CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その7 興正寺別院

2021年10月01日 05時21分42秒 | 大阪情報

本日は富田林寺内町散策シリーズの第7回で興正寺別院をお送りします。

興正寺別院は富田林寺内町の中心的な寺院である。

 

寺内町は、周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成している伝統的な建造物群

の中で、価値が高い伝統的建造物群「重要伝統的建造物群保存地区

に大阪府内で唯一指定されています。兵庫県では神戸市の北野地区が指定されています。

まず、富田林寺内町について全般を紹介したYoutube動画をGooで共有させていただきます。

JG☆☆☆☆ 4K HDR 大阪 富田林 寺内町(重伝建) Osaka,Tondabayashi Historic District

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第1回 大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その1 本町公園 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

第2回 大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その2 旧田中家住宅 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

第3回 大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その3 五六七稲荷大明神 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

第4回 大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その4 じないまち交流館 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

第5回 大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その5  奥谷家住宅 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

第6回 大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その6 田守家住宅 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

興正寺別院の基本情報

住所:富田林市富田林町13−18 TEL:0721-23-3555

宗派:浄土真宗興正派

開基:永禄3年(1560)京都興正寺第16世の証秀上人

重要文化財:本堂・対面所・鐘楼・鼓楼・山門・御成門、附:築地塀3棟

      平成26年(2014)9月18日に国の重文に指定  

公式サイト:富田林興正寺別院公式WEBサイト (t-koshoji.or.jp)

 

Goo地図を添付しておきます。

 

上の写真は国の重要文化財に指定の山門(左手)と鼓楼(右手)

山門は一間薬医門、切妻造、南北潜戸付、本瓦葺

山門は伏見城から旧天満別院を経ての再移築とされていたが平成24年(2012)の調査で

伏見城から京都の興正寺北門として移築され、安政4年(1857)にこの地に再移築された

ことが判明した。

上の写真は重要文化財の山門と鐘楼

鐘楼は文化7年(1810)の建築。鐘楼の仕様は桁行一間、梁間一間、入母屋造、本瓦葺

上の2枚の写真は御成門と前の扉に掲示の寺の紋章

御成門は18世紀前期の建築。

境内に入らなかったので重要文化財の本殿、対面所の写真はありません。

そこで文化庁のデータベースよりの解説文を添付しておきます。

本堂は寛永15年(1638)の建立で近畿地方における最古級の真宗本堂である。

古式な平面や構造と江戸時代初期の装飾細部を兼備しており初期の真宗本堂の成立過程を

知る上で価値がある。本堂北に対面所、境内東南には鐘楼、東北に鼓楼が建ち山門と

御成門を開く。富田林興正寺別院は本堂や対面所を中心に江戸時代末期に整えられた

境内が良好に維持されており富田林寺内町の歴史的景観に欠くことのできない存在

として貴重である。

上の写真はGoogleストリートビューからの興正寺別院の遠景です。

城之門筋の左手は妙慶寺、右手が興正寺別院

右手、一番手前の鼓楼は18世紀後期の建築で桁行5.0m、梁間4.0m、二重、入母屋造、本瓦葺

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大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その6 田守家住宅

2021年09月30日 05時16分47秒 | 大阪情報

本日は富田林寺内町散策シリーズの第6回で田守家住宅をお送りします。

寺内町は、周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成している伝統的な建造物群

の中で、価値が高い伝統的建造物群「重要伝統的建造物群保存地区

に大阪府内で唯一指定されています。兵庫県では神戸市の北野地区が指定されています。

まず、富田林寺内町について全般を紹介したYoutube動画をGooで共有させていただきます。

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第1回 大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その1 本町公園 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

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第5回 大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その5  奥谷家住宅 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

上の写真は田守家住宅の外観(内部非公開)と現地説明板

田守家は寺内町のメインストリート「城之門筋」に面しています。第5回で紹介した

奥谷家(本家)のある富山町から南へ3番目の通りの堺町(堺筋)にも面しています。

屋号は黒山屋。寛永年間(1624-1644)に田守家の祖先が黒山(現在の美原町)から

この地に移住してきた。明治中期までは代々木綿屋を生業としていた。

 

メインストリートである「城之門筋」は延長約400メートルで、1986(昭和61年)に

「日本の道百選」に選ばれています。

日本の道百選は昭和61年(1986)8月10日に建設省「道の日」実行委員会は「道の日」の

制定を記念して選出しました。

興正寺別院の前の「城之門筋」に顕彰碑が建てられています。(下の写真)

