ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

偶然の一致?

2019-07-16 | 人間の愛

 ui-ex.com

 

 

 

 

 

1945年、強制収容所に14歳の少年がいました。彼は背が高く、細い体つきでしたが、明るい笑顔をしていました。毎日、フェンスの向こう側に若い女の子がやってきました。彼女はその少年に気付いて、彼がポーランド語を話せるかどうか尋ねると、彼は話せると言いました。彼女はこの少年が空腹そうに見えたと言い、彼はそうだと言いました。彼女は自分のポケットに手を入れてリンゴを取り出し、少年に渡しました。彼は彼女に感謝し、そして彼女は彼女のもと来た道に戻りました。翌日、彼女はまたリンゴを持ってきて、彼に渡しました。毎日、彼女は彼に会うことを望んでフェンスの外側を歩き、会えると、会話と引き換えに彼に喜んでリンゴを渡しました。

ある日、少年は、ここにもう来ないようにと彼女に言いました。彼は別の強制収容所に送られるのだ、と彼女に言いました。彼は頬に涙を流しつつ、そこを去り、あの女の子にいつまた会えるのだろうかと思いました。彼がフェンスを越えて見た唯一の親切な魂が彼女でした。

彼は強制収容所から出ることができ、その後アメリカに移住しました。 1957年に、彼の友人たちは彼にブラインド・デートを企てました。彼はその女性が誰なのか見当もつきませんでした。彼は彼女を迎えに行き、夕食をしている間にポーランドと強制収容所の話を始めました。彼女は当時ポーランドにいたと言いました。彼女は、ある少年と話をするのが常で、毎日彼にりんごを与えたものだ、と言いました。彼はその少年が背が高くて細かったかどうか、そして彼がそこから去るのでもう来てはいけないと彼女に言ったかどうか尋ねました。彼女はええ、と言いました。

毎日やってきてリンゴを少年にあげたのは彼女でした。 あれから12年後、戦争は終わり、そして別の国で…彼らは再び出会ったのでした。こんな確率あるのでしょうか? 彼はその夜彼女にプロポーズをして、二度と彼女を手放さないと彼女に言いました。彼らは今日もまだ幸せに結婚しています。

 

 inspire21.com

 

 

*******

 

たとえどんな障害が二人の間にあっても、当人たちが本当に結びつく運命にあるなら、二つの磁石が吸い寄せられるごとく、添い遂げるだろうと、私はそう息子たちや娘たちに話してきたし、今でも思う。だから東京で生まれた私はアリゾナで生まれた夫と結婚しているのだろう。そして子供たちもそうである。ある人がある人と結ばれるのは、意味されてきていると思うのだ。「赤い糸」というのは満更絵空事ではなく、本当に結びつく運命ならば、どんな障害や障壁があっても、いつか結びつくのではないだろうか。


おまけにChristina PerriのA Thousand YearsをThe Piano Guysのピアノとチェロで。




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集まってあの手の話

2019-07-14 | 人間性

 sccpre.cat

 

 

 

 

 

 

今年の独立記念日は木曜日で、よって翌日金曜日は普通の仕事日。賢い人は、金曜日に有給休暇を取り、四日連続週末にするが、そうしない人も多かった。この7月1日から、カリフォルニア州のガソリン税は1ガロンあたり41.7セントから47.3セントに上昇し、燃料価格が、5.6セント上昇したのもあって、合衆国の平均より一ドル近く高いカリフォルニア州のガソリン代が、海に山に、とヴァケイションを楽しみたい意気を消沈させている。今日あたり、1ガロンあたりコスコで$3.35、グリーンの恐竜のシンクレアで$3.37である。$3.35が安く感じるなんて、本当に恐ろしい。

 

 

