ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

北の癒し

2024-03-30 | 私の好きなこと
これは加州のシェラネヴァダ山脈(アンドロイド使用ではないが、新画像はフォルダーに取り入れられず、とりあえず現在のシェラを)


北部州の長姉の元へこの2年来初めて訪問し、2週間ほどゆっくり過ごしてきた。お互い未亡人となってしまった今、時には涙をながしながら、積もる話は尽きなかった。木々に囲まれた家で、北国の遅い春を、スェーデン製の50年という年季の入ったストーブで頻繁に暖を取った。庭の林から切り出した薪は10年近く乾燥させてあり、気持ちが良いほど燃えてくれた。7年前に他界した義兄がそれまでに切り出した木々を薪にしたもので、いまだに薪は底を尽いていない。

春分の日を過ぎても、病後から手足が冷たくなりがちの私は、燃える薪を見ながら暖を取るのは、まるで世界一のカウンセラーやそれこそ主と話をするが如くに、心身共に癒されることだった。

北の島は寒いが、それでも木々には花々があふれ、水仙があちらこちらに背筋を伸ばしてその健気な律儀さを見せていた。パティオには牝鹿一家が始終訪問し、さまざまな大中小のキツツキは盛んに専用のワイヤー格子のフィーダーにいれた四角く固めた牛脂肪で穀物を混ぜたスエット・ケーキをついばみにやってくる。寒い朝からハチドリは用意した水蜜を吸いにせわしなくやってくる。森からはフクロウが頻繁にその相方への挨拶に忙しく、白頭ワシも通りを隔てた森から飛来してくる。

窓辺に座ってそうした「森の世間」の様子を目にしていると、心のシワがだんだんに伸ばされていく気もして、「帰ったらあれをしよう、これをしたい」という気持ちが湧いてくる。自然の為す技だろう。帰宅しての孫たち、4歳児と10ヶ月児との遊びが恋しくなり、里心がつき始めれば、滞在の目的は果たされていたと思う。10ヶ月児は私を忘れたろうかと思ったが、再会すれば、私に腕を大きく開き真っ直ぐにやってきた。

北へ飛び立った日、雲海の切れ間に見え隠れする緑の森や湖や白い山脈を目にしては、なんども「そうか、ここにもあそこにも、もういないんだ」と、頭では理解していることを、心がなかなか理解しない自分を持て余した。世界の果てまでずっと飛び続けても、もうこの地上には決して探し出せない人。本当はすぐ私のそばにいる気配を感じても、私のその「時」が来るまでは、目には見えず、その手や頬にも触れられない。

飛行機の窓外の輝く雲が、霞がかってしまいそうな途端、突然906年前に鳥羽天皇に誕生した悲劇の第一皇子・崇徳院 の詠んだ歌が脳裏を駆け巡った。

「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」

(現代訳:川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流が2つに分かれるが、末にまた1つになるように、愛しいあの人と今は分かれても、いつかはきっと再会したいと思っている)

確かに夫は大学時代古事記や源氏物語などの古典を読み、特に気に入っていたのは方丈記だったが、久安百首にある崇徳院 の詠んだ歌を記憶のどこからか引っ張り出してきて、それはまるで、私に伝えたかったかのように。亡くなる前に「なんとか私に連絡してちょうだい」という私のたわごとを覚えていてそれを私に伝達したとしたら、とても彼らしい。

「カサブランカ」の映画が好きで、主演のハンフリー・ボガートも気に入っていた人は、その映画でボガート(ボギーと呼ばれた)が口にした、
”Here's looking at you, kid."
 
和訳すると、「あなたを見ているよ。」は、単に彼は彼女がそこにいてくれてうれしい、彼女がきれいに見える、という意味のいわば戯言を、時折”Here's looking at you, XXX(私の呼び名).” と言ったことがあった。それを私の頭に送ってくれたら、「チャラい!!」と愉快になって私は、突如一人笑い出して、乗務員や乗客は驚かれたかもしれない。

されど地味でも崇徳院の歌は、私にはしっかり受け止められ、希望は捨てまいと再びこれからも邁進してまいろう(どうも古典的になってしまう)、と思ったのは確かである。そして私こそ、見えない貴方に向かって、”Here's looking at you, kid!"と言ってみよう。