上の写真はGoogleストリートビューに写る田守家住宅の遠景です。

左手が城之門筋、手前の通りが堺町(堺筋)

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大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その5  奥谷家住宅

2021年09月29日 03時38分44秒 | 大阪情報

富田林寺内町散策シリーズの第5回で奥谷家住宅をお送り致します。

上の写真の道路の左側(北側)が奥谷家住宅(本家)の遠景

 

上の写真は寺内町の中心地の町割です。赤の矢印が奥谷家 

出典:富田林寺内町建築マップ

重要文化財・興正寺別院(02)を中心に六筋八町の町割に整備、南北の通りを「筋」、

東西の通りを「町」という。今もそのままのこの町割が残されている。

筋は東より西へ数えて、東筋、亀が坂筋、城之門筋、富筋、市場筋、西筋の六つ。

町は北から南へ数え、壱里山町、富山町、北会所町、南会所町、堺町(堺筋)、御坊町、西林町、東林町の八町名。

奥谷家はメインストリートの城之門筋に面しています。

寺内町は、周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成している伝統的な建造物群

の中で、価値が高い伝統的建造物群「重要伝統的建造物群保存地区

に大阪府内で唯一指定されています。兵庫県では神戸市の北野地区が指定されています。

まず、富田林寺内町について全般を紹介したYoutube動画をGooで共有させていただきます。

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第1回 大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その1 本町公園 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

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奥谷家(本家)

上の2枚の写真は奥谷家本家の建物と現地説明板。河内長野市岩瀬地区から18世紀に

移住してきたとの説明。母屋の建築年代は19世紀初期(文政年間)と考えられるそうです。

屋号は「岩瀬屋」、家業は材木商。

住所表示は富田林市富田林町9

 

(東)奥谷家

 

上の写真は(東)奥谷家の住宅外観と現地説明板

建築年代は文政9年(1826)。家業は油屋。

住所表示は富田林市富田林町24

 

(南)奥谷家

 

上の写真は(南)奥谷家の住宅外観と現地説明板

住所表示は富田林市富田林町10

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大阪府茨木市の東奈良遺跡から出土の土器に描かれた女性シャ-マン(呪術師)の点描画

2021年09月24日 04時48分16秒 | 大阪情報

2021年9月17日、大阪府茨木市の教育委員会は市内の東奈良遺跡で、多くの点を使って

女性シャーマン(呪術師)を表現したとみられる弥生土器が見つかったと発表しました。

発表の様子は下のYoutube動画で確認できます。

東奈良遺跡「点描で人物を描いた土製品」

弥生時代の絵画土器で、人物を点描した例は初めてという。土製品は2002年の発掘で出土し、

遺物の再整理で見つかった。直径約8センチの円板形。点は針状の工具で刺して施したと

みられる。頭部の一部は欠けているが、両手を上げた人物で、脚部の間にV字形の表現が

あることから女性シャーマンの可能性がある。両手を上げた人物表現は弥生時代中期後半に

みられることから土製品も同時期と推定できるという。

東奈良遺跡は1973年に見つかりJR南茨木駅の新設に伴い発掘調査された。東西約1Km、

南北1.2Kmにわたる弥生時代の大規模環濠集落

Wikipediaより東奈良遺跡の概要を引用紹介します。

東奈良遺跡(ひがしならいせき)は、大阪府茨木市の南部、南茨木駅から東側一帯にある、弥生時代の大規模環濠集落や古墳時代、中世の遺構を含む複合遺跡。1973年(昭和48年)、大阪万博とともに新設された南茨木駅周囲一帯の大規模団地建設の際に発見された。南茨木駅の東300メートルに出土品を所蔵・展示した市立文化財資料館がある。

 

弥生土器に描かれた点描画の写真が添付されたサイトにリンクさせていただきます。

 弥生土製品に点描の女性 大阪、シャーマンか | 共同通信 (nordot.app)

 

女性シャーマン(呪術師)のイメージを浮かべるために兵庫県立考古博物館に展示

されている弥生時代の女性呪術師の展示を紹介します。(下の2枚の写真)

撮影は2021年7月4日

女性シャーマンは豊作の願いや悪霊退散などを願った祈りをした

銅鐸や土器さらに桃などの捧げものも呪術において重要な役目を果たしました

上の写真は私の銅版画作品で弥生時代に祈る人々を表現したものです。

 

