚の写真は展示会のリーフレット


関連サイト&新聞報道:
  KIITO

  巨大画で描かれる東日本大震災─加川広重巨大水彩画展 インタビュー動画


  2013年3月24日 神戸新聞朝刊 19面

  加川広重 巨大絵画が繋ぐ東北と神戸2015

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神戸港 水陸両用車 スプラッシュⅡ

2019年04月20日 06時48分04秒 | 昔こんなものがあった 平成編
スプラッシュ号は2007年9月日本で始めて運行された水陸両用車である。
料金は3,000円で運用されていました。

観光ルートは
メリケンパーク駐車場を出て、国道2号線を通り 居留地を見学。
それから フラワーロードを通って、北野坂を上り 異人館(北野通り)を見学。
新神戸から 地下鉄山手線・地上を通って、山手幹線道へ抜け トアロードを大丸前まで行って
南京街を覗いた後、ハーバーランドの’はね橋’から 海上クルーズをして
再び はね橋から 上陸して メリケンに戻ってきます。


見学は 全て 車内から、所要時間 約80分。

スプラッシュ号は車両の整備不良で一時、運転を停止していましたが2013年10月
21日より運転再開されています。

しかし、年月日は不明であるがいつの間にか姿を消してしまいました。
2014年か2015年頃に廃止か?

本ブログでは筆者が2013-12-3に撮った動画を添付しておきます。お客様も満員のようでした。

神戸港 水陸両用車 スプラッシュⅡ on 2013-12-3


水陸両用車による観光についてWikipediaより解説文を引用紹介します。
水陸両用車を使った観光ツアーを、原型車両であるDUKWおよび水鳥のカモ/アヒル(Duck)
になぞらえて「ダックツアー」と呼ぶ。
1946年に米国のウィスコンシン州で最初のダックツアーが始まったとされる。
日本では日本水陸観光が行うツアーの総称を表す。


下記は整備不良に関する記事です。
「スプラッシュ2」は2012年7月15日に神戸港を運航中、かじが利かずに
動けなくなる故障が発生。翌16日には、もう1台の「スプラッシュ1」も神戸市
中央区の市道を走行中、ブレーキが利かなくなり、歩道に乗り上げポール5本を倒す
事故を起こした。乗客22人にけがはなかった。 」
株式会社ダックツアー・タイコーは2012年8月18日からスプラッシュⅠ、Ⅱを
運休しているが、国土交通省は重大事故につながりかねないとして、同社に
同月22日付で運行自粛を要請した。

スプラッシュ1は8月18日にも同区内の県道を走行中、左後輪のボルトが外れ、
ツアーを中止。いずれも整備不良が原因とみられるという。



ラジオ関西のサイト(2018-11-7付け)に新型の水陸両用車がUmieの前を
走っている写真が紹介されていますのでリンクしておきます。
 https://jocr.jp/giants/20181106212804/

神戸新聞NEXT 2019-4-26 で4月28日と5月1~5日の6日間限定で、
神戸ポートタワーを発着点に1日4便を運航する。との報道がありました。
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東大寺大仏開眼1,250年慶讃大法要 on 2002年10月15日~10月19日

2018年09月14日 05時36分50秒 | 昔こんなものがあった 平成編
平成14年(2002)10月15日~10月19日、奈良東大寺で大仏開眼1,250年慶讃大法要が
営まれました。

昨日(2018-9-13)に書いたブログ「菩提僊那(ぼだいせんな)」と同じ下記番組で
紹介されていた上記の「東大寺大仏開眼1,250年慶讃大法要」について記していきます。

2015年1月2日、NHK総合テレビで21時から放送された番組「世界遺産ドリームツアー!
「外国人が驚く! 古都 奈良&京都」





上の2枚の写真は2002年10月15日の東大寺大仏開眼1,250年慶讃大法要の様子です。
菩提僊那は752年(天平勝宝4年)4月9日に東大寺大仏殿の開眼供養法会で婆羅門僧正として
導師をつとめた。大仏の眼を書き入れたのが菩提僊那であった。
上記の開眼法要から1,250年を経て行われたのが「大仏開眼1,250年慶讃大法要」

当日の法要は、大仏殿の前庭で営まれ、盧舎那仏讃歌奉唱、橋本聖圓別当(住職)による
慶讃奉告文の奏上、『般若心経』『如心偈』の読経と続き、さらに、能、伎楽の慶讃奉納が
行われたようです。






上の3枚の写真は伎楽の慶讃奉納

伎楽(ぎがく)についてWikipediaの解説を紹介します。

伎楽は、日本の伝統演劇のひとつ。日本書紀によれば、推古天皇20年、推古天皇の時代に
百済人味摩之によって中国南部の呉から伝えられたという。
奈良時代の大仏開眼供養でも上演され、正倉院には、その時使用されたと思われる伎楽面が
残されている。


