ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

レジ台で

2021-08-20 | アメリカ事情 人間性

littledreamers.le

 

 

友人の一人は食料品店のレジ係をしている。先日、彼女のレジの列に母親と4〜5歳ほどの小さな娘が並んでいたと言う。そこへ年配の婦人がその親娘のところにやって来て、少女に人形を持っているかどうか尋ねた。「はい」と少女が答えると、その年配の婦人は、「それでは、あなたのお人形用のベッド、欲しいでしょう?」と尋ねた。 少女は再び「はい」と言った。

その婦人は「ちょっと待っていてね。」と言い、彼女の車に向かって歩いて行った。少女の母親は涙を流し始め、「2週間前に住んでいた家が全焼し、子供のおもちゃもすべて失ったんです」とレジの友人に言った。この親娘は、そのトラウマのためのセラピーセッションからの帰りだとも言った。

年配の婦人が人形のベッドを持ってレジ台の親娘のもとに戻ってきたとき、母親はこの婦人を抱擁し、感謝し、最近自宅が全焼し、全てが燃え尽きたことについて彼女に話した。母親は、もう一人の娘があり、二人姉妹がこの人形用ベッドを仲良く共有して楽しむことでしょう、と言った。すると年配の婦人は言った。 「あら、あなたには二人のお嬢さんがいらしたのですね、それではちょっとお待ちください、今もう一つ取りに行ってきますから。」

母親はそうする必要はないことを言ったにも関わらず、婦人は急いで車に戻り、もう一つのベッドを持ってきた。この女性が車の中に手作りの人形のベッドをこの時何故たくさん持っていたのかはわからなかったが、適切な場所に適切なタイミングで適切な人がいて、この親娘に特別な日を与えたのは確かだった。そのやりとりの間、友人はこの母親の買った食料品を袋に入れながら、その母親同様に泣いていたのだった。

 

jasreflections.wordpress.com

私たちはいつもそうとは分かりません、
しかし、ある人々は
覆面をした天使です!

 

 

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蟹とたはむる

2021-08-18 | わたしの思い

Pinterestから。

 

 

人生の目的やゴールやこの世での自分の使命について、はっきりとせず、混沌とした中でいつの間にか惑わなくなると言う不惑をとっくのとうに超えてもまだぼんやり、と言うことはないだろうか。あるいは、育児を終え、子供も成人し、家を離れて独立して、ある日ふと「私の人生、なんだったのだろう?」と考えてみることもあろうか。

若い頃に、一度や二度はこれから続く長い人生に何か大きなことを為したい、ヒーローになってみたい、社会的にも経済的にも成功したい、などなどと夢を膨らませたことだろう。そうなるよう大変な努力をしてきても、人生のどこかで挫折を味わい、苦しみにのたうちまわることもあるかもしれない。あるいは健康に恵まれなかったり、健康だったのにそれを害してしまうこともある。

希望に満ちていた若い頃が苦く思い出され、自分の使命が果されていないと悔やむことも往々にしてあることだろう。この世はちっとも公平ではなく、平坦でもなく、終生凪の穏やかな海でもないのは、それはこの世が荒波を私たちが乗り越えていくための修行の場であるからに他ならない。それでも悲嘆にくれるばかりではないのも人生だ。深い闇の淵の底に行き着いた時でさえ、救いの光や差し伸べられる手は、本当はある。

最近友人は、ある人からメイルを貰った。そこには、「自分の人生の使命がなんなのかわからない」とあった。それを読んで友人は、かつての自分を思い出した。

友人が若い頃、妻子をやっとのことで養い、臨時教師としてあちらこちらの学校で仕事をしていた。幼稚園から高校三年生までのクラスを教え、あらゆる科目をカバーしていた。学年末には、特に授業直前にクラスを教えて欲しいと言う要請が特に多かった。学期末には、来る夏の間の仕事不足が、心配の種でもあった。また、受け持ったクラスが荒廃していたと言うのさえも、その悪さを過小評価しているに過ぎないこともあった。臨時の代用教員への生徒の態度の悪さは、無関心だけでなく、何一つ彼が言ったことに注意を向けてはいなかった。

休み時間に、暑い教室を走り出して校庭へと走っていく生徒たちが外でその有り余るエネルギーをすっかり使い果たしてくれるように期待していたものだった。午後が午前中ほど厳しくないようになることを望みつつ生徒たちを見ていた。すると、その時、小さな女の子が彼に駆け寄ってきた。彼女は一握りの摘んだばかりの野に咲くデイジーを手に持っていた。少女は彼にデイジーを持った手を差し伸べて、「これは先生のためです。」と言った。その瞬間、彼は今まで感じてこなかった喜びを感じた。少女が喜びながら駆け去り、彼は微笑んで彼女の贈り物に感謝していた。