私はその5日の金曜日、同じように出勤してきた5人の同僚と楽しく(本当に)一日過ごした。それは朝オフィスのあちらこちらで、同僚との立ち話から始まった。同僚のAが、祖母宅にある一室には絶対入室したくない、と話し始めたのだった。そこは彼女の曾祖母の部屋で彼女はそこで亡くなった。ちいさな頃からメキシコのサカテカス州にあるその祖母の家へ遊びに行くたび、その部屋だけ誰も使いたがらなかった。その部屋には、「居る」らしい。子供たちの誰もがそれを知っていた。だから子供たちは離れの小さな一間でぎゅうぎゅうになって寝たそうだ。彼女の母親もそこで生まれ育ち、その家からは、鉄道の駅が見え、客車もかつて停車したので、幼かった時分の母親はよく窓辺で下車する人々を眺めていたそうだ。ある日、白い人影らしいものが下りてきて、奇妙だと目を凝らすと、その影は駅舎の壁をすっと抜けていったのだと言う。


サカテカスは約一万年前に人が住み始め、16世紀にスペイン人に征服され、銀鉱山が開かれた,歴史のあるメキシコ高地にある州で、スペインの植民地時代のキリスト教徒(カトリック)伝道師によって建立された宗教建造物のある街並みは世界遺産である。1960年代に閉山した銀鉱山は1970年代に観光目的で再び開けられたが、そこやサカテカスの至る所には、朽ちた、あるいは朽ちかけたアドビやレンガの建物が残っていて、「いわく」付きのものも多いそうだ。と、ここで私たちは勤務に戻り、続きはランチタイムに、会議室で一緒にランチをしながら、ということになった。


ランチタイムは他の同僚Rが、まだこの大学の学部生だった頃起こった話をしてくれた。彼はもともと敬虔なカトリックで、同じような仲間と一緒に平屋の一軒家を借りて住んでいた。その仲間の一人は、非常に熱心にカトリックについて学び、至極真面目な学生だった。これは一般的に言うのだが、非常に神の道を究めようとすると起こることがあるのは、それは悪魔がそうさせまい、とすることである。Rの友人の場合は、のめりこむように熱心にカトリックについて知りたがり、聖書を読みつくし、カトリックに改宗しようということになった。それと同時にRと仲間は、夜寝ている時、天井から重い足音がしょっちゅうするのに気づき、部屋の中にどんよりとした悪意に満ちたような空気が漂うのもを感じたと言う。そこでRと仲間は、近くの教会の神父に「お祓い」(清め)を行うように依頼した。神父はすぐやってきて、お祓いをしてくれたが、Rたちにくれぐれも気を付けるようにと言い渡して去った。その後も足音はしたが、仲間の一人がカソリックに改宗、洗礼を受けた途端、借りていた家は何事もなかったように静まったそうだ。


ペルー人の父親と沖縄からの日系二世の母親を持つ同僚Lは、リマで生まれ育ち、父方の祖母が亡くなった時、家族がその祖母の車のトランクを開けたとたん、黒々としたカラスが一羽そこから飛び立ったのを見た、と言った。何故カラスが祖母の車のトランク内にいたのか、誰も答えられなかった。その祖母は、リマ郊外の山の上に、アドビ(砂質粘土や藁などの有機物を混ぜて作った土壁の家)に住み、もちろん電気・水道は通っていず、雨水(もともと雨量はあるかないかの土地である)を貯め、食糧は家の周りの畑で栽培し、ヤギや鶏を飼っていたという。Lは小さな頃両親とその祖母の家へ行くのが苦痛だったと言う。


「電気もなくて、水も不足していて、土間にベッドが置いてあるだけなの!」ただし、彼女は帰りの車の中から見える満天の輝く星空が嬉しかった。ある晩父親の運転する車でリマの街へ帰る途中、満天の星の中に異様な動きをする光を見つけ、家族で眺めているうち、その光は、素早く動きまわり、消えてしまったそうである。ジグザクに動く流星なんて、ないわよね、とLは言った。だからあれは絶対UFOに違いない、と彼女が言うと、Rは、「銀河系のようなシステムは宇宙にたくさんあるのだから、生命体がいてもおかしくはないよね。事実いくら否定する人がいても、その根拠は弱いし。」と言った。


