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日記(2.18)法事 ・ 船村徹氏の訃報

2017-02-18 16:29:58 | 日常
2月18日  (土曜日)   曇り

本日は伯母の49日「77日」でお寺さんに出かける。
寒い日になった。
11時からの法要である。

各自、お焼香も終えて・・しびれた足。

お墓に行ってお線香あげをしている頃・・風も出てきて冷たい!
別席にて法宴も終えて帰宅。
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一昨日船村徹さんの訃報がニュース・ネットに流れた。

作曲家の船村徹さんには、12も年の離れた兄がいたという。
陸軍士官学校に通う兄・健一さんは帰郷するたび、
弟のふとんにもぐり込んでは、ハーモニカを吹いて聞かせてくれた。

何曲か演奏すると急に静かになり、厳しい顔つきでこう言ったという。
「おまえは、軍人になるなよ」「死ぬのは、おれだけでいいんだから」

そんな兄が23歳で戦死した時、既に父を亡くしていた船村さんは、
一家の代表として「遺骨」を受け取りに行った。

空襲で廃虚になった街を歩くと、「遺骨」と称する木の板が入った箱がカタカタと鳴ったそうだ・・
(『兄の戦争』)

兄の吹くハーモニカの美しい音色と、「遺骨」が立てる悲しい響き。
あるいは故郷・栃木のお国言葉や、上京してギターの流しをした繁華街のざわめき
そういう音すべてが、船村節を生む土壌となったのだろう・・・・
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欧米からの借り物の音楽が全盛だった時代、
船村さんは日本の土着の音にこだわった。

村田英雄さんの大ヒット曲「王将」をつくった時は、
<♪吹けば飛ぶよな 将棋の駒に…>という歌詞を
<吹けば飛ぶよな演歌の旋律(ふし)に賭けた男を笑わば笑え>
読み替えて作曲したという(『歌は心でうたうもの』)

喜怒哀楽に満ちた数々の調べを残し、人生を終えた2月16日は、
兄・健一さんの命日。兄は聞けなかった「戦後の歌」を、歌って聞かせているかもしれぬ!

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★日本の土着の音にこだわったという、確かに詩に合わせて曲作りをされていたんだなあ~!
 何かひかれる旋律だ。
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船村/徹
作曲家。昭和7年栃木県塩谷郡塩谷町(旧船生村)生まれ(本名・福田博郎)。
昭和24年東洋音楽学校(現東京音楽大学)入学。
盟友高野公男との出会いを経て、昭和30年「別れの一本杉」の作曲で世に出る。
以後数多くのヒット曲を生み、
北島三郎、鳥羽一郎など大勢の弟子を育ててきた。
平成27年4月日光市に船村徹記念館がオープン。
紫綬褒章、旭日中綬章を受章。
文化功労者。栃木県名誉県民
文化勲章も受賞。
コメント
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