注1)推古天皇20年は西暦612年

注2)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 による 味摩之(みまし)の用語解説
-飛鳥時代の楽人。『日本書紀』によると、百済の人で呉に渡り、伎楽を学び、
推古 20 (612) 年に日本に帰化し、大和桜井に住んで伎楽の舞を伝えた。

伎楽舞とは、インド・チベット地方の民族舞踊が発達したものである。





上の2枚の写真も伎楽の舞
獅子舞のようなものが上演されたようです。



上の写真は式典の音楽担当者。
752年の大仏開眼供養ではベトナム人の僧侶仏哲が音楽を担当した

Wikipediaによる仏哲の解説
チャンパ王国(林邑国(中国語版)、現在のフエ)の出身。南インドに入り菩提僊那に師事
して密呪に秀でた。唐の開元年間に師とともに入唐、当時唐に滞在していた日本僧理鏡らの
招きにより、開元24年 / 天平8年(736年)に師の菩提僊那・唐僧道璿らとともに日本入りした。
大宰府を経て都に入り、大安寺に住した。聖武天皇からの信頼篤く、天平勝宝4年(752年)の
東大寺大仏開眼法要では舞楽を奉納し、「菩薩」、「抜頭」などといった舞や林邑楽
(仏哲らが伝えたとされるインド系雅楽の楽種の一つ)を楽人に伝え、また多くの
密教経典、論籍も請来したという。
仏哲らが伝えた林邑楽は、春日若宮おん祭で毎年12月に披露されており、2014年4月には
春日舞楽の雅楽団「南都楽所」がフエで「里帰り公演」を行なった


番組での紹介はなかったが新らしく造られた菩提僊那像の開眼法要が橋本聖圓別当(住職)
の手により行われたようです。

 菩提僊那像の製作基本情報

 製作年:2002年

 彫刻担当: 三輪途道 、三浦康道
 彩色担当: 篠崎悠美子

 安置先:東大寺本坊天皇殿 (聖武天皇の御命日5月2日拝観可能)



 
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舞子タワー

2018年08月13日 04時52分15秒 | 昔こんなものがあった 平成編
本日は平成4年(1992)から平成14年(2002)に神戸市垂水区に存在していた舞子タワー
を取り上げます。

Wikipediaによれば次のように解説されています。
舞子タワー(まいこタワー)は、兵庫県神戸市垂水区にかつて存在した回転昇降式の展望塔。
世界最大の吊り橋である明石海峡大橋の建設工事見学のため、神戸市都市整備公社
(現在の神戸すまいまちづくり公社)が建設した。
橋の完成後には撤去する方針のもと、周辺の埋立地を所有する本州四国連絡橋公団、付近一帯を
公園として整備する計画の兵庫県、神戸市の三者により建設が決定する。
橋の工事が進捗するにつれて徐々に客足が伸びてくると、神戸市は観光施設として存続させたい
という意向を示すようになり、タワーがあると公園整備に支障をきたすと考える兵庫県と
確執が生じた。

1992年 - 建設。
1997年12月 - 営業休止。
1998年4月 - 橋の開通にあわせてリニューアルオープン。
2002年 3月 - 閉鎖。
    6月 - 撤去。


神戸トピックスさんがブログで当時の様子を紹介されています。(下記サイト)
 https://kobeport.exblog.jp/26638325/

また同じく上述のブログで次のようなことを紹介されています。
 基本仕様:高さ114m、直径3.5M、重さ約500t
 2002.6.19 クレーン船で海路運ばれ六甲アイランドにて解体

 
まず、舞子タワーの写真を紹介します。
出典:神戸アーカイブ写真館パソコン画面より部分写真

明石海峡大橋が建設中の舞子タワー









上の5枚の写真は明石海峡大橋が建設中の時代の舞子タワー

ここで明石海峡大橋の建設関連の基本情報を書いておきます。

建設工事開始:昭和61年(1986)
風速80mの暴風、マグニチュード8.5クラスの地震にも耐えうる様に設計されている
明石海峡大橋は平成7年(1995)の1月17日阪神淡路大震災で地盤ごと移動する
こととなったが工事は続行され、平成10年(1998)4月5日に供用開始された。

明石海峡大橋完成後の舞子タワー






上の3枚の写真は明石海峡大橋完成後の舞子タワー

舞子タワー跡地の現況

現在(2018-8-13)、武藤山治邸と再生・根上がりの松の間に「舞子タワー跡地 1992-2002)」
と書かれた石碑が建てられています。 





上の3枚の写真は舞子タワー跡地の石碑  撮影:2018-8-12
石碑の上部には北(North)を表すNの文字が刻まれています。

「根上がり松再生」の小山の南側に南(South)を表すSの文字が刻まれた石もあります。
(下の写真)


私自身は見たこともなく、昇ったこともないので実際に乗られた方のサイトに
リンクさせていただきます。

 http://www7.plala.or.jp/tower/maikotower/maiko.html

コメント
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