今回、紹介した女性シャ-マンとは直接関係ありませんが東奈良遺跡の絵画土器に関する

Youtube動画及び東奈良遺跡を紹介したYoutube動画が見つかりましたのでGooで共有しました。

5 東奈良遺跡(発掘された日本列島2015):文部科学省

東奈良遺跡

東奈良史跡公園 史跡・遺跡を見に行ってきました#49 Osaka Higashi Nara Historic Park

 

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大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その4 じないまち交流館

2021年09月22日 04時06分45秒 | 大阪情報

富田林寺内町散策シリーズの第4回でじないまち交流館をお送り致します。

じないまち交流館は寺内町の歴史や文化にまつわる情報が得られる場所。

交流館内に江戸末期の古地図があり町割りは現在とほとんど変わらない。

寺内町は、周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成している伝統的な建造物群

の中で、価値が高い伝統的建造物群「重要伝統的建造物群保存地区

に大阪府内で唯一指定されています。兵庫県では神戸市の北野地区が指定されています。

まず、富田林寺内町について全般を紹介したYoutube動画をGooで共有させていただきます。

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第1回 大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その1 本町公園 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

第2回 大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その2 旧田中家住宅 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

第3回 大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その3 五六七稲荷大明神 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

じないまち交流館の基本情報

住所:富田林市富田林町9-29 TEL:0721-26-0110

開館時間:10:00~17:00  定休日:月曜 入館料:無料

公式サイト:https://www.jinaimachi.jp

ボランティアガイドを依頼する場合、こちらにコンタクトします。

上の2枚の写真は「じないまち交流館」の外観と開館時間などの表示説明板

上の写真は「じないまち交流館」の説明文。

平成18年度に開館 指定管理者は富田林寺内町をまもり・そだてる会

上の3枚の写真はじないまち交流館の中の様子です。

上の写真は16世紀の富田林寺内町のイラスト展示

上の写真は江戸時代の古地図の掲示

 

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大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その3 五六七稲荷大明神

2021年09月19日 04時43分24秒 | 大阪情報

富田林寺内町散策シリーズの第2回で五六七(いむな)稲荷大明神をお送り致します。

旧田中家住宅のある通りに隣接しており旧田中家住宅のすぐ傍にある稲荷社です。

寺内町は、周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成している伝統的な建造物群

の中で、価値が高い伝統的建造物群「重要伝統的建造物群保存地区

に大阪府内で唯一指定されています。兵庫県では神戸市の北野地区が指定されています。

まず、富田林寺内町について全般を紹介したYoutube動画をGooで共有させていただきます。

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第1回 大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その1 本町公園 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

第2回 大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その2 旧田中家住宅 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

上の写真は五六七稲荷大明神の遠景

「正一位 五六七大明神」と書かれていました。

上の写真は境内にあった役行者の石像

上の写真は「創立百年記念碑」と「毛榮組」と彫られた石碑。

 
参照サイト
 
 
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大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その2 旧田中家住宅

2021年09月18日 05時12分13秒 | 大阪情報

富田林寺内町散策シリーズの第2回で旧田中家住宅をお送り致します。

寺内町は、周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成している伝統的な建造物群

の中で、価値が高い伝統的建造物群「重要伝統的建造物群保存地区

に大阪府内で唯一指定されています。兵庫県では神戸市の北野地区が指定されています。

まず、富田林寺内町について全般を紹介したYoutube動画をGooで共有させていただきます。

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第1回 大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その1 本町公園 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

旧田中家住宅は江戸後期にこの地に移ってきたとされる名家。

母屋、乾蔵、巽蔵をはじめ角屋や井戸などを有しており明治期の民家の特色をよく留めています。

 

旧田中家住宅の基本情報

住所:大阪府富田林市本町7−2  TEL:0721-25-1000(富田林市文化財課)

建築年:明治25年(1892)平成23移築・改修 

構造:(母屋)木造平屋建、瓦葺、建築面積112㎡

公開時間&入館料:10:00~17:00 入館無料  定休日:月曜日

公式サイト:旧田中家住宅 - 富田林市公式ウェブサイト (tondabayashi.lg.jp)

所在地のGoo地図を添付しておきます。(富田林駅から徒歩5分程度のところにあります)

 