「カラス、と言えば、私の父が若い頃、そして私がとても幼かった頃、青い顔をして、会社から帰宅して、真っ先に言ったことがあるのよ。それはね、動物は決して虐めるものじゃないってことだったの。その日会社の若い同僚がランチタイムに外へ出て、その時電線に留まっていたカラスがひときわうるさく鳴いて、その人は、『うるさい!』と言って、道端にあった小石を拾って、カラスに投げつけたんですって。そしたら運悪くその鳴いていたカラスに当たり、電線から落ち、死んでしまったんだって。その午後その若い人は、上から落ちてきたものに頭をぶつけて、即死してしまったのよ。」と私は思い出したことを言った。そうそう、あの晩父は本当に青い顔で帰宅し、私たち子供を呼んで、「いいか、どんな生き物も虐めたり、必要のない殺傷をしてはいけないんだよ、」と言い、なにがその日起こったのか話してくれたのだった。


普段カトリックやその他のキリスト教をアンタゴ二スティック(キリスト教を反対的に話す元カトリックだった女性のBでさえ、ある、ある、と言って私たちのランチに付き合っていた。背中がぞくぞくするほどではないし、きゃあと叫ぶ者もいなかったが、私たちはこうして楽しいランチタイムを過ごしたのだった。5日に出勤も悪くはないものだ。







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SWITCHELって?

2019-07-12 | アメリカ事情

 offthegridnews.com

植民地時代のアメリカ人の好物だったスイッチェルはベン・フランクリンも飲用したことだろう。

 

 

 

夏至も過ぎ、七月に入った。すでに華氏100度超えの日々も何日か六月からあり、そういう日は、ここの街中の建物の一角や図書館やらにクーリング・プレイス(納涼センター、とでも訳そうか)を設けて、エアコンディショナーがあっても、通常よりも電気代がかさむのを懸念する年金暮らしのお年寄りや、諸々の事情で避暑に行きたくとも行けない子供たちが涼める場所である。十分に水分を補給し、日向を避けて、子供たちを遊ばせるために高校などのプールも無料、あるいはささやかな入場料を取って開放されている。熱中症あるいは熱卒中と言われる症状は、自覚があまりなくとも重篤な事態を引き起こすので、予防が重要で、涼しく過ごすだけでなく、十分に水分を補給しなければならない。


 

さて、エア・コンディショナーはもとより、電気などなかった植民地時代のアメリカで暑い夏を乗り越えるのに重宝された飲み物がある。下の写真のSwitchel(スイッチェル)という名前の飲み物は、家庭で簡単に作られるし、またアマゾンなどで商業的に販売されているSwitchel がある。このアメリカ独特の、特に東部ニューイングランド地方特有の飲み物は、廃糖蜜(あるいは蜂蜜)と水で作られ、酢、生姜が加えられた飲み物のことである。 マサーチューセッツ州出身のチャールス・ダドリー・ワーナー(1829-1900)という作家が書いた半自伝的作品、Being a Boy(男の子であること)という回想録には、「昼食は、ルートビア*の瓶とスイッチェルの入った(陶器の口の細い大きめの)水差しと共に大きなバスケットに詰め込まれていた」と書かれている。

*ルートビアはアルコールではない、ソフトドリンクの一種。ルートビアは水、酵母菌とルートビア・エキストラクトと甘味料で家庭でも作られる。酵母菌でなくとも、炭酸水を使用したり、ドライアイスを使用しても作れる。


 

 スイッチェルは、アルコールなしが基本だが、嗜む人はラムを加える。

 

 

SuperSwitchel.com

市販のスイッチェルはアルコール・フリー。

ご覧のように、オレンジとメイプル風味、ラヴェンダーとレモン風味、そして蜂蜜とシナモン風味などもある。

 

 

現代では、スポーツや野外作業などで、発汗によって体内から失われた水分やミネラル(塩分など)を効率的に補給するのを目的としたいわゆるスポーツドリンクがあるが、スイッチェルは、人間の細胞内の浸透圧に差のある仕組みを利用して、体液の調整を行う電解質を含んだまさにオリジナルのスポーツドリンクと言える。真夏の農場で干し草を刈ったり、その他の農作業のために起こる脱水症状を快復させるために、そして熱中症防止のためにスイッチェルは飲用されてきた。


スイッチェルは、簡単に家庭で作ることができる。次に紹介するのは、まず伝統的な昔ながらの作り方から。(参照:老農夫の暦)


 

