中さん

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日記(12.27)

2020-12-27 15:25:07 | 日常
12月27日(日曜日)晴れ いい天気だ。
今日も余禄から学ばせてもらう。
「売れなければ売れるまで、売れれば売れなくなるまで書いてくれ」
 プロダクションの新人歌手の歌をこう依頼したのは石原裕次郎だった。
 なかにし礼さんが作詞の仕事をするきっかけをくれた大恩人である。
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●歌手は黛ジュンさん。さてと考え込んだが、
 「ハレルヤ」という歓喜の言葉がひらめいたとたん、
 絶対にヒットすると確信した。
 喜びの言葉で失恋を歌う「恋のハレルヤ」は恋が受け身でない
 今時のアイドルの歌として大ヒットする。

 ●実はなかにしさんが「ハレルヤ」と記した時、
 心にあったのは8歳の時に見た大連の青い空と海だった。
 旧満州(現中国東北部)で家族と終戦を迎え、
 死と隣り合わせの凄絶な体験の末に行き着いた引き揚げ船の出発港の光景だった。

「僕の歌は戦争体験の一種の記録なんだ。その最初の作品がこれ」
  近年のインタビューでそう語っていたなかにしさんだ。
  たとえば弘田三枝子さんの「人形の家」は国に
  見捨てられた旧満州の日本人の絶望を織り込んだ歌詞という。

●「子ども時代の体験を直視することで僕は言葉というものをつかんだ」。
  平成に入ると小説「長崎ぶらぶら節」での直木賞受賞など文学に活躍の舞台を移したが
  旧満州の戦争体験は小説「赤い月」をはじめ作品の底流をなし続けた。

「僕の歌はすべて昭和という時代への愛と恨みの歌です」
  戦争で少年の内面に刻まれた心の傷を、時代を代表する
  ヒット曲や文学作品に変えたなかにしさんだ。
  残すべきものを手渡しての旅立ちである。
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”昭和という時代への愛と恨みの歌です”・・そうだったのか!
歌手の歌声が勝ってか歌詞を読み取れなかった若造時代であった。
文に出てくる内容と年代は違うものの・・
個人的に大連の203高地には興味あって20年ほど前に行ってみた。
映画や記録ではわかっていたつもりが実際に現地の地形やロシア軍の陣形を見て
なぜ、あんなに人が死んだのかが良く分かった。無理やり突撃を命じられた兵が
ここでは隠れるものもなく山頂からの銃撃で死んでいったのだ!
今では裾野で中国の人たちの花見場所だ!
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遼寧省大連市の旅順口区は、
日露戦争での旅順港を巡る攻防で日本とロシアが激突した場所です。
激戦地「203高地」はロシア軍艦が停泊する旅順港まで約4kmの距離。

港を見下ろせることからロシア軍が防備を固めたのです。
対して日本軍はここから大砲で軍艦を攻撃したい。
1980年には映画「二百三高地」が上映され数々の賞を受賞した・
小説は「坂の上の雲」が知られる。
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コメント
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