2012年4月10日 天皇皇后結婚記念日夕食会へ
FRIDAY 2012年4月27日号
「皇室激震!雅子妃「体調悪化発表」の舞台裏~天皇を二回続けて見舞った後で」
・小町東宮大夫の記者会見
・雅子妃は疲れがたまり体調が崩れやすくなっている
・当面はお疲れを取ることを優先して頂きたい
・雅子妃は3月24日に行われた眞子内親王の成年のお祝いを欠席
・健診で特に異常があったわけではなく温かく見守られているという環境が必要
・金澤医務主計官「雅子様のことはわかりません。本当にあの方だけはわからない」
小和田夫妻がわざわざ天皇へのお見舞い基調に行った事も皇室側からすれがパフォーマンスとしてとらえられた。
今、思い返してみるとこの文章から感じるのは、雅子妃が「自分が尊重されていない」と感じると荒れちゃうんだな・・・・ということ。天皇の見舞いの時の不機嫌さも「私より天皇が大事なの?」って事だったのでしょうか。
眞子様のお祝いに行かないことも個人的に眞子様がどうのというより、自分より注目を集めて褒められる眞子様を見たくなかったのではないかと。
2012年5月3日 御料牧場静養
2012年5月16日 英国訪問の両陛下お見送り
2012年5月20日 帰国の両陛下のお出迎え
2012年6月6日 三笠宮寛仁殿下逝去
2012年6月12日 三笠宮寛仁殿下殿下の通夜
2日目は欠席
2012年6月14日 三笠宮寛仁殿下葬儀
2012年6月20日 皇太子、故ナエフ皇太子の弔問の為、サウジアラビアへ出発。妃の見送りなし 翌日も出迎えなし
2012年6月25日 東南アジア三カ国訪問の皇太子の見送り
2012年6月12日 愛子内親王の登校姿
この頃、しきりに「親離れ・子離れ」と週刊誌に書かれている。
2012年7月1日 帰国の皇太子を迎える
サンデー毎日 2012年7月22日号
「いまだに授業参観 子離れ出来ない雅子さま」
7月5日 マスク姿で愛子内親王登校
雅子妃は今でも週に2・3回は授業参観している。午前中に学校へ来て貴賓室に。午後は愛子内親王より早く帰る
5年生になっても雅子妃は子離れ出来ない
愛子内親王ははっきり言う生活で、専科の先生が担当する算数のテスト問題に対し、「先生、この問題は難しいです。難しすぎると思います」と発言
その後の父母会で先生が「算数のテスト問題について生徒から指摘があり、配慮が足りない部分が確かにありました。今後はもう少し児童の理解できる内容に改めます」
その後、テストの問題数が半分に減った。
東宮御所から初等科まで歩いて10分。なのに車で登校している愛子内親王。なぜ特別扱いするのか。
週刊新潮 2012年7月19日号
「「天皇皇后」昼食は颯爽と辞退の雅子さま」
7月3日 明治天皇100年祭の進講に皇太子のみ参加の予定だったが急きょ雅子妃も出席
皇太子は当日、東南アジア訪問の報告もあり午前10時に皇居に到着。その10分程あとに雅子妃が車で通過。マスコミは撮影に間に合わず。
雅子妃の起床は昼が普通。早くても午前9時~10時。
本当は、進講のあと皇太子と、その日皇居に参内していた黒田清子さんと両陛下が親子水入らずで昼食をとる予定だった。
しかし、突如、雅子妃が進講に陪席しその後、夫妻で帰ってしまった。
小町東宮大夫の定例会見
「お答えは差し控えます」
雅子妃が帰る事にして、皇太子は一人にしておけず一緒に帰ったのでは
両陛下と関係のよい紀子妃に焦っている。
女性セブン 2012年7月26日号
「前皇室医務主管衝撃発言。雅子さま「これでは治らない」医療体制の崩壊」
・「今、国民の中にも雅子妃殿下のご行動に疑問を感じる人が出てきてると思います。詳しい説明がなされないまま自分の好きなことをなさってくださいということと、一方でご公務に出られない事のギャップへのと戸惑いですね」
・「大野先生に来ていただいたところまではよかったのですが、少なくとも私が意図した方向で治療システムが構築されたとは残念ながら思ってはおりません」
・もう大野先生を変えた方がいいのでは?9年も経つのに快復しないから。
・こうなった責任の一端は大野先生にもある。
・東宮大夫の定例会見で記者達が「いい加減いつ治るんですか、いつ治してくれるんだよという気持ちがある・
「主治医として責任をとってしっかり話したらどうか」
「雅子さまは逆に悪くなっているんじゃないか。国民を馬鹿にしているような印象をうける」
・大野医師も雅子妃の病状を説明しようとした時もあったが、どうしても雅子妃が了承せず、それっきり大野医師の診察を受けなくなった。
週刊現代 2012年8月4日号
「前代未聞!雅子妃の担当医が天皇家の元主治医を大批判ー悪いのはそっちだ」
・ 金沢主管のいうことは自分が雅子妃の主治医という以外は全部事実に反する
・心の病気なのだから長い目で見守れ
・香山リカ「公務を一切やらない決断も必要だ」
令和になっても同じことをやってる皇后陛下です。
「適応障害」という病名も大野医師と一緒に作りだした病名ですし、とにかく皇室に「仕返し」したくてしょうがないという感じです。
進講にいきなり出て来たのは、「皇太子を一人にすると何をしゃべるかわからない」という不信感があったのでしょうね。
学校に入り浸ったのはそれが、安心できる環境だったのでしょう。
東宮御所より学校の貴賓室あるいは教室という部分がもう・・・病んでます。
「特別扱い」されていたのは愛子内親王である事がはっきりしましたね。