  • 1 gallon water
  • 1 ½ cups molasses
  • ⅓ cup apple cider vinegar
  • 1 tablespoon freshly grated ginger 


  • 1ガロン(3.785リットル)の水
  • 1 ½カップの廃糖蜜(Molasses)
  • 1/3カップのアップル・サイダー・ヴィネガー
  • 1テーブルスプーンのおろしショウガ

モラシス(廃糖蜜)が一般的だが、メイプルシロップや蜂蜜、あるいはその他の甘味料を使用してもよい。甘味料を控えたいのなら少な目にしてもよい。ご自分のお好みに合わせた調合で。初めて作る時は控えめな量で始め、物足りなさがあれば少しずつ足していく。スイッチェルは口内をさっぱりとさせるもので、決して、くどさやしつこさがあるものではない。一さじのレモンジュースやライムジュースを加えてみるのもよいアイデアである。
 
 
 

Etsy: BoulderBlueStudio
陶器のジャグでスイッチェルを楽しむ方も


Bon Appetite Magazine(料理雑誌)のウェブサイトからのレシピは以下。水の代わりに炭酸水(クラブ・ソーダ)を用いるのも楽しい。

 

  • 1 5"-piece fresh ginger (about 6 ounces)
  • ½ cup apple cider vinegar
  • 3 tablespoons pure maple syrup
  • 1 tablespoon fresh lime or lemon juice
  • 4 cups water or club soda
  • Mint sprigs (for serving)
  • ひとかけら(12㎝ほど)のおろしショウガ(150gほど)
  • 1/2カップのアップル・サイダー・ヴィネガー
  • 3テーブルスプーンの純粋メイプルシロップ
  • 1テーブルスプーンの新鮮なライムあるいはレモンジュース
  • 4カップの水あるいはクラブソーダ(炭酸水)
  • お好みでミントの葉を添える

 

Brer Rabbit社の廃糖蜜(Molasses) 

私が使うのはBragg社のオーガニック・アップル・サイダー・ヴィネガー

 

そして炭酸水(クラブソーダ)


私個人はスポーツドリンクを好まず、スイッチェルの方が飲みやすい。体調に十分気をつけて暑い夏を乗り越えたい。


almanac.com




 

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イチジクに寄せて

2019-07-10 | アメリカ事情

 americanliterature.com

 

 

 

 

先日のイヴニング・ニュースのローカル版で、イチジクが熟しつつあり、すでに小売りされている、と伝えた。夫と私が行くのは、大きなカトリック病院の近くにあるごく普通の一件の民家で、そこの庭で収穫した桃やチェリーやイチジクを売っている。土曜日の朝早くに行って仕入れてくることにした。すると今朝オフィスに平たい箱一杯に濃い紫の卵のようなイチジクを入れて同僚のRが持ってきた。Rは少年の頃、季節農業労働者の両親を手伝ってイチジク農園で、イチジクを捥いだそうだ。彼いわく、紫のイタリアン・イチジクは、高級品で、高値がつき、カドタ・イチジクや緑や白っぽい品種の物は、安価なので、空腹ならば色の薄い品種のイチジクを食べなさいと言われていたそうである。このメキシコからやって来た季節農業労働者だった両親の息子Rは、いまや二つ修士号を持つカウンセラーで教育者である。

 


 

 イタリアン・イチジク

 

 

 

ところがRは、イチジクを好まない。それは収穫していて、鼻につくイチジク臭に耐えられなくなったからだと言う。イチジク臭?聞いたこともなく、嗅いだこともなかった私は、「もしかして、それはサンメイドのレーズン工場の匂いみたいなもの? それとも晩秋の桃の果樹園の匂い?(晩秋に地に落ちたり、木に取り残された桃は発酵臭を放ち、それは酢のようであり、ミントのようでもある)」と聞くと、「もっとひどいよ、あれは。」と言う。うんざりさせる匂いを放つそうだ。フィッグ・ニュートンというイチジク・ロール(あるいはクッキーあるいはビスケット)のお菓子がアメリカにあるが、それもとても苦手だと言う同僚Rである。