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赤い狐と共に

2024-03-30 | わたしの好きなもの


仕事を退いてから、皮のハンドバッグやショルダーバッグは、あまり使用しなくなった。教会やあらたまった会食などには、それなりの小さめの皮のバッグを用いるが、普段の買い物や図書館あるいは本屋でのひやかし、孫たちのスカウト関係の集まり、スポーツ観戦、学校での表彰会、そして自身の検診などに、バックパックを利用することがはるかに増えた。これにはラップトップ(ノートブック型パソコンやマック)を入れるパッド付きポケットが背中側にあり、普段使いに、ちょっとした旅行に便利だ。

このバッグはかなり容量があり、私が化学療法をしていた時は、膝掛けや肩掛け(療法は8月1日からの酷暑下でも常に私には寒気があった)、64オンスのキャンティーン(療法中は特に、頻繁な水分補給が必要)、軽いスナック、本、アイパッド、エアポッズ、騒音を消し、音楽やポッドキャストやオーディオブックスに使うエアポッドマックスさえ入れていた。もちろんアイフォンやお財布、クリネックス、ハンドローション、リップクリーム、そして今は多くの人がその名前さえ忘れている白い木綿のハンカチも。メリーポピンズのカーペットバッグのようにコート掛けさえ入れられたかもしれない(まさか)。

普通化学療法には伴侶や成人した子供なり家族や友人が付き添うが、夫を埋葬したばかりの私は、療法中はひとり。子供がまだ幼い娘たちには4時間も付き添わせたくはなく、送迎だけを依頼していた。

特に帰りは大量の化学薬品を投入後だから、めまいや立ちくらみ、時には気絶までする患者があると聞き、自分では大丈夫と思っていても、人様に迷惑をおかけするのは忍びないために、患者自身の運転は禁物だ。幸い私は悪寒があった以外、概して具合が悪くはならず、化学療法、キモセラピーという名に慄きもせず、淡々と受けられた。ただし帰宅時は疲労と眠気があった。

治療中このバックパックは良き「付き添い」「相棒」であった。本も読まず、音楽も聴いていないと、どうしても思いは卒業した夫がいないことばかりに集中し、切なくなるので、しっかりしなきゃとひっそり自分を叱咤激励しながら、バッグからあれこれ取り出して気を紛らわせていた。

Fjällräven Kanken

それがこのバックパック。スェーデン製品で素朴かつ自然にやさしい丈夫さがある。特にG-1000という素材を使用したものには、石鹸のような固形のグリーンランド・ワックスを必要に応じて自分で塗布することができる。ウォータープルーフではなく、軽い雨などの水滴を弾くためである。

この製品を最初に使い出したのは、ハワイで大学生活を送っていた次男がキャンパスで出会い、妻となったスェーデン人に教えて貰って以来。その半年後、夏休みに帰国していた彼女と彼女の両親に挨拶と結婚の申し込みを決意した。長男は、付き添い・サポートとして次男に付随し、弟と共にこの製品を購入した。やがて娘たちにも広がり、ついに私もひとつ持つことになった。孫たちも子供用のバックパックを持っている。

私のバックパックは、「キモセラピーバッグ」と呼びもして、通常ならば感じないであろう特別の愛着を感じている。物質的なわけではなく、こんなバッグにも頼りたかった私だったのを覚えておくために。点滴の名のごとく点々と用薬をゆっくりと血流に流していくキモセラピー中、時折読書に飽いて窓外を眺めながら、涙を流したのを知っているのもこのバッグだった。そして心を落ち着けて、自己憐憫に陥らないように、このバッグに夫の霊が入っているかもしれない、と他愛もなくそう思った。

なんでも入れられるドラえもんのポケットのように、あるいは本当に夫の霊もバッグに入って私の心の声を聞いていたかもしれない。何故ならば、セラピーを終えて娘の運転で帰宅する時、明日から頑張れるという明るい気持ちになっていたから。生前、夫はいつでもなんでも私の話に耳を貸し、気持ちを鎮めてくれたり、別の考え方を教えてくれたものだった。そして話した後はいつもどんな雲にも銀色の裏がある、と思い起せたのだから。

このようなガミー(グミ)もバッグには入れていた。
今は愛用のデスクトップ・マックの傍に常在でブログのお供。
Skalle(頭蓋骨)という名前のガミー(グミ)。なんて名前で形だろう!






コメント (6)
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