その少女はここ地球上で彼女が存在する目的の一部を瞬時に完了したのだった。友人は、私たちが行うすべてのことが、ここ、この世での生活する目的の一部だと理解したのだった。私たちが行うすべてのことは私たちの生きる使命の一部でもあるとわかった。神は私たちをこの世に於いて、ご自身が私たちを愛しておられるように、お互いを愛することを学ぶようにされた。そしてそれは生涯にわたる過程なので、一人一人の使命や生きる目的について心配することはないのだ、と友人は気がついた。そしてそのことを先のメイルの送り主に書いて送った。

その友人もあなたも私もそんな過程を毎日生きている。

友人がその日瞬時に気づいたことは、私たち全員にも当てはまる。あなたの人生の一日が、学び、そして愛に満ちあふれますように。たまに「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」日があるとしても。

 

 

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知らなくともいいことで知っていてもいいこと

2021-08-14 | 日記

gundamkitscollection.com

左がガンダム氏、右がトランスフォーマー氏。あ、これこれ、正義の味方同士が銃を向けあってはなりませぬぞ。

 

 

全く知らなかった!ガンダムとトランスフォーマーが別物だということを! 今まで同一のキャラクターかと思っていたのは、英国BBC放送記者ばかりでなく、この私もそうである。早速Googleで調べてみても、わかるようなわからないような、余計こんがらがるような。。。つまりガンダムは人が乗り込んで操縦し、トランスフォーマーは自身で行動する、ということなのだろうか。でどちらも、正義の味方、でよろしいのだろうか。東京オリンピックの報道で少し話題になり、英国BBCがガンダムをトランスフォーマーと呼んだことを記事にしていたので、その時私も開眼させられたのだった。その違いがわからずに、6人の孫息子達に日本にはかっこいいトランスフォーマー”達”がいる、などと自慢できないではないか。

日本のことなのに、まるで2003年の映画Lost In Translationのような気持ちになった。この映画の題名は、異なる言語(あるいは文化とも取れる)と言語がいかに上手に訳されても、意図することがきちんと伝わらなかったり、小さなズレが生じたり、100%であるべきが、95%ほど、と言う感じのことを言う。同じ言語でもそう言うことは起こりうるのだろう。

スエーデンのニコラスは、ニ男の義弟で、初対面の時、まだ中学へ入りたてだったが、私に彼は「ひぐらしの鳴く頃に」が大好きだ、と言った。「ひぐらし」云々は、日本語で言ったのだ。聞けば小学生の頃から、日本のアニメや漫画が大好きで、夢中だと言う。

勿論私はそのような題名の漫画は知らず、急いでWikiで調べたが、それほど子供向けには思えなかった。それを英訳で読んでいたこの頬の赤い少年は、それでいて、デイズニーのDuck Tales(邦題:わんぱくダック夢冒険)の漫画本を居間のカウチに座って夢中で読んでもいた。おそらくこのニコラスならば、ガンダムとトランスフォーマーの違いをしっかり知っていることだろう。

Lost In Translation(否、ここではLost In Transformers,であろうか)を極力避けたいならば、やはり他言語に精通することなのかもしれない。ニコラスはスエーデン語の他に英語は勿論、フィンランド語、ドイツ語などもよく知っているようである。南スエーデンに住むこの少年は、日本や日本の文化へも興味を広げていた。

そうだ、スエーデン人で日本へ庭師修行に行き、とうとう日本に帰化してしまった村雨辰剛さんのようである。日本家屋をあちらこちら改造したり、修理したり、縁側で七輪でサンマを焼いて食事を整えるこの方も、ガンダムとトランスフォーマーの違いをご存知であろう。

あるいはこんな違いも知らなかった私は、やはり鉄腕アトムや鉄人28号やマグマ大使時代の産物だからかもしれない。日本のことで、Lost In Translation効果を起こしたことは、結局なかったことにしよう。

  

 

 

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逆さまに飛んでいる

2021-08-12 | アメリカ事情 人間性

Credit: Vincent Cornelissen @b0unc1971

ヒシクイというガチョウが逆さまに飛んでいるのは単に見せびらかしているだけだ、

と専門家は言う

 



この逆さまに飛んでいるヒシクイ(ガチョウ)が何故こんな飛び方をするのかについて専門家間で激しい議論を引き起したと言う。

撮影した写真家のヴィンセント・コーネリッセン氏は、世界中の人々から、このガチョウが逆さまに飛んでいることについての情報を求める何千ものメッセージやコメントを受け取ったと語った。

コーネリッセン氏は、3羽のガチョウをオランダの町アーネムの近くで写真撮影していた。

「3羽のうち1羽が直進飛行に苦労しているように見えたのです。向かい風のせいで苦労していたようでした。そこでシャッターチャンスを狙ったのです。」と語った。

彼は写真を現像するまでこの1羽についてあまり深く考えもしなかった。

「何か特別なものを撮ったことにすぐに気づきましたが、同時に、誰も私を信じてくれないのではないかと心配もしたのです。画像はまるでフォトショップアプリで編集されたように見えましたから。」