 

ewg.org



フィッグ・ニュートンはF.A. Kennedy Steam Bakery(F.A.ケネディ・スティーム・ベイカリー)が1891年に生産、販売し始め、その会社は後にニューヨーク・ビスケット会社と合併、NABISCO(ナビスコ)会社となった。名前の由来は、アイザック・ニュートンからではなく、マサチューセッツ州ニュートンという地名からである。19世紀後半まで多くの医師たちは消化不良や消化が原因で病になると信じており、毎日ビスケットや果実を食事に加えるように勧めていた。フィラデルフィアのイチジクの大好きなベイカーが作ったロールがその医師たちの勧めに則っているのが功を奏し、マサチューセッツ州ケンブリッジのベイカリーが、それに目をつけ本格的に生産に入ったそうである。これは全粒粉のドウにペイスト状のイチジクを挟んで焼いたもので、私の幼い頃から母はどこからか入手して(おそらく合衆国東部に1950年代から住んでいた叔母家族からだったと思う)よく家庭で食したものだ。イチジクの好きな私の好物である。



そんな私の好物のイチジクを題材にした小さなスケッチのような話がある。Kate Chopinケイト・ショパン(ショピンとも発音)という19世紀後期に名の出たアメリカの作家の作品のRipe Figs(熟したイチジク)で、これはヴォーグ誌に1893年掲載された。この作家は順調に名声を得ていたが、後に書いたAwakening(「目覚め」)が、当時としてはあまりに跳びすぎている女性の生き方・考え方として捉えられ、顰蹙を買い、そのせいで彼女は筆を折ってしまった。



短編(一頁ほど)の「熟したイチジク」では、時間の観点とそれがどのように人それぞれに異なるかというテーマを主に書いている。登場人物のママンーナイナイ Maman-Nainaineが「今年はずいぶん早くイチジクが熟したわ!」と言い、若いバベットは「私はずいぶん遅くに熟したと思うの」と言う時などにそれが見られる。ショパンは、いつも老若の成熟程度模様を下地にする作風を用い、このイチジクについても、年上のママンは若いバベットよりずっと辛抱強いということを示している。


 

同時に、いちじくについて、「豊かな緑の葉で縁取られたようになっている1ダースの紫色のイチジク」には熟すまで気長に待つ価値があるのだから、決して急がないという考えも示している。ショパンによってもたらされるこの考え方は、「菊が咲く頃私はトゥサントで彼女を探すでしょう」という言い方にもみられるように、人間は自然のタイミングに依存しているということである。「熟したイチジク」は読者に、すべてが時間とともにしなければならないことを教えようとしている故、この作品は子供向けである、と言う人々も多い。

 

 

それではケイト・ショパン作品の個人的考察はこれくらいにして、捥ぎたての甘いイチジク、いただきます!


 

 


 


 


 


 



 


 


 






 



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小さき存在

2019-07-08 | 人間性

 Del Parson © Intellectual Reserve, Inc.

 

 

 

The End of the Worldと言う歌がある。1962年にアメリカのスキータ・デイヴィスがヒットさせた。邦題は、「世界の果てまで」。この曲は、作詞家のシルヴィア・デイヴィスが、かつての失恋の痛手を書いたものだが、14歳で父親を亡くした彼女はその悲しみをこの曲の基にしたとも言われる。この歌は、その後多くの歌手が歌っている。2004年にスキーター・デイヴィスが亡くなった時、葬儀で、彼女のこの歌が流された。「あなたの愛を失ってしまったというのに、何故日は昇り、波は打ち返し、鳥はさえずり、星は輝くのだろうか?朝目覚めると、何故何も変わっていないのだろう、私はあなたの愛を失ったというのに。」というような歌詞内容である。人を愛すると、世界はその人になるが、その人が去っても、世界は何ら変わらない。でも、本当に?