上の写真は正面から観た旧田中家住宅

上の写真は現地の説明板

田中家は江戸時代後期にこの地へ移ってきたと言われています。幕末から明治において田中家は、「大阪府河内和泉資産家一覧(1911年)」に記載されるほどの資産家でした。主要部は明治25年(1892)の建築。 2004年に所有者から、旧田中家住宅を文化的施設として活用してほしいと、富田林市に寄付されています。 富田林市では、明治期民家の特色をとどめた歴史的建築遺産として保存を決定。市民の文化的活動の場として利用できるように改修します。 2011年夏に保存改修工事を着工し、2012年5月に歴史的文化施設としてオープンし現在に至ります。

上の写真は旧田中家住宅を斜めから観たもの母屋の左側奥が乾蔵

 

登録有形文化財は母屋と乾蔵

以下は文化庁の重要文化財データベースの説明文より引用

母屋

登録番号:27 - 0571  登録年:平成25年(2013)6月21日

道路から後退して南面するつし二階建町家で、東面切妻造、西面入母屋造、桟瓦葺とする。

東側の土間の入口廻りを黒漆喰塗として竪板張とする。西側は整型四間取で前面に出格子

を設け、座敷飾や欄間の意匠も洗練されている。富田林の町家の特徴を示す近代住宅。

 

乾蔵

登録番号:27-0572  登録年:平成25年(2013)6月21日

主屋座敷部の後方、小路沿いに南北棟で建つ土蔵。桁行四・九メートル梁間四メートル、土蔵造二階建、切妻造桟瓦葺である。外壁は、小路側や軒廻りは漆喰で塗込めるが、それ以外は真壁とし、一階部分は竪板張とする。二階を座敷とするなど特異な形式の土蔵。

 

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大阪府富田林寺内町散策記 on 2018-11-11 その1 本町公園

2021年09月15日 04時32分17秒 | 大阪情報

2021年9月11日のNHK総合テレビの朝の番組で富田林の寺内町が紹介されていました。

これに刺激されて表題の記事を書く事にしました。

富田林寺内町へは2018年11月11日に訪問していましたがブログ記事にしていませんでした。

本日はその第1回で近鉄長野線富田林駅から徒歩3分ほどの所にある本町公園を紹介します。

住所は大阪府富田林市本町8−15

Goo地図を添付しておきます。 

それでは早速、本題に移ります。

上の写真は本町公園入口に設けられた寺内町案内板

上の2枚の写真は平成2年(1990)11月市制施行40周年を記念して本町公園内に記念植樹

された樹木と説明板

上の2枚の写真は石上露子の記念碑

旧家の家督を継ぐ運命のため、思いこがれた初恋の人に対するかなわぬ思いを詠んだ

小板橋(下記)は絶唱と評され、石上露子の名を不朽のものにしました。

小板橋

ゆきずりのわが小板橋 しらしらと一枝のうばら
いづこより流れか寄りし 君まつと踏みし夕べに
いひしらず沁みて匂ひき

今はとて思いに病みて 君が名も夢も捨てむと
なげきつつ夕わたれば ああ、うばらあともとどめず
小板橋ひとりゆらめく

  ゆうちどり

石上露子(いそのかみ つゆこ 1882-1959)

明治時代後期に「明星」の歌人として活躍した石上露子は、本名を杉山タカといい、

富田林杉山家の長女に生まれた。幼少の頃から文筆に親しんだ露子は、17、8才の

頃には「夕ちどり」のペンネームで「婦女新聞」や「婦人世界」に随筆や小説などを

投稿し、1903(明治36)年の秋に「新詩社」の社友となった。

その端正な容姿から白菊の花にたとえられた露子は、与謝野晶子や山川登美子らと

ともに「新詩社の五才媛」として称された。

5人の才媛は他に茅野雅子、玉野花子がいる。

上の写真は石上露子の生家、重要文化財の旧杉山家住宅をモチーフとしたタイル画

上の写真は織田作之助記念碑「土曜夫人」の原稿

「夫婦善哉」などの作品で昭和20年前後の文壇に活躍し、織田作(おださく)