 奇妙な飛行行動には、バレルロール(barrel rolling=横転しながら首を持ち上げる)と名を含む多くの呼び方があるが、公式の説明は「ホイッフリング」(whiffling=一定の形に定まらない飛び方)だそうだ。

「ウィキペディアでは、鳥類学で鳥がジグザグに横滑りする動きで急速に降下する行動を説明するために使用される用語がその呼び名です」とウィキペディアの説明は述べている。 続けて、「時々、鳥は背を下向きにし、体を逆さまにして、首と頭を通常の位置で180度ひねった状態で短時間飛行する。これにより、通常、飛行中に鳥を持ち上げる空気力学が反転し、鳥は短時間飛行する。これをすぐに逆転し、鳥が通常の飛行方向をとる前に、まず地面に向かって急降下する。」とウィキにはある。

オランダの野鳥保護機構の野生生物写真家兼自然保護科学コミュニケーターのラーズ・ソエリンク氏は、この写真のガチョウは新しい飛び方のトリックを学んでいるところをたまたま写したのだけかもしれないと語った。

「若いガチョウが飛行をマスターすると、彼らは何が可能で、どこまで行けるかを見極め始めるのです」とソエリンク氏は続けた。

しかし、彼は又「このガチョウは仲間に自慢するためにそんな飛翔をしたのかもしれませんね、ほら、『ちょっと、見てみて!』と見せびらかすように。」とも語った。

 

********

 

Covid-19に対するワクチンがいくつか出回り始めて半年ほどが経ったが、今現在のカリフォルニア州の接種率は、二回接種が54%で、東部のヴァーモント州が68%と一番高くなっている。顕著なのは、選挙時のブルーステイト(リベラルな民主党寄り)の州では接種率が高く、レッドステイト(保守の共和党寄り)では接種率は、30%台で低迷している。冷静になれば、ワクチン接種は、政治の旗色に関係がないのは、を見るよりも明らかだ。以前にもまして、変異株のCovid-19があっという間に猛威をふるい、死者も相変わらず右肩上がりで増え続けて、医療従事者の方々のご苦労が、人ごとではなくなってきている。かと思うと、世の中には必ず一つのことに賛成するものがあれば、反対するものも出てくる。それは、Anti Vaxxers(アンタイ・ヴァクサーズ=ワクチン接種反対者)である。

アンタイ(アンチ)・ヴァクサーズのワクチンに反対する理由は、ワクチン治験期間が短すぎる(らしい)、副作用・副反応への恐怖・拒絶、不妊につながる(らしい)、マイクロチップを針先で注入される(らしい)、自分の体は自分で守る、などで、これらはごく少数のSNS界でインフルエンサー(世の中に多大な影響を与える人)が述べたことが拡散されて、多くの人々は真偽を確認せずに闇雲に従ってしまうのである。つまり一人のインフルエンサーが、ワクチンなど信頼できるか、とSNSで発信すれば、それがトレンドとなり、反対を支持することが「カッコ良く」なってしまうらしい。いわば、ヒシクイというガチョウが、ひっくり返って飛翔するところを他のガチョウや鳥に見せびらかし、他がそれを真似てみたくなるようなことではないだろうか。

私の身近にも、そんなインフルエンサーを信じ込み、科学的根拠のないままに、ワクチンを避け、マスクさえも基本的人権に反すると真面目に装着しなかった若い母親が、先日自身どころかその夫まで巻き込み、変異株に感染して今苦しんでいる。もしこの夫婦が重い症状を起こし、回復せずに逝ってしまったら、二人の幼い子供達はインフルエンサーが面倒を見てくれるのだろうか。勿論インフルエンサーは一切責任を持たない。

新しい飛翔のあり方を模索するヒシクイも、やがて首が疲れ、体勢を通常に戻す時に起こる急降下に間に合わずに、地上に衝突してしまうかもしれない、「革新的な飛翔法」という当てのない賭けに負けて。

 

 

 

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ただいまと言い訳たらたら

2021-08-11 | 日記

Ålandオーランドは、スエーデン語の通じるフィンランドの島。

 

 

ある日、はたと消えて、別の日に忽然と現れるのが趣味のような私であるが、夏は本当に苦手で、しかしながらこの数週間は、決して吊られたハンモックに揺られて溶けたチーズになっていたわけではなく、それなりに、忙しかったのは、真実、である。家族の、つまり子供達の移動がかなりあり、それに伴う雑事に翻弄されていたのがご無沙汰の理由である。感染も怪我も不幸もなかったのは実にありがたい。