 

先日、詩人で編集者でもあるSomewhere on a Highwayと言う詩集を出版したマリサ・ドネリー(Marisa Donnelly)のエッセイを読んだ。そこには、人間は確かに小さな存在で、飛び立つ飛行機に乗って見える人間が、だんだん小さくなり、やがて消えてしまう小さな存在だが、しかし小さな存在だからと言って、決して重要ではないということではなく、一人一人の人間は無意味な存在ではない、というようなことが書かれている。これを読んでいて、ふとThe End of the World(実際には人間が小さいとは正反対の意図があるとしても)を思い出したあたり、私も古いものである。マリサ・ドネリーは、エッセイでこう言う。


goodreads.com

 

 

あなたが愛する人を失っても、あなたの心が壊れてしまっても、寂しくても、疲れていても、恐れていても、悲しくとも、そのために世界が止まるわけではありません。しかし、あなたは自分がちっぽけな存在だから、世界が止まるはずはないと確信しています。。。多分たった今そうした荒廃した気持ちを持っているかもしれません。あなたの周りのすべてが崩れ落ちたように見え、誰もあなたの言うことに耳を傾けない、と思うかもしれません。あなたは最初に覚えていなければならないのは、世界はあなたに何一つ貸しがなく、あなたが必要な愛や支持を常に提供してもいないのを知らなければなりません。けれど、それは、あなたの感情が重要ではないということはないのです。

 

。。。あなたが焦点を合わせるとき、あなたは一人一人が極めて重要であることに気付きますー母親(父親然り)、娘、息子、兄弟姉妹、いとこ、学校の先生、医者、ビジネスマン、郵便配達員、秘書など。 一人ひとりが直接自分の周りの人にどのように影響を与えるのか、一人ひとりが目的、役割、義務、重要性をどのように持っているかを見てください。

 

あなたが焦点を当てるとき、ひとりひとりが実際にはとても大きく、とても有能で、私たちの生活に、人生に、変化をもたらしさえできるのを見ます。 そして、ひとりひとりが小さな声で話しても、それは他の人々の声と混ざり合って、輝かしい統一された音を作り出します。

 

そしてそれはすべてたった一人から始まります。。。あなたは小さな存在かもしれませんが、小さな存在は弱いというわけではありません。小さな存在は非重要ではありません。小さな存在は無駄に等しいのではありません。だから、前進し、口を開き、声を上げ、真実を話し、感情を持つことです。。。たった一人でそうする必要はありません。あなたは大切で、そして愛されているのです。


たとえ人ひとり壮大な宇宙にあって点よりも小さな存在であるいはまったく目に見えないとしても、その存在は決して無意味ではなく、その大切は計り知れない。壮大な背景においても、人間を見ることのできる存在がある。私の脳裏に浮かんだのは、ルカ書第7章の話である。ナインという町で、ある寡婦(やもめ)のたった一人の息子が、亡くなり、その遺体を運んでいる葬列に通りがかったイエスが、その母親の寡婦に深い同情を表わし、彼女の状況がどれほどのものであるかを理解していた。その時代、その土地で、その文化で、女一人の経済状態や暮らしを考えると、頼りだった一人息子をも亡くしてその未亡人がどれほどの絶望を感じていたか想像がつく。やつれ果てた彼女がどれだけ神を乞い求め、祈り続けたか、涙の跡が残る頬を目にしたら、その苦しみはわかる。その苦しみから彼女を救うために、イエスはそこで出会ったばかりの彼女の息子を甦らせた。その奇跡もさながら、私が驚くのは、イエスが見ず知らず(しかも只の点に過ぎなかったろう存在)だった彼女を誰よりも深く理解していたことである。社会の中でおそらく最も小さき存在であったろう寡婦にさえ、イエスは深く同情し、躊躇することなく手を差し伸べられ、窮地にあった彼女を救ったのだ。


力がなく、すべての面において、自分は劣ると思う小さき存在を、イエスはお見過ごしにはならず、手を差し伸べるというその確信をここで見る。





ブリガム・ヤング大学古代聖典学准教授のケイス・J・ウィルソン氏は、次のようにこの聖書の話について語る:「この話を思うと,わたしたちは主にとって大切な存在であり,主がわたしたちをお忘れになることは決してないということが,改めて分かります。このことを忘れることはできません。」(Ensign, April 2019)


意気消沈し、悲しみや絶望に打ちひしがれようとも、助けを求めるならば、イエスはすぐそこにいらっしゃり、往々にしてその助けは他の人を通してやってくるものである。そのことを忘れたくない。











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