の名で大阪を代表する作家として親しまれた織田作之助は、その一時期を

富田林で過ごしました。

親代わりのように作之助を愛し、面倒を見ていた長姉夫婦(竹中氏)が富田林に

転居してきた昭和20年以降、作之助は、現在の富田林市寿町にあった竹中家に

身を寄せています。この時期、すでに流行作家として次々に作品を発表していた

作之助にとって、富田林に滞在した日々は、まさに円熟のときでした。

以後、昭和22年に短い生涯を閉じる2ヶ月前まで、竹中家の書斎を好んで

文筆活動の場としていました。

作之助は、「人の一生は偶然の連続である。偶然を敏感に感受して必然に変えるのだ」

という言葉を文学と人生の哲学にしていました。

平成7年11月13日に記念碑が建立されました。

上の写真は織田作之助(左)と石上露子(右)の記念碑の遠景

上の3枚の写真は石上露子の歌碑と説明板

歌碑には次の文が詠まれています。

「みいくさにこよひ誰が死ぬさびしみと髪ふく風の行方見まもる」

説明板には次のように書かれています。

石上露子 (杉山タカ)  1882年-1959年
1904年(明治37年)2月、世界の列強ロシアと日本が国運を賭けての戦争が始まった。日露戦争である。同年5月金州、南山の攻略は約1ヶ月余りにわたり激しい戦いが展開された。この戦いに大阪第四師団が参加、富田林及びその周辺の村落にも多くの戦死者を出した。この時、戦死者とその遺族の身の上を按じ、国の行末を思い、言い知れぬ深い不安と悲しみにおそわれて詠まれたのがこの短歌で、明治37年7月短歌誌の明星に夕ちどりの名で発表せられた。 芝昇一 記

上の2枚の写真は水車の展示と説明板

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聖徳太子1400年御遠忌大法会 in 叡福寺 と聖徳太子所縁の寺社

2021年04月19日 04時13分44秒 | 大阪情報

聖徳太子は推古天皇30年2月22日(新暦換算622年4月8日)に死去されていますので

今年は没後、1400年の聖忌となることから、叡福寺で「聖徳太子1400年御遠忌大法会

が執り行われています。

聖徳太子1400年御遠忌大法会の要項

開催期間:2021年4月10日~5月11日 拝観時間は9:00~16:30(受付は16:00まで)

開催場所:叡福寺 大阪府南河内郡太子町太子2146  TEL:0721-98-0019

拝観料:大人 1,500円 小人 700円

公式サイト:上之太子 叡福寺 【公式】 聖徳太子御廟所 (eifukuji-taishi.jp)

期間中は、「聖徳太子絵伝」が特別に公開されるほか、雅楽、献華式、献茶式、

新作能、狂言などの奉納行事も予定されています。

大法会の詳細内容については上記の公式サイトを参照してください。

 

叡福寺のGoo地図は下記サイトに記載しています。

 聖徳太子墓(叡福寺北古墳)訪問記 on 2014-12-2 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)


 

聖徳太子関連年表
538年 仏教伝来(一説では552年)
540年 大伴金村、任那問題で失脚
552年 蘇我稲目と物部尾輿が崇仏論争
562年 新羅が任那を滅ぼす
574年 聖徳太子生誕
      574年2月7日(敏達天皇3年1月1日)出生地は橘寺     
577年 百済より経論、律師、禅師、仏工、寺工渡来
585年 物部守屋等 仏寺、仏像などを焼き捨てる
     聖徳太子の父・橘豊日皇子が即位(用明天皇)
587年 崇仏派の蘇我馬子が物部氏を滅ぼす
588年 蘇我馬子が飛鳥寺の造営を開始
582年 蘇我馬子が崇峻天皇を謀殺
      推古天皇即位
593年 聖徳太子が摂政となる、四天王寺建立開始
594年 仏教興隆の詔
600年 第1回の遣隋使を派遣
601年 斑鳩宮を造営
603年 冠位十二階を定めた
605年 諸王諸臣に、褶の着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む
604年 十七条憲法を制定
615年 仏教を篤く信仰し「三経義疏」を著す
622年 聖徳太子死去
      622年4月8日(推古天皇30年2月22日)

さらに詳細は http://en.wikipedia.org/wiki/Prince_Sh%C5%8Dtoku   

聖徳太子墓

上の2枚の写真は叡福寺の聖徳太子墓(叡福寺北古墳) 撮影:2014-12-2

 

近つ飛鳥博物館の常設展で聖徳太子墓(叡福寺北古墳)の展示の説明版を
示します(上の2枚の写真)

聖徳太子墓(叡福寺北古墳)訪問記 on 2014-12-2 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

上記ブログより聖徳太子の墓所に関する記載を再掲載します。

この墓には聖徳太子の他に聖徳太子の母君の穴穂部間人皇后(あなほべのはじひとこうごう)と
妃の菩岐々美郎女膳臣女(ほききみのいらつめかしわでのおみのむすめ)の3人が
葬られていることから三骨一廟と呼ばれています。