長男は三年に渡ったフロリダ州研修を終え、先週から南カリフォルニアの大学病院で一年のフェローシップを始めている。外科手術と医学部の教鞭も取る忙しさ。長男は、美容整形も含めた眼科手術と通常の白内障手術やレイシックも手掛ける。来年どこに落ち着くのかはわからないが、毎日健診、治療、手術、教授と忙しく過ごしている。姉妹たちにボートックスや整形だったら、自分ができるよ、と日曜日の午餐時に交わす会話に、それだったら、母親優先に試してもらおう、などと言う意見も出て、賑やかである。4歳半の一人娘と遊ぶことが最大の楽しみな若い医師である。

次男は今年早々にある世界的規模の会計監査・税理業務会社にそれこ大根の如くに引き抜かれ、コペンハーゲン勤務となり、Covid-19渦中において、ドイツ・フランクフルトから一家で引っ越した。コペンハーゲンはニューヨークシティよりも物価が高く、エースレンド海峡を渡ったスエーデン第三の都市、マルメに住まいを移した。そこは妻の実家にも近く何かと便利である。治安が良い街ではないが、家族は比較的安全な住宅地に居を見つけた。先週末は恒例のオーランドでのヴァケイションを終え、フェリーで帰宅し、この月曜日から仕事に復帰である。ハワイに住んでいた時も、ドイツにいた時も、三男はこの恒例のヴァケイションを毎年意地のように続けていて、流石にそこは私の子供だ。ここの孫達はすでに英語とスエーデン語、ドイツ語少々で育ってきている。ママの母国で、のんびり育児をしていくのは、彼女の望みでもあった。私たちとしても、彼女の両親・兄弟が近いのに安心している。

三男は先週カリフォルニア州を離れ、他州に於いてのある計画のために頑張っているが、その達成に備えて、化学・科学の教師として、いわゆる日本で言う「偏差値の高い」高校でこの月曜日から働いている。そこの同僚や教会の人々は息子がカリフォルニアからやってきて、即時にその高校での仕事を得られたことにとても驚いていると言う。その学校での教員の空きは、珍しく、また応募にはかなりな競争率があると言われているそうで、それは親の私とて不思議だと思うが、これは単なる偶然の気まぐれ、ひたすらラッキーな子だからだろう。お断りしておくが、うちには、天才・秀才と名のつく子供はおらず、よってこれは運というものの仕業以外の何物でもない。ここで夏を過ごした三男家族のうち、年長の孫息子5歳はスイミング・プールで、八つ墓村の如くに、逆さ立ちして、老婆(私)を驚かせるほど魚になった。

末娘の夫はサンディエゴの法学部を無事卒業し、4月にすでにこちらに越してきた。7月には恐怖(でもない)の司法試験を終え、10月の合否発表まで、弁護士の父親の事務所で雑用係となる筈である。試験後には、彼の父親がアラスカへ鮭やオヒョウ釣りの旅をプレゼントし、その父と10日間楽しんできたが、帰宅早々今度は「糟糠の妻」(つまりウチの末娘)を連れてしばらく夫婦だけでレッドウッドフォレストへヴァケイションに行く。その間一人息子の孫は、彼の両親や我が家で見る。7月に2歳になったこの子は、気性がよく、扱いやすく、どちらのグランマも非常に子守を楽しみにしている。

結局親の傍らにいつも暮らしてきている長女一家だけは、引越しもなく、移動もない。二人の息子達だけが、毎日成長し、7歳になる孫息子は、今年の夏、空はまだ飛べていないが、魚にはなった。恐竜と、「あつ森?」、マインクラフトやそのレゴ、ポケモン図鑑にきのこ図鑑に、やたらに夢中で、ベイビーヨーダのレゴの大作も始めるなど、忙しく、またレゴ・キャンプと科学キャンプにも参加し、充実した夏だったようだ。その送り迎えは婆ちゃんの私が担当したり、レゴを手伝ったり、楽しく過ごした。なんだ、結局私は孫達と遊ぶのに夢中になっていただけで、これが衝撃のサボリの真相らしい。

このように、4家族が移動し、新しい世界に足を踏み入れて、非力ながら助けるところは助け、サポートするところはサポートして、この数週間私は身をすり減らして遊んできたわけである。今週からは、キャンパス夏時間は、秋冬春の通常勤務時間に変わったところで、身を引き締めて(あくまでも精神的)新学期に備えている私だ。それにしても私自身いい加減に大学院から引退しようとその日を来年暮れに定めてはいる。夫はいまだ忙しく、まだまだ続けることだろう。

休んでいる間にも、コメントを下さった方々には、追々ご返事いたします。ありがとうございました。

こんな夢みがちな小さな乙女に、遊ぶ時間ないわよ、と言えるだろうか?むりむり。

 

 

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