CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

志賀直哉旧宅跡

2006年11月28日 06時13分54秒 | 旅行記

写真は志賀直哉が父直温(なおはる)と明治14年(1897)に
移り住んだ場所です。当時直哉は14歳でここで29歳まで過ごして
います。処女作の「或る朝」をはじめ「網走まで」「正義派」
「大津順吉」など初期の名作を生み出しています。
この土地に関する作品には「剃刀」「自転車」があります。
当時の屋敷は1682坪もあったそうです。
当時の家屋は昭和20年の戦災で全焼して残っていません。
現在はブリジストンの三河台アパートになっておりバックは
2007年春オープン予定の東京ミッドタウンです。
行く先の目印はフランシスコ会の教会の前です。
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赤い靴の主人公「岩崎きみちゃん」像

2006年11月19日 05時17分34秒 | 旅行記

上の写真は麻布十番にある赤い靴の主人公「きみちゃん」の像です。
この像は麻布十番で洋品店を営む山本さんが港区に働きかけ1998年に建てられた。
1番 赤い靴 はいてた 女の子  異人さんに つれられて 行っちゃった
2番 横浜の 波止場から 船に乗って 異人さんに つれられて 行っちゃった
3番 今では 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に いるんだろう
4番 赤い靴 見るたび 考える 異人さんに 逢うたび 考える
童謡「赤い靴」(大正11年(1922年) 野口雨情作詞、本居長世作曲)
この詩で有名な「赤い靴」で歌われている女の子は実在の人物でした。

名前は、岩崎きみ。明治35年(1902)7月15日生まれ。母は岩崎かよ。
女の子が母親姓なのは、私生児だからです。
母親かよ明治14年(1884)生まれ昭和23年(1948)没
父親は「刑務所暮らしが長かった人」だそうです。
故郷で暮らすのに肩身が狭かった未婚の母・かよは、2年後、幼いきみを連れて北海道・函館に渡り、知人の紹介で鈴木志郎と結婚しました。
志郎は、当時「ユートピア」建設を目指していた社会主義系の新聞「平民新聞」の記者でした。
志郎は間もなく、北海道留寿都町に開設された開拓農場「平民者牧場」への入植を決意します。
彼に人生を託したかよも一緒に行くことにしましたが、当時、北海道での開拓労働は命がけの仕事でしたから、3歳の幼子を連れて行くのは危険すぎました。
そこでかよは、やむなくきみを、子供に恵まれなかったアメリカ人の宣教師夫妻の養女に出したのです。(養父母ヒュイット師夫妻)
母かよはきみちゃんがアメリカに行って幸せに暮らしていると信じて野口雨情にこのことを話し、この詩が生まれました。
しかし実際にはきみちゃんは鳥居坂教会の孤児院(現在の地下鉄麻布十番駅の近くの十番稲荷神社のある所にあった)で病気がちであったためアメリカには行けず明治44年(1911)9月に9歳で結核で亡くなっている。
母親かよは、そのことをまったく知らないまま、
年を重ね、やがて亡くなったのだそうです。
母と子の絆を「きみちゃん」の像に託して作成されたと注釈されている。

亡くなった東京・麻布永坂町(現・麻布十番)だけでなく、
1)横浜山下公園や、
2)かよと志郎が開拓に挑んだ北海道の留寿都
3)きみちゃんの生まれ故郷の静岡市清水区の日本平にも、
きみちゃんの像があります。

参考書:合田道人著「童謡の謎」
    2006年9月20日北海道新聞

下の写真はきみちゃん像のある麻布十番商店街の一角。


    
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六本木ヒルズ

2006年11月12日 21時51分40秒 | 旅行記

すっかり東京の新名所となった六本木ヒルズ230の店舗が入り
どこも賑わっている。
写真は麻布十番商店街方面からの遠景です。

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静御前の墓と静御前まつり

2006年11月05日 17時30分24秒 | 旅行記

写真は静御前の墓でJR宇都宮線栗橋の駅から2分のところにあります。
毎年10月の第3週に静御前まつりが開催されています。
栗橋町の教育委員会の説明書によれば「静御前は磯の禅師の一人娘として仁安3年(1168)の生まれとなっている。静は、文治五年(1189)奥州の義経を追って、侍女と共に京都を後に奥州平泉へ向かいました。下総国の下辺見という所で、義経の最後を知らされた。
そのことを知った静は、すぐに髪を切って仏門に入るつもりで都へ行こうとした。しかしその途中、長旅の疲れもあり「伊坂の里」で病に罹り同年9月15日に帰らぬ人となったとある。

いずれも栗橋町に残っている伝承を基にしたもので公式な生没年ははっきりしていません。

まつりの詳細はこちらをご覧下さい。
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