造営年代と納骨時期について:
聖徳太子は生前にこの地に廟を造ることに決め、推古28年(620年)に墓所を造営したとされる。
推古29年、太子の母・穴穂部間人皇后が死去したのでこの墓に埋葬した。
更に推古30年(622)2月、大后の眠る廟に、太子と前日に亡くなった妃の
菩岐々美郎女膳臣女が合葬された。
法隆寺金堂に安置されている釈迦像の光背に刻まれた銘文による


石室は現在宮内庁の管理下にあり立ち入ることができない。

近年での学術調査として宮内庁職員である富岡鉄斎が、明治12年に入廟し、
このときも三棺合葬となっている石室図を記録として残しています。
明治の初めまでは石室にはいることが可能で先人がいくつかの記録を残している。

 

聖徳太子所縁の寺社

(1)法隆寺

  

上の写真は法隆寺西院伽藍 五重塔 撮影:2015-12-20

 訪問記:法隆寺 on 2015-12-20 その10 (最終回) 法隆寺大宝蔵院の百済観音 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

(2)橘寺

上の写真は橘寺(太子堂)です。 撮影:2011-5-16

訪問記:奈良散策記 その4 橘寺 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp) 

 

(3)斑鳩寺

上の写真は斑鳩寺 三重塔 撮影:2018-4-18

訪問記:斑鳩寺訪問記 on 2018-4-18 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

(4)鶴林寺

上の写真は鶴林寺の本堂(左)と太子堂(右) 撮影:2014-1-8

訪問記:鶴林寺の修正会/鬼追い on 2014-1-8 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

    鶴林寺 on 2009-12-8 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

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旧川口居留地

2021年02月28日 04時50分37秒 | 大阪情報

旧川口居留地について資料が出てきたので記憶に留めるためにブログを作成しました。

上の写真は10区画増設(26区→36区)後の居留地区画

 出典:明治19年「新修大阪市史」第5巻

以下はWikipediaより旧川口居留地の概要を記したものです。

開市開港直前の大阪では、安治川と木津川の分岐点に位置する川口に船番所や組屋敷を設置していた
大坂船手が軍艦奉行の勝海舟の提言によって1864年に廃止され、その跡地を外国人居留地に
充てることが予定されていた。
なお、大坂船手の船員たちの多くは同じく勝海舟が頭取を務める神戸海軍操練所に転属されている。
また、1867年には幕府が「戎」の文字の使用を禁止したため、予定地の南隣に位置する
戎島町が梅本町に改称されている。

1868年7月に26区画の諸外国への競売が行われ完売し、直ちに街路樹や街灯、洋館が並ぶ
西洋の街へと整備される。居留地に接する富島町、古川町、本田一番町~三番町、梅本町も
外国人雑居地となり、1886年には人気に応えて10区画の増設が行われた。
また、木津川対岸の江之子島にはドームを有する洋風建築の大阪府庁舎(2代目。1874年竣工、
1926年大手前へ移転)や大阪市庁舎(初代。1899年竣工、1912年堂島へ移転)が建設された。
1899年に居留地制度は廃止されたが、大正時代末まで周辺一帯は大阪の行政の中心であり
大阪初の電信局、洋食店、中華料理店、カフェが出来、様々な工業製品や嗜好品が
ここから大阪市内に広まるなど、文明開化・近代化の象徴であった。

 

大坂の開市は慶応3年(1867)12月(新暦換算1868年1月)居留地は上述のように1868年7月

に26区画の競売が実施され、明治19年(1886)6月7日に10区画(2,667坪余=約8,800㎡)

拡張されました。

拡張後に36区画となりました。神戸の126区画と較べるとこじんまりとした感じです。

この居留地は港としては不適で大型船が入港出来ないことから明治5年(1872)には

外国船の入港が途絶えた。

川口の外国人貿易商は良港を有する神戸外国人居留地へ続々と転出した。

川口旧居留地は明治32年(1899)条約改正により廃止され、大阪市にひきつがれた。

現在は本田小学校の一隅に「川口居留地跡」の石碑(1961年大阪市建立)がひっそりと

立っているのみである。

川口居留地について詳しく解説されているサイトがありましたのでリンクさせていただきます。

 pageq1 (sakura.ne.jp)

 

 